日本史オンライン講義録

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023 桓武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の時代

今回から平安時代に突入です。とにかく長い時代です。いままで奈良時代まではサクサクと進んできましたが,ひとたび平安時代に入ってしまうと,例えば桓武天皇の話をしていて,しばらくすると摂関政治の話へとうつっていくのですが,そして荘園とか校風文化とか院政の話になって,またいろんな方向へと話が展開して,平清盛の時代に入っても「あれ?まだ平安なの?」という感じで,実際の授業でも1ヶ月半くらいかけて平安時代をやっていきます。なので,平安時代をわかりやすく整理するために,こんな図があります。

平安時代  政 治  社会・経済  文 化 
 初期  
今ココ
   
 前期      
 後期      
 末期      

 これである程度,平安時代の全体像を思い浮かべることができます。そして,今回は平安時代初期の政治ということで,今ココと示しているのが,桓武天皇平城天皇嵯峨天皇の時代ということになります。とにかく平安時代は迷子になりやすいですので,今勉強しているのがいつの時代で,どんなジャンルなのかを把握した上で勉強するとはかどりやすいと思います。

 

桓武天皇の時代・二大事業

この桓武天皇,どういう人かというと,お父さんは奈良時代最後の天皇光仁天皇ですが,お母さんは高野新笠(たかののにいがさ)といって渡来人系の 朝鮮半島からやってきた人です。この桓武天皇ですが,どういうことをやったのか紹介していきます。

1つ目の事業・造作

 まずは造作です。何を作るのかというと,実は都づくりのことを表しています。桓武天皇は,2回に渡って都を造るのですが,なぜ都を作ったのでしょうか。これまでの都というのは奈良の都でしたね。奈良の都には,強すぎる仏教の影響がありました。それは,奈良の都の平城京は,仏教の力で国を鎮めるという鎮護国家思想でしたね。そしたら,どういう奴が現れたのかというと,女性の天皇を彼女にして,彼女が天皇であることをいいことに,自らも天皇の位を目指そうとするクソ坊主が現れましたよね。その名も道鏡なのですが,そんな奴らがたくさん出現してしまって仏教のチカラで政治が歪められてしまっては困るので,桓武天皇は新しい都を作ろうじゃないかと決意します。

 

長岡京への遷都(第1回目)

まず784年,1回目に作った都はというと長岡京です。山背国にあったこの地ですが,今は長岡京市という地名にもなっています。ちょうど京都と大阪の府県境にあるのが長岡京市ですところが,桓武天皇が最初に作ろうとした長岡京ですが,湿地があったりして,なかなか水のコントロールがうまくいかず都には適さない場所でした。うまくいかないことの中でも,長岡京を造るリーダーとして桓武天皇が指名した人物が何者かによって暗殺される事件も起こりました。暗殺されたのが藤原種継なのですが,造営を主導するも志半ばで死去してしまいます。そして,この暗殺を企てたとされる早良(さわら)親王桓武天皇の弟)も死去します。まぁ,実の兄弟というのは最大のライバルであったりもするわけで,桓武天皇は「オレの造営事業を妨害する目的で,よくも造営リーダーの藤原種継暗殺事件の陰謀にお前も加わったんだろう?」と実の弟に疑いをかけるわけですが,「ぼくはやっていない!なんで僕が兄さんを陥れたりするんだ。絶対にやっていない!」とハンガーストライキ(絶食)を行って,ついには命を落としてしまいます。こういったように,造営長官が暗殺され,天皇の弟が暗殺の犯人に仕立て上げられ,その弟が自殺してしまう,という壮絶な出来事が起こってしまったこともあり,なかなかこれではうまくいくものもうまくいかなくなるってことで,都づくりは混乱をきたしてしまいます。

 

平安京への遷都(第2回目)

ここで,人心の一新をはかるために,794年に新しい都である平安京を造営し,遷都をしました。ここから都は平安京ですので,平安時代のスタートです。そして山背国は,山城国へとかわります。これはなんだ?というと,実は奈良や飛鳥からみて京というのは,山の向こう側,山の背中側にあるわけですよね。今回,山の背中側に都を移してしまったので,そこを背中とは言えなくなるわけですので,山城国となりました。

 

2つ目の事業・軍事

この軍事というのは,東北地方の蝦夷制服事業のことを表します。この蝦夷の征服事業というのは,これまでも何度かお話をしてきたのですが,奈良時代に砦のような城柵が建設されたのを覚えていますか?そうですね,出羽国に秋田城,陸奥国多賀城,そこへ鎮守府をおいたということでしたが,次第に関東から農民を移住させたりして次第に北上し,少しずつ東北地方を朝廷になびかせようとしました。これを柵戸(さくこ)といいます。逆に,征服した蝦夷を朝廷の支配エリアへよんできて,そこに移住させてたりしました。これのことを俘囚(ふしゅう)といいます。蝦夷のところへ住民を移住させ,そして蝦夷からは朝廷エリアに移住させて,同化・混血をすすめることで朝廷の支配をますます高めようとしたのでした。

 

そして,光仁天皇の時代には蝦夷の族長である伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が780年に反乱を起こすのですが,朝廷も多賀城を陥落されます。そして,光仁天皇の子・桓武天皇の時代には,蝦夷の族長で阿弖流為(あてるい)のもと,強大化していきます。「父ちゃんの時に伊治呰麻呂が反乱を起こし,オレの時代には阿弖流為という強力なリーダーが蝦夷に出現した。これは早いうちに手を打たなければ」ということで,エース級の人物を投入させます。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)で,蝦夷を征服するための朝廷の将軍すなわち征夷大将軍に任命したのでした。鎌倉時代室町時代も江戸時代も征夷大将軍が登場するのですが,原点は坂上田村麻呂だったということなんですね。そんな坂上田村麻呂なのですが,以降は北へ北へと北上していきます。まず,802年には多賀城の北に胆沢城を築き,阿弖流為を降伏させることに成功しました。のちに鎮守府多賀城から,この胆沢城に移します。そして,さらに北に803年志波城を築きます。ここまでが軍事の事業ということになります。

この阿弖流為さんなのですが,坂上田村麻呂に捉えられて京都の平安京へしょっぴかれるわけですが,その際に坂上田村麻呂は「阿弖流為は,刃を交えて争った相手ではあるのだけれども,蝦夷のリーダーとしての統率力には定評があり,優れた人物であるので,命だけでは助けてやってほしい」と申し添えました。しかし,阿弖流為は結局殺されてしまうのですが,阿弖流為のお墓がどこにあるのかというと,京都の清水寺にあります。私も清水寺阿弖流為の墓があるとは知らずに,数年前に清水寺に行ったときに大きなお墓が突如現れて「阿弖流為之墓・・・。!?えっ,阿弖流為ってあの蝦夷の?ここにあったのか」って思わず二度見してしまったことがありました。

 

ここまで桓武天皇の二大事業についてみてきましたが,この2つの事業が莫大な資金と民衆の労働力を必要としました。そこで,人々もやはり苦しいわけですよね。うちは田んぼを耕さなきゃならない時期に兵隊さんとして駆り出されていったり,なかなか大変だったんですね。そこに藤原緒嗣という人が登場します。そして何といったかというと「天下の民の苦しむところは軍事と造作なり」ってバシッと天皇を諌める趣旨のことを発言したわけですね。天皇の政治を真っ向から批判したサイドであるのに対し,「いやいやいや,軍事と造作はしんどいかも知れないけど,これは続けないといけない」とする菅野真道(すがののまみち)と論争が起こりました。このことを徳政論争というのですが,そこで桓武天皇も両者の意見を聞き入れて,藤原緒嗣の意見を採用します。そして,ついに二大事業を打ち切ることを決意しました。

 

下の図をみてください。

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左京に比べて右京がスッカスカなことがわかりますよね。これは,途中で都づくりを打ち切ったために,道路こそひいたものの,なかなか人が住まないといった中途半端な状態になってしまいます。それでも桓武天皇は,人々が苦しいというのであればそれもやむ無しとしたのでしょう。ちなみに徳政論争は,正誤問題でもよく出題されますので気をつけておきましょう。

 

徳政論争

藤原緒嗣が2大事業の中止を主張

菅野真道は2大事業の続行を主張

 

 

 

そのほかの事業

健児(こんでい)の制

律令制度の負担だった軍団を廃止して,郡司の子弟らを中心とする健児を設置しました。健児というのは,兵隊の組織のことですね。そして,律令制度の負担だった軍団というのは何かというと,農民を徴兵して組織された軍隊なわけですが,それでは一番田んぼを耕さなきゃいけない時期だったり,一番忙しい収穫の時期と重なってしまうと,生産力も落ちるし,農民にとっても負担になるわけですから,軍団を廃止して,地方のお役人である郡司の子,とくに次男坊や三男坊はいってしまえば仕事もなくブラブラしているわけですから,そういったどうせ仕事のない連中らを軍隊にすることによって,農民を徴兵せざるを得ない状態をなんとか改善しようとしたのでした。

 

勘解由使の設置

国司交代の際に,不正がないかを監督する令外官(りょうげのかん)として勘解由使(かげゆし)を設置しました。令外官とは,大宝律令養老律令には記載されていない新たな役職のことなのですが,じゃあ令外官のうち勘解由使っていうのは何かというと,たとえば◯◯国に国司がいたとします。国司っていうのは,簡単にいうと国中の税を徴収する責任者なわけですが,そんな国司が新しい国司と交代するときに,税の一部をちょろまかして自分の懐に隠してその国を出ていくってことができたのです。しかし,桓武天皇国司の不正を防止するために,国の蔵の中に保管されている米の量と,帳簿上(これを解由状という)の米の量がきちんと一致しているかを確認するために,勘解由使という令外官をおいて,交代していく国司をしっかり監視させたのでした。

 

桓武天皇をこうしてみてみると,人々に優しく,役人に厳しい,こういった改革を行った人物といえるでしょう。ただ二大事業は人々にとって過酷なものだったといえるでしょう。

 

平城天皇の時代

桓武天皇の引き続く天皇は誰かというと,平城(へいぜい)天皇あるいはその弟の嵯峨天皇です。父親は桓武天皇なのですが,この兄弟はかなり仲が悪く,兄弟ケンカもたえなかったといわれています。それではまず平城天皇なのですが,即位後わずか3年で弟の嵯峨天皇に位を譲ります。平城天皇はわりと病弱だったようです。病弱というよりはわりとメンタルの部分が弱く,「オレちょっと天皇は荷が重いわ。天皇なんて務まらないわ」というわけで,弟に位を譲ったんですね。すると,プレッシャーから開放されたのか平城天皇は元気になっちゃって,「弟のお前に天皇の位を譲ったんだけども,オレ元気になったから位を返せよ!」って突然言っちゃったことから兄弟ケンカがトラブルに発展していくのです。

 

嵯峨天皇・平城太上天皇の時代

位を譲られた嵯峨天皇とお兄さんの平城上皇が対立します。これを二所朝廷といって,「オレが天皇だ!」「いや,僕が天皇だ!」ということでどちらの朝廷が主導権を握るかという状態のことをいいます。最初に仕掛けたのは平城太上天皇です。この事件のことを平城太上天皇の変薬子の変といいます。平城上皇藤原薬子とは愛人関係だったようなんですが,薬子の兄・藤原仲成と結び,天皇の位の復活と平城京(奈良)への遷都を図ります。しかし,この平城太上天皇の変では,弟の嵯峨天皇の方が一枚上手で,結果としては嵯峨天皇が勝利を収めることになります。そして,平城上皇は出家,藤原薬子は服毒自殺,もうひとりの首謀者である藤原仲成は,この戦の途中に射殺をされてしまいます。この平城太上天皇の変のような大きな兄弟ケンカに勝利をした嵯峨天皇は,このあとゆっくりと政治改革へ取り組んでいくことになります。

 

嵯峨天皇の時代

嵯峨天皇の政治改革は,お父さんである桓武天皇の政治政策を継承した形で進んでいきます。

 

蔵人頭の設置

まずは,大宝律令後に新たに設置される令外官ですが,この嵯峨天皇の時代に置かれた新たな令外官として蔵人頭(くろうどのとう)の設置が挙げられます。令外官ですので,大宝律令養老律令にはない役職ですね。それでこの蔵人頭の役割なのですが,天皇の命令を迅速に伝えるための秘書長官です。さきほど平城太上天皇の変がおこりましたが,そんなときに自分に歯向かう人があらわれたら,いろんな人と相談してそこからよっこらしょと行動を起こしたとしても間に合いません。自分の命令を全国隅々に早く行き渡らせる必要がありますので,そんなときに天皇の片腕がいて,天皇の言葉を命令文として仕立てて,パーッといち早く行き渡らせるような秘書長官がいたということです。それで,この初代の秘書長官が,藤原冬嗣という人です。この冬嗣という人は,藤原家の中でも藤原北家の人物です。藤原氏の中でも北家・南家・式家・京家がありましたよね。これまでは式家が台頭していたのですが,ここから北家が台頭することになります。蔵人頭を率いた役所を蔵人所といい,そこで働く天皇の秘書官を蔵人といいます。

 

検非違使の設置

嵯峨天皇はもう一つ,令外官を設置しました。これを検非違使(けびいし)といって役割は簡単にいうと,都の警察です。平安京の治安を守るための役職が検非違使といいます。

 

法の整備

さきほど令外官の紹介をしたのですが,大宝律令養老律令から100年ほど立っているわけで,100年も使い続けていくとこの法律だけではカバーしきれない問題がいっぱい起こってくるわけですね。また,この律令そのものは悪くはないのですが,現状に合わなくなってくることもあり,そこで修正されたり追加されたりました。

 

そういった内容の代表的なものとして「」(律令の補足,修正)や「」(律令の施行細則)が挙げられます。この嵯峨天皇以来,100年前の律令を生かしながらも,追加をしたり補足をしたりするということで「格」,あるいはここはこういう風に運用すれば現状にあうのではないかということで「式」が作られたりしました。この律令,そして補足・追加などを含めて,「律令格式」と総称されるわけです。で,代表的な格式が3つあってこれを三代格式といいます。

三大格式

弘仁格式・・・嵯峨天皇

貞観格式・・・清和天皇

延喜格式・・・醍醐天皇

で,現代に生きる私達がこれらの格式そのものを目にすることは残念できません。現存していませんので。じゃあ,なんでこんな格式のことを説明できるのかというと,格に関して言えば,この格式そのものの格は残っていないのですが,その格だけにスポットを当ててまた別の人が3つにまとめて編集をした「類聚三代格」という書物が伝わっているので,それによって私達は当時の格について知ることができるのです。

 

そして,式はというと,残念ながら現存しているのは延喜式しか残っていません。平安初期から平安中期の政治の有り様を知ることができて国宝にもなっているのが延喜式です。

 

注釈書

このように律令や格式など難しい本が書かれるわけですが,我々も書店にいって難しい六法全書を手にとってもなかなか読めそうにありませんよね。でも,法律のガイドブックであるだとか,法律の運用仕方ノウハウ本であれば,読めそうな気がしますよね。そのように法律をこう解釈して,このように適応しればいいのではないですか?ということで,清原夏野が書いた公式解釈書「令義解(りょうのぎげ)」が刊行されました。そして,もう一つ代表的なのが惟宗直本が書いた令の運用について注釈を集めた法律のガイドブック「令集解(りょうのしゅうげ)」が作られました。

 

今回は以上です。