日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

021 遣唐使・支配の拡大・民衆の生活

それでは今回は,奈良時代の社会全般のお話をしたいと思います。まず,奈良時代遣唐使がさかんに派遣されていました。で,この唐というのは,隋を滅ぼし建国されました。そして,その首都である長安は世界的都市でして,たとえばイランとか西ヨーロッパなどからの交通拠点となっていたわけです。

遣唐使の派遣

そんな唐に派遣された遣唐使の目的は何なのでしょうか?それは,律令制度といって先進的な政治の制度や発達した文化を学ぶために派遣されました。

 

主な遣唐使

いろいろな遣唐使がいるのですが,奈良時代の前の飛鳥時代では,第1回遣唐使として犬上御田鍬がいましたね。これは,飛鳥時代の人物です。そして,奈良時代になると,聖武天皇の時代の中でも橘諸兄政権で用いられたのが吉備真備玄昉というお坊さんでした。そして,遣唐使の一人として唐に渡り,その学びの姿勢や能力を高く評価され,唐の皇帝・玄宗皇帝に重く用いられたのが阿倍仲麻呂です。

 

平安時代になると,中国の密教あるいは仏教を伝えた最澄空海が有名なのですが,のちに菅原道真という人が遣唐使を中止します。この唐という国は,キラキラと光る政治や文化の中心だったから,みんな唐に渡ったのですが,この唐が衰退して滅びる寸前の時期になってくると,得るものはもう何もなくなったってことから危険を犯してまで航海する必要性はないということで,遣唐使も派遣されていくのでした。

 

遣唐使の形態

さぁ,それでは遣唐使のスタイルについて少しお話をしておきたいと思います。まず,遣唐使の船はかなり大型船なのですが,何隻で渡るのかというと4隻の船にのって渡海します。4隻の船のことを「よつのふね」といいます。初期は,北路ルート(朝鮮半島沿岸を経由するルート)といわれる航路を使って唐に渡っていました。北路は,九州の北部・博多から出発して,朝鮮半島に渡って,遼東半島山東半島をたどって,常に陸地を見ながら船にのれる安全ルートでした。

しかし,新羅との関係が悪化すると,航路ルートも変更を余儀なくされます。というのも,あの天智天皇のときに白村江の戦いで大敗したあと,唐・新羅郡の来襲を恐れて都を難波宮から近江大津宮へ移しましたよね。防衛を強化するということで水城をつくったりもしました。この唐・新羅との戦いのあと,朝鮮半島の近くを通ると,もしかしたら襲われるのではないかということで航路ルートを変えたのでした。8世紀ごろからは,危険な南路ルートや南島路ルートを経由して,入唐するにようになります。南路というのは,中国の上海あたりを目指して海を渡り,そのまま陸上で長安をめざすルートます。南島路というのは,沖縄のちょっと北にある奄美大島まで南下をして,そこから上海へ渡るというルートになります。

 

遣唐使の船というのは,250人から多いときでは500人も乗れるのですが,船の構造的にはまだまだ弱く,いわゆる方舟みたいなものでしたので,そんなもろい船にのって南路や南島路で航海するというのは非常に危険でした。ですので,初期の北路に比べると,南路や南島路をつかった航海では,非常に多くの船が難破をし,嵐に遭遇すると帰れなくなることも多々あったのでした。満足に,四隻もどってきた遣唐使の方が少なかったといえます。ちなみに,この北路から新羅との関係が悪化したことによって南路に変更となったっていう一連の流れは,毎年行われる進研模試では出題されない年のほうが珍しいくらいメジャーですので,必ず抑えておいてください。

 

その他の国々との外交

新羅との関係

まず,さきほど話題にのぼった新羅との関係についてお話をします。この白村江の戦いの理由になったのは,新羅百済を攻め滅ぼしたことによるところが大きかったですよね。その結果,新羅朝鮮半島を統一することになりました。白村江の戦いの後,日本は遣唐使を派遣するレベルにまで唐との関係は修復することになりましたが,朝鮮半島を統一した新羅とはどうだったのかというと,日本は新羅の属国として扱われるなどされたため,日本と新羅との間では緊張状態がしばらく続くのでした。そういうことですので,遣唐使のルートも北路から南路・南島路へと変更せざるを得なくなるのでした。

 

渤海との関係

もう一つは,この中国の北東部,朝鮮半島の北側にあった渤海(ぼっかい)との関係ですが,日本とは比較的友好関係をむすぶ国でした。

 

以上,奈良時代の外交のあらましでした。

 

領域の拡大

東北地方

つづいては,東北地方における領域の拡大についてみていくことにしましょう。飛鳥を中心とする,奈良を中心とする朝廷は,まだ日本全国を支配しきってはいません。たとえば,東北地方には蝦夷と言われる人々が朝廷の支配に対して抵抗をしていました。これに対して,朝廷はどんどんと東北地方を攻め上げていって,朝廷の支配を拡大していくのでした。東北地方にすむ人々のことを蝦夷(えみし)といったことは思い出しておいてくださいね。この蝦夷たちに対して,朝廷は7世紀半ば頃に,東北の日本海側に渟足(ぬたり)磐舟(いわふね)に砦を設置しました。これを渟足柵(ぬたりのさく)磐舟柵(いわふねのさく)といい,746年に設置します。斉明天皇の頃に,阿倍比羅夫が遠征をするわけですね。主に,日本海側を攻め上げていきます。この後,奈良時代に入ると,日本海側の出羽国秋田城が築かれました。そして,724年には太平洋側の陸奥国にも国府となる多賀城を設置するわけです。

 

南九州地方

南九州の人たちのことを隼人といいますが,この隼人を圧迫しつつ領域を拡大していきました。7世紀末ごろには,朝廷が,屋久島や種子島などの薩南諸島と交易を持ったことが伝えられています。そして,8世紀になって大隅国が置かれるようになります。

 

奈良時代の民衆の暮らし

つづいては,奈良時代の民衆のくらしについて紹介をしたいと思います。

 

住居

竪穴式住居から,掘立柱住居へと移行するのがこの奈良時代です。竪穴住居というのは,穴をほって藁や茅で屋根をふいていくスタイルですが,掘立柱住居は,地面の上に柱を建てて,屋根がふかれた住居のことを指します。つまり,地面の中から,地面の上に居住スペースを移し,柱を連続させることでさらに居住スペースを広くとれるのが特徴です。

 

結婚

男性が,女性の家に通う妻問婚(つまどいこん)が一般化します。女性の家に通うっていうのは,カミさんの実家へ行くってことですから男性の私からするとちょっとプレッシャーなのですが,当時は妻問婚のスタイルがとられていました。

 

暮らし

そして,暮らしぶりはといえば,田んぼはもちろん口分田を耕作し,税として租をおさめるわけですが,口分田だけではちょっと収入が少ないので,もっと収入を得ようとするために,寺社・貴族などから余った田んぼを借りて賃租(ちんそ)することで,収穫の5分の1を地子として借主におさめていました。口分田も与えられ,賃租して土地を手にするなど,この時代の人たちの暮らしは結構豊かなんじゃないかなって思うかも知れませんが,民衆の暮らしは,租・庸・調の他にもたとえば一番働き手となる成人男性に兵役あるいは庸や調を都に持っていく運脚などが課されていたため,田んぼを耕す戦力が著しく欠けていたのでした。あとは,重い税としては出挙ですね。貸してほしくもないのに,強制的に稲の苗を貸しつけてくる出挙,その利子はなんと5割とか10割といった重い税の負担を強いられるのでした。つまり,返すために田んぼを耕作して,口分だけでは足りないから,貴族や寺社へ地子を払って新たに土地を賃租して,ようやく5割とか10割の利子を返済しおわったころには,残っている自分たちの食べる分のお米はほとんど残っていないなんてこともザラだったようです。その様子が,山上憶良(やまのうえのおくら)という人の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」という歌の中で表現されています。われわれ農民の暮らしは貧しいですよ,寒い凍えそうなときに火を起こすような燃料すらなく,家族が肩を寄せ合って寝ているところに,出挙を貸し付けた奴らが「やいやい,出挙を返しやがれ」といわれたり,ご飯を炊くカマドこそあるものの,肝心のお米がないので,カマドには蜘蛛の巣がはっているといった内容が書かれています。ちなみにこの山上憶良は,遣唐使にも派遣された人物でもありますす。

 

土地政策の転換

民衆の暮らしぶりは苦しかったというお話をしましたが,この頃の朝廷にも深刻な悩み事がありました。それは何かというと,口分田が不足してしまうといった事態に陥るのです。なぜ口分田が不足するのかというと理由が2つありまして,まず6歳の男女に口分田をどんどんと与えていくわけですが,人口が増えていったので,与えるべき土地がしだいに減っていくわけですよね。そして,もう一つの悩みはというと,さきほど言ったように非常に重い税負担や出挙などの負担に耐えかねて,土地を捨てて浮浪・逃亡するのです。そうすると,口分田はもう耕されなくなって荒れていきます。一回荒れた田んぼの地力を回復させるのは至難のわざでして,結局はこのような口分田の持ち主が次から次へと浮浪・逃亡を重ねてしまいます。こうなってくると,朝廷は浮浪逃亡された人の口分田からは収入を得られなくなるわけですよね。しかも,新しく生まれていく子ども達がどんどんいるわけですから,口分田は不足していくことになります。

 

百万町歩開墾計画

そこで,元正天皇のときに長屋王政権で百万町歩開墾計画722年に出されましたね。土地をどんどん開墾しましょうということでめざせ百万町歩といったスローガンをたてたわけですが,当時の日本はすべて合わせても88万町歩しかなかったので,これはスローガンばかりが大きくて人がついてこない典型的なパターンですね。たとえば,全校生徒300人の学校で,めざせ東大200人って目標を掲げたところで,生徒は「お,おう・・・。」って面食らって「どうせ無理だ」ってなってしまいますよね。いや,本当は目指して欲しいところなのですが・・・。ということで,百万町歩開墾計画は頓挫してしまいます。

 

三世一身法

そして,翌年にはその反省を踏まえて,三世一身法(養老七年の格)723年に出されます。新たに灌漑施設を作った上で開墾すれば3世代まで,そして旧来の灌漑施設のもとで開墾をすれば1世代限定で,その土地の私有OKよ!という内容のものでした。しかし,永久ではなくどうせ返さなければならないんだろっていう考えの人たちが増えてきたために,あまり効果はありませんでした。

 

墾田永年私財法

そこで,20年後には墾田永年私財法といって,開墾した土地は永久に私有OKよ!とする内容の法令が出されました。この永久に私有OKよ!とされた土地のことを初期荘園と呼びます。この初期荘園を多く持つことになったのが,貴族や寺社でした。財力のある貴族や寺社,とくに東大寺などは,浮浪・逃亡した人たちを活用して初期荘園の拡大に成功していったのです。

 

税から逃れる農民

さて,浮浪・逃亡といった人々のお話をしました。浮浪・逃亡というのは口分田を捨てて逃げる人たちのことをいいますが,私度僧といって,勝手に僧になるものも現れましたので,僧尼令をだして民衆への布教を禁止したりもしていました。。本来,僧になるには,たとえば東大寺とか観世音寺とかで僧侶になる勉強をして免許を与えられて初めて僧になれるのですが,そういったことをせずに,勝手に僧の格好をしたり,僧のように振る舞って税から逃れようとする私度僧があらわれました。あるいは,偽籍といって,戸籍を偽るものも現れました。なにを偽るのかというと,年齢を偽ったり,性別を偽ったりしたのです。たとえば,兵役や運脚を課されるのは男性なので,そこで女性と嘘をついて税負担から逃れる農民が多く現れたのがこの時代です。

今回は以上です。