日本史オンライン講義録

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019 元明天皇の時代

前の飛鳥時代の最後の天皇文武天皇なんですけれども、文武天皇には子供がいてのちに聖武天皇となります。文武天皇が亡くなった時に文武天皇の子がまだ幼かったので、一旦子どもからお母さんの前に位が戻っていきます。そのお母さんといいのが元明天皇です。女帝ですね。

 

元明天皇の時代

和同開珎

今回、元明天皇ともう一人政治的手腕を握った人物がいました。奈良時代のポイントは天皇と権力者をセットで抑えるのがポイントです。その権力者というのが藤原不比等です。さぁ、この元明天皇藤原不比等がタッグを組んだのが奈良時代の始まりです。ここで奈良の都について話をしたいのですが、元明天皇が奈良の都に遷都する前にとても縁起の良い出来事がおこりました。それが、和同開珎という貨幣をつくったのです。武蔵国(いまの埼玉県)から大量の銅が発見され、この銅をプレゼントされたのです。プレゼントされたことを記念して、その銅を使って新しいお金を作りましょう、ということで年号を和銅と改め、708年に和同開珎という名前のお金を鋳造したのです。これは日本初の本格的な流通を目的とした政府鋳造の貨幣、それが和同開珎です。なんでこんな回りくどい言い方をしているかというと、富本銭という日本初の貨幣があるのですが、これは流通を目的とはしておらずある種まじない的な目的で使われたといわれています。さて、この和同開珎は、国をあげて鋳造した貨幣でして本朝十二銭の最初ということも押さえておいてください。

 

平城京遷都

さて、いよいよ立派な平城京が710年に遷都します。平城京の前は、藤原京でしたね。藤原京から遷都されたのが平城京で、ここからいよいよ奈良時代に突入です。まず、モデルとしたのは中国の唐の都・長安です。平城京は、四角形の形をした都市なのですが、碁盤の目のように街路で区画された条坊制でつくられています。以前、田んぼがマス目状になっているのを条里制といいましたが、街が碁盤の目のようになっているのを条坊制といいます。天皇がお住まいになる内裏が都の中央北部にあって、その内裏から南北にのびる大通りのことを朱雀大路すざくおおじ)といいます。朱雀大路の東側を左京、西側を右京といいます。おいおいおい、逆じゃないのか?と思うかもしれませんが、これは天皇からみて右手側にあたるので右京、左手にあたるので左京といいます。そして、平城京の場合は、この外京もあるので平城京の特殊な形の一つとして覚えておくと良いでしょう。そして、天皇がいらっしゃるエリアのことを平城京の中でも平城宮といいますね。で、この平城宮の中には、内裏(天皇の住まい)、大極殿儀礼や政治の中心)、朝堂院、あるいは二官八省が置かれています。そして、この平城京の奈良の都っていうのはお寺がたくさん作られることになります。この平城京のことを京都に対して奈良は南に位置していますので、南都七大寺と呼ばれたりしています。

南都七大寺の覚え方)東大が最高峰や

東大寺・大安寺・元興寺西大寺興福寺法隆寺薬師寺

では、品物を売買したりする市が左京と右京に一つずつ置かれます。東の市と西の市を監督したのが市司(いちのつかさ)です。いまは奈良市街が広がっているのですが、この奈良市街の下にはかつての平城京があった証がいくつか発掘されていて、長屋王というこのあと登場してくる権力者がいるのですが、この長屋王の邸宅から当時のことをしる史料として木簡が出土しています。こうした平城京に遷都をして、ここから奈良時代ということになります。

 

地方整備

そしたら、平城京がつくられたのと合わせて、地方社会も整備されましたよ。それは奈良の都をスタート地点として、いろいろな方向にのびる官道を整備しました。日本各地に道路網を整備したこと、そしてその道路網に駅制というものを敷きます。この官道の一定距離、だいたい16キロくらいに駅家(うまや)といって、いわゆる道の駅みたいなものを設置しました。16キロも歩けばヘトヘトになるわけでここで休憩したり、馬もヘトヘトになるわけなので馬そのものを乗り継ぐことなども駅家で行いました。で、このことから一定距離ごとに馬を乗り継いで移動するような気持ちで走る競技がありますよね?正月に関東の学生たちが走っていますよね、箱根駅伝。駅伝の由来というのは、この駅制から来ているんですね。

 

蓄銭叙位令

そうすると、都をつくりましたよと、そして地方社会も整備してきましたよと、でもね、元明天皇にとって頭を悩ませることが1つありました。それは、元明天皇の目玉政策であるアレですよ、和同開珎。せっかく和同開珎をつくったのに、みんな使ってくれなかったのです。モデルとしている中国でカネ社会となりつつあるのに、日本ではなかなかお金をつくってくれない、せっかくつくったのに、そうだ!こうしたらお金を使うようになるだろう、ということで、蓄銭叙位令をだしました。目的は、和同開珎の流通を促すためです。和同開珎をためた人には位階を与えるからさぁ、みんな使ってよーっていうことで流通を促すのですが、この元明天皇は経済にはあまり精通していなかったのでしょうね。貯めたら位階を与えるよーってことは、位階を高めるために逆にお金を溜め込んじゃって、使わなくなるわけなんですね。ですので、蓄銭叙位令はみごと失敗に終わります。

 

支配領域の拡大

奈良に都を移した朝廷ですが、たとえば東北の北のほう、九州の南の方というのはまだまだ朝廷の命令が届かない状態でした。なので、兵隊さんを派遣し、政府活動をしながら支配領域を拡大していくわけですね。まずは、東北地方ですが、蝦夷とかいて「えみし」と読みます。東北地方にはそれまで陸奥国という国が置かれていましたが、より支配を効率的に進めるために2つにわけて日本海側に出羽国を置きます。なので、東北の太平洋側は陸奥国日本海側は出羽国が置かれることになります。その出羽国には拠点となる秋田城が設置されます。一方で、九州の南の方をみていくと、隼人(はやと)といって、たとえば薩摩隼人ともいいますが、南九州の隼人を支配しにかかります。鹿児島県には2つ半島があって、西の薩摩半島と、東の大隅半島がありますが、この大隅半島大隅国おおすみのくに)を作りました。

 

古事記の作成

元明天皇、結構いろいろなことをやっていますね。そんな元明天皇ですが、古事記を712年に作成しています。いろんな人の歴史あるいは各地の神話を取材して聞いて来た稗田阿礼が語ったストーリーを、太安万侶(おおのやすまろ)が記録していきました。たとえば、天照大神の話であったり、イザナギノミコト、伊邪那美命の話など、そういった各地で伝えられた伝説を稗田阿礼が暗誦し、太安万侶が筆録するというスタイルをとったのでした。

 

どうですか?元明天皇すごいですよね。和同開珎を作り、平城京を遷都し、蓄銭叙位令で失敗はするものの、蝦夷の支配や隼人の支配にのりだし、古事記まで作らせる。盛りだくさんな女帝のお話でした。

 

元正天皇の時代

前回は,のちに聖武天皇となる皇子がまだ幼かったため,かわりにワンポイントリリーフで即位したのが元明天皇でしたね。リリーフ登板とはいえ,結構たくさんの事業を手がけた女帝でもありました。そして,いよいよ聖武天皇の出番かと思いきや,まだ早すぎるとして,リリーフのリリーフとして元正天皇が登板することになります。元正天皇というのは文武天皇のお姉さんにあたる人です。そんな女帝である元正天皇とタッグを組んで政治をしたのが,引き続き藤原不比等です。

 

では,この元正天皇の最初にやったこととして,すでに存在している大宝律令を時代にあった形にバージョンアップさせましょう,ということで718年に養老律令を作成します。ただし,施行はまだ先です。ここ注意しましょうね。そして,続いてやってのけたことは何かというと,日本書紀の作成です。前回,古事記を作成したときの天皇が言明天皇でしたが,これが日本書紀になると元正天皇になります。この日本書紀を作りなさいよって命令を受けた人が舎人(とねり)親王というです。この日本書紀ですが,編年体で書かれてあって,つまり年代順に作成されています。ちなみに,古事記はというと誰々について書きます,誰々についてかきますっていう紀伝体で書かれています。

 

さて,2人の下で政治的手腕をふるった藤原不比等ですが,ここで死去してしまいます。このあと,政治の権力者は長屋王に移っていきます。そして,この長屋王が時の権力者として政治に関与するようになると,ちょっとある問題が起きてくるわけですね。長屋王が権力の座につき,国の様子を見ながら,さてこれからどんな国造りをしていこうかなっていうことになると,実は土地のあり方が結構変化しているなぁっていうことに気づくわけです。具体的にどんな土地のあり方が変化したのかっていうと,田んぼが足りないっていうことに長屋王は気づくわけですね。どうして田んぼが足りなくなったのかというと,たとえば子どもが生まれて6歳になると口分田が渡されるわけですよね。そうすると,国の人口が増えてしまうと,やがては班給すべき口分田が足りなくなってきてしまうんです。土地のあり方に変化があった要因その1としては,人口増加により口分田不足に陥ったということが言えます。そして,そに2としては,口分田を渡したはずなのに,その口分田を捨てて逃げちゃう人が続出したのでした。というのも,税金が重くてとっても大変だったから 。実は,田んぼにかかる米の税「」だけであれば問題ないのですが,出挙(すいこ)といって,頼んでもないのに稲を貸し付けられて,そして利子をとられる,これが半ば税金をとられるのと同じ効果だったわけですね。この出挙がやがて返せないわけですよね,借金を強制的にさせられて利子がもう払えないってなっちゃうという最悪のパターンですね。もうそんな苦しいことされるくらいだったら,この土地を捨てて逃げたほうがマシだ!ってことになるのです。税負担が重くて,浮浪したり逃亡したりしてしまうわけですね。浮浪っていうのは,どこか別の地域に移ってその土地で調とか庸といった税を納めるのに対して,逃亡っていうのは姿をくらませて行方不明状態のことをいいます。

 

口分田の不足 

このように,口分田に使える田んぼがどんどん減っちゃってます。しかも,一度渡した口分田のはずなのに,この口分田が耕されておらず,渡した土地なのにその土地から税がとれない状態になってしまっています。渡したはずの口分田も耕してなくって,逃げ出してしまった奴らがいる。当然,財政が悪化する,そこで,長屋王らはこのようなことを考えます。「荒れ地を開墾して,これから増えていく人たちに口分田をどんどん渡していけば財政がよくなるんじゃないかな」と。

百万町歩開墾計画

そこで,まずは耕せる土地を増やそうじゃないか,ということで722年に出された計画が百万町歩開墾計画です。百万町っていうのは100万町歩という面積の田んぼをさかんに開墾しましょうとするものです。めざせ,百万町歩!っていう感じではあるのですが,あまり効果はありませんでした。やっぱり,開墾しよう!って言われただけではモチベーションあがりませんよね。しかも,この百万町歩っていう計画も壮大すぎたんですね。それもそのはず,当時の日本の面積を全部割り出したとしても88万町歩しかないのに,100万町歩っていっておきながら結果的に開梱できたのは1000町歩程度で,スローガンが大きいわりには効果があまり出なかったわけです。

三世一身の法

そこで,三世一身法(養老七年の格)が出されます。スローガンばっかりでかくて,開墾する人のモチベーションがあがってこないような計画ではだめだ,ということで,新たに灌漑(かんがい)施設を作って開墾した土地には3世代にわたってその土地の私有を認めよう,あるいは旧灌漑施設を使って開墾した土地には1世代限定でその土地の私有をみとめよう,といった法のことを三世一身法といいます。ちなみに灌漑っていうのは,水のあるところから水のないところに水を引く施設のことです。このように,民間人の力を使って田んぼを広げようとしたのです。しかし,3世代あるいは1世代経過したら,その土地はどうなるんですか?って感じなのですが,それはもともと国の持ち物なんだから返却してもらうことになりますよってなるわけです。口分田が不足しているから,緊急的に田んぼを増やそうとしているのですが,開墾者からすれば「なにさ(723)。どうせいつかは国に返さなければならない土地なんでしょ」ってことで,723年に出された三世一身法もあえなく効果は一時的だったのです。ちなみに,このあと聖武天皇の時には墾田永年私財法といって新しく開墾した土地は永遠にあなた一家のものにしてもいいですよっていうことになって,人々もようやく開墾しようってやる気になっていくのでした。

 

ということで,奈良時代元明天皇に続く元正天皇の時代についてでした。ポイントとしては,元正天皇のときの途中に藤原不比等から長屋王に政権が交代したこと,そして,土地の不足っていうのが明るみになって土地が足りない,税もとれない,だから田んぼを新しく作りましょうということでまずはスローガンをたてたのですが,スローガンだけじゃ人はなかなか動かない,そこで一部公地公民を崩して,3世代・1世代は自分のものにしてもいいですよっていったものの「なにさ,いつかは国に返すんでしょ?」っていう,そこのところでみんな本気になれず,失敗してしますのでした。今回はここまでです。