日本史オンライン講義録

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027 藤原北家の台頭

さて平安中期の時代に入りますよぉ。中期の政治は「摂関政治」に代表される政治だよ。摂政や関白といった事柄を中学の授業で習ったんじゃないかな?さて、その摂関政治の代表的な家柄といえば、藤原氏の中でも藤原北家が担当します。ですので、これまでは藤原式家が活躍していましたが、これからは北家が台頭する時代へと移っていきます。

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 目次

 藤原氏北家の発展

奈良時代では藤原式家が台頭しました。権力固めをするために,不比等が自分の娘・光明子聖武天皇に嫁がせて外戚関係を結ぶことが藤原氏の常套手段でしたね。そして,北家の発展。それはつまり摂関政治の発展ということに言い換えることができるんです。この摂関政治を具体的に行っていったのが藤原北家奈良時代のところで、藤原四子ってのがいましたよね。その四兄弟の中で藤原房前という人が藤原北家のスタートでした。覚えていたかな?そして、いま我々が習った中で有名な北家の人物が、藤原冬嗣だ。冬嗣は、嵯峨天皇の秘書官のトップである蔵人頭に初めて任命された人だったね。このように、藤原北家はこの冬嗣のあたりから、徐々に発展の兆しを見せていくわけです。そして、のちに道長や頼通といったように摂関政治が花開くのです。

 

まずは細かいことを見ていく前に,大まかなポイントを抑えておきましょう。藤原北家では3人が登場してきます。それは,冬嗣(ふゆつぐ)→良房(よしふさ)→基経(もとつね)です。順番をしっかり覚えましょう。そして,彼らがどういう地位に就いたかも併せて覚えます。冬嗣は蔵人頭,良房は摂政,基経は関白です。すべて令外官です。

覚え方

に 暖 もっとつけて〜

(嗣) (良)  (基経) 

 

苦労して 摂政・関白

(蔵人頭) (摂政) (関白

さらに,語呂合わせには入ってないのですが,それぞれいつの天皇の権力者なのかも覚えます。冬嗣のときは嵯峨天皇良房ときは清和天皇基経ときは光孝天皇宇多天皇です。ここまでが大まかな流れです。

 

さて,藤原北家にはライバルがたくさんいました。同じ藤原氏にもライバルはいましたし、橘さんや伴さんといった有力な貴族達もライバルです。そこで、北家がとった作戦は、ライバル達を次から次へと政治の世界から追い払うことをやってのけたわけですが、このことを他氏排斥といいます。

 

さて、平安時代が始まってこのかた、桓武→平城→嵯峨と天皇が政治の中心でしたので、天皇ごとに話を進めてきました。しかし、平安中期は摂関政治ですので、天皇の補佐役として任命された藤原氏ごとに整理して見ていきたいと思います。

 

藤原良房の時代(文徳天皇清和天皇

さて藤原良房のときには、文徳天皇清和天皇がいました。実は、それ以前にも何人かの天皇がいるのですが、定期考査や大学受験に限って言うと、それを全部覚えてしまうのは暗記コスパがあまりにも悪くなるので省略します。では、さきほど説明をした他氏排斥事件について見ていくことにしましょう。ライバルを政治の世界から排除する他氏排斥ですが、じゃあ具体的にどんな方法で排除していったのかというと、簡単にいえば「ウワサ」です。ライバルにあらぬ疑いをどんどんかけていきます。例えば、「次の天皇はすでに決まっているのに、その弟やその息子を天皇に担ぎ上げようと画策している者がいる、この人が謀反を起こそうとしているらしいぞ」といったウワサを流し、そしてウワサがウワサを呼び、「それは本当か!?断じてゆるさぬ!」という流れにもっていき、追い詰めていくことで次から次へと流していくパターンが続きます。

承和の変(842年)

さて、良房は自分にとって都合のよい文徳天皇を即位させようとしていたのですが、別の天皇を担ぎ上げようと画策していたのが伴健岑(こわみね)橘逸勢(はやなり)でした。とくに、橘逸勢は学問の分野でも非常に優れていたため、良房は自分が劣勢に立たされる前に早いうちに政治の世界から追い出してしまおうと考え、天皇のお家争いにこの2人が関与したということで排斥してしまいます。恐ろしいよね〜怖いよね〜こわみね(健岑)〜。ちなみに橘逸勢はというと,あの三筆の一人であったこともお忘れなきように。あと遣唐使にもなっていますよ。難関私大レベルではあるのですが,伴健岑橘逸勢の前に,皇太子(次期天皇)である恒貞親王に謀反の疑いがあるとして皇太子をやめさせられます。そして道康親王を皇太子にたて,のちに文徳天皇として即位しています。そのもとで良房は太政大臣に就任します。太政大臣とは律令制の下ではトップですね。

 

そして、文徳天皇の後継として清和天皇が即位します。しかし、即位時の年齢はなんと9歳。こんなチビっ子天皇には政治はさぞ難しかろう、ということで藤原良房摂政として幼少の清和天皇の補佐となります。さて、摂政は今までにも厩戸王聖徳太子)が教科書でも登場していました、今までの摂政は皇族(天皇の血筋)の人物しか担当していませんでした。今回、良房は天皇に仕える人臣(皇族以外)として初の摂政となったことも抑えておきましょう。テストとかでは問題のリード文でこういった言い回しが出てくれば「良房!」と反射的に解答できるようになれば正解率もあがってきますよ。

 

(参考)

さて,ここまで用語は抑えてきましたが,これだけでは理解したとは言えません。今から紹介する話はテストでは出ないかも知れませんが,理解を深めるために是非おさえておきたいところです。まず,藤原良房恒貞親王を排除しましたね。恒貞親王というのは皇太子であり次期天皇でもあります。ここで恒貞親王藤原良房の関係なのですが,藤原氏が権力を握る常套手段としては天皇家の母方の血筋,つまり天皇のおじいさんになることによって外戚を結ぶことにありました。しかし,藤原良房恒貞親王との間には外戚関係がなかったのです。このまま恒貞親王天皇に即位してしまうと,天皇のお付き人であり,藤原良房のライバルにあたる伴健岑橘諸兄が時の権力者となってしまいます。藤原良房としてはそれだけは何としても避けたかった。なので,次期天皇である恒貞親王に謀反の疑いをかけて失脚をはかり,そのかわりに道康親王をかつぎあげて文徳天皇として即位させ,自分の娘(明子)を嫁がせたのです。つまり,サザエさんでいえば,良房が波平さんで,明子がサザエさん,道康親王文徳天皇)がマスオさんということになりますね。

 

応天門の変(866年)

こうして権力を握ったあとも,再び他氏排斥事件がおこります。大納言という高位にあった伴善男を排斥します。この伴善男には政治的ライバルであった左大臣源信という人がいまして、2人は仲違いをしていました。そのおりにもある日、都の門であった応天門が放火されてしまう出来事がありました。当時は消防隊もなければ火消し組もなかったので、あるところで火が出たら都中に延焼する危険性がありました。なんとしてもこの放火犯を捕まえなければなりません。伴善男は「放火犯は源信だ!」と良房に上申するのですが,「待て待て。源信殿は嵯峨天皇の子であるぞ。そんな稚拙なことするまい。ここは慎重に捜査いたそう」ということになりました。そのおりにも、伴善男の従者の子どもと源信の従者の子ども、つまり子ども同士がケンカを起こしてしまいます。そのケンカに親が乗り出してきて、親同士のケンカへと発展するわけです。そして、源信の従者が「オレ、みたんだぜ。お前のところの主人(伴善男)が応天門に火をつけるところをね。それを左大臣源信に濡れ衣を着せようとするとはとんでもない奴だぜ」っとポロッと言ってしまったんです。そのウワサが摂政である藤原良房の耳に入り、このウワサをうまく利用した良房が「しめしめ、そういうことか。でれば伴善男を流してしまえー!」ということで排斥されてしまいます。

藤原基経の時代(光孝天皇宇多天皇

実は、清和天皇の次に陽成天皇が即位するのですが、基経とはいまいち相性があわない。しかも、陽成天皇は殺人事件を起こしてしまうなど問題の多い天皇でした。そこで基経は、陽成天皇を説得して天皇を譲位させることに成功します。そして、次に天皇に即位したのは、これまで天皇の後継候補から大きくハズれていた光孝天皇です。即位したときにはすでに55歳。光孝天皇からすると、天皇に立ててくれた基経には恩義がありますので、基経を補佐役に任命したのでした、事実上の関白として。しかし、その後3年で死去した光孝天皇にかわり、子の宇多天皇が即位します。宇多天皇も、お父さんを天皇に担ぎ上げてくれた基経に対して天皇の補佐役として任命するのですが、ここで一つの事件が起こります。

阿衡の紛議(888年)

宇多天皇からの任命文書に「阿衡(あこう)」という職名が記されていたのです。そこで、基経に入れ知恵をする側近が「この阿衡というのは、位は高いけれども実質的な中身の伴わない名誉職って意味ですよ。つまり、天皇はくらいは高いがあなた(基経)には権限は与えないって言っているようなものですよ。」といった感じで、宇多天皇のことを悪いように基経に吹き込んだわけです。「なに!!」と怒る基経は、宇多天皇に対して迫り「阿衡という職名を取り消してください。聞いたところによると中国での名ばかり管理職みたいと聞きましたよ。」と直訴し、撤回させることに成功したのです。すごいですよね、基経の力って。だって天皇の出した文書にケチをつけて、ゴネて、撤回させるなんてパフォーマンスはなかなかできない技ですよ。しかし、このパフォーマンスをみせつけることで、「基経様は天皇をも凌ぐ権力者なんだなぁ」と強く印象づけることにも成功します。実に上手い立ち回り方をする基経です。ちなみに、この阿衡というのは中国・殷の時代では宰相(大臣の中の大臣)という職名で立派なポジションだったそうです。

 

宇多天皇の時代

のちに基経が死去すると,阿衡の紛議で基経に痛い目に合わされた宇多天皇は、「基経が亡くなった今、もう関白に頼る政治ではなく、オレ自身が政治を中心に行うんだ!そして、学者としても名高い菅原道真を重く用いるんだ!」ということで宇多天皇の親政(「寛平の治」ともいう)が行われます。つまり、桓武平城嵯峨→基経→良房→宇多と来るわけだね。ちなみに菅原道真894年遣唐使派遣の中止宇多天皇に提言しています。

 

醍醐天皇の時代

さて、次に即位するのは宇多天皇の子である醍醐天皇です。中学のときに建武の新政のところで登場した後醍醐天皇を覚えているよね?名前がよく似ているんだけど、実は醍醐天皇の政治にあこがれを抱き「オレがなくなったときには醍醐天皇にあやかって後醍醐天皇と名前をつけてくれ」といって死んでいったのが後醍醐天皇なのです。天皇天皇らしく振る舞えた理想的な政治ということで、平安時代の歴代天皇からはあこがれられる存在であった醍醐天皇の親政のことを「延喜の治」と呼ばれています。