日本史オンライン講義録

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028 摂関政治

目次

今回は平安中期の政治についてお話をしたいと思います。前回のお話では、藤原良房・基経らによる摂関政治(摂政や関白になって政治をコントロールすること)がすでに始まったのを覚えているかな?そして,あとをうけた藤原忠平そして藤原実頼によって他氏排斥事件を完結させました。今回はそれを受けて、藤原道長や頼通の時代に摂関政治の黄金期を迎えるお話をします。

 

摂関政治の展開

摂政

まず摂政というのは、天皇が幼いもしくは女性のときに政務を代行する役職です。

関白

次に関白という文字に注目してみよう。関白の『関』には、「かかわる」とか「あずかる」という意味があるね。そして『白』ですが、例えば告白とか独白とかいったように「申し上げる」という意味があります。つまり成人した天皇に対してかかわって申し上げる、あずかり申し上げる役職のことを関白というのです。

 

とくに、摂政や関白に就いたのが藤原氏でした。こうした、摂関政治を行う家柄のことを摂関家といいます。つまり、摂政・関白を出す家柄であれば別にどんな一族でもいいわけです。ただ、この摂関家はほぼ藤原氏が独占しているわけです。しかも、藤原氏の中でも藤原北家が独占しています。ですので、この時点では摂関家といえば藤原北家だということがうかがえます。しかもこの摂関家の中でも、藤原北家が「藤原氏氏長者」として藤原氏全体を統率するというわけです。氏長者というのは藤原氏の中でも一番偉いっていうことですね。

 

そして、藤原北家の中でも誰が一番の権力を握るのかということで、今度は藤原氏内部での争いへと展開していきます。いわば藤原北家の中で骨肉の争いへと移されていくということですね。

藤原氏内部の争い

前回は、忠平(父)→実頼(子)という流れで政権が受け継がれていったわけですが、実頼の系列から師輔(もろすけ)の系列へと移ります。

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兼通と兼家の兄弟争い

そして、師輔の子である兼通(兄)兼家(弟)の間で権力争いが行われます。 結果、弟が勝利!そして、いよいよビッグネームの道長が登場するわけだけど、実は道長は五男ということもあり、この時点では後継者候補としてはかなり劣勢だった。当然、一番上のお兄さんである道隆が関白となるのだけど、道隆はそれから5年後に病死しています。どうも酒の飲み過ぎによる糖尿病だったとか…。

 

子である伊周(これちか)が次の後継者候補だったのですが、問題行動も多くまだまだ未熟だという理由から、次男の道兼が関白に就任します。五男の道長としては「まぁ順番だし仕方ないか。でも道兼兄さんって今にも倒れそうだし、もしかしたらワンチャンあるで!」と内心考えていたのでしょう。するとそのまさかが起こりました。なんと、道兼兄さんは関白就任後わずか7日でこの世を去ります。なので、ニックネームが「七日関白」。

 

道長(おじ)と伊周(おい)の争い

さぁ、道長に出番が回ってきます。しかし、ここで「おじさん!チョット待った!」のコール。その声は、お父さんが亡くなったあと未熟だということで関白になりそびれていた伊周くんでした。道長おじさんとの権力争いに甥っ子の伊周くん名乗りを上げます。ちなみに,伊周は自分の妹である定子を一条天皇に皇后として嫁がせて権力がためをはかっていました。これにまけじと道長も自分の娘である彰子を一条天皇中宮としてが嫁がせています。このときから,天皇に2人のファーストレディ(正妻)がおかれるようになりました。中宮と皇后っていうのが同じ立ち位置になったんですね。そんな彰子はというとご存知紫式部という才女が文化的なサロンを形成し『源氏物語』を,一方の定子は,取り巻きに清少納言がいて同じくサロンを形成し『枕草子』を残して,対抗しました。やはり一条天皇の気を引くためにも才女を宮廷に送り込み,ここでも女の熱い戦いが繰り広げられていたといえるでしょう。ちなみに,道長には兄弟に道綱というのがいてるのですが,道綱のお母さんがあの有名な『蜻蛉日記』の作者でもあることは抑えておきましょう。

  1. 定子=清少納言(『枕草子』)
  2. 彰子=紫式部(『源氏物語』)
  3. 定子=藤原道綱の母(『蜻蛉日記』)

さて,こうやってお互いに妹や娘を同じ天皇に嫁がせることで権力固めを図っていったのですが,決勝戦ともいうべきこの直接対決を制し、最終的に摂関政治の黄金期をもたらしたのが、みんなもよく知っている藤原道長です。当初,道長は圧倒的に不利だったそうです。伊周はイケメンで和歌もうまく女性にも持てていたそうで,一方の道長は凡庸なおっさんでしたから,兄弟の中でもまさか末っ子5男の道長が天下をとるとは思いもよらなかったことでしょう。ところが,彼そんな彼のもとに勝利が転がり込んできました。高校野球でいえば,決勝戦で実力人気とも抜群の大阪桐蔭が伊周だとしましょう。一方で,道長はというとラッキードローで勝ち上がってきた名も知れない高校です。ぜったい大阪桐蔭が優勝するに違いないと思っていたところ,いざ決勝戦が始まってみるとエース伊周がフォアボール・デッドボールの連発で,ストライクゾーンに入ったたまは全部バックスクリーンに弾き返されるといった乱調ぶりで自滅していったみたいなイメージです。というのも,伊周には好きな女性がいました。その女性にちょっかいを掛ける花山法皇というのがいたんです。この花山法皇も女好きだったために,その昔道長に出家させられるとった過去をもっています。修行をしてその女グセが改まってたらよかったのですが,やっぱりクセっていうのはなかなか治らないんですよね。せっせせっせと女性のもとに通いだして,その女性の中の一人が伊周の女だったというわけです。伊周からすれば,「おいおいおいあのエロ坊主め,元天皇とはいえ」みたいな感じですよね。そうすると,伊周の弟である貴族のクセに弓矢がめちゃくちゃ上手な藤原隆家が「兄貴,オレに任せてくれ。オレの腕であのエロ坊主をビビらせてやるわー」とかいうわけですね。「お,おう。でもビビらせるだけやで。当てたらあかんで。エロ坊主とはいえ,元天皇やからな。絶対に当てるなよ。」というやりとりがあったそうです。そんなある夜,花山法皇が侵入してきました。兄思いの隆家が弓矢を放つと,この弓矢がなんと花山法皇の衣の裾をかすめたのです。「だぁぁ!!誰やワシに向けて矢を放ったのは!!」と花山法皇。当時,弓矢の名手の矢には名前が刻印されていたこともあり「隆家」と書かれて矢をみた花山法皇は激怒したそうです。さすがに元天皇に矢を向けてはいけませんよね?ということでこの事件をきっかけに藤原隆家は失脚,兄の伊周も失脚に追い込まれたのでした。ということで,道長は何もせずに勝利が転がり込んできたということです。

 

藤原道長の全盛

さて,藤原道長の時代が到来です。道長のニックネームは御堂関白といいます。御堂というのは法成寺のことで,道長はのちにお寺を作るのですが,このお寺のあだ名が御堂というので,御堂関白といわれました。しかし,関白とはいえ道長は関白はやっていません。やっていたのは摂政だけです。道長内覧といって天皇に文書を渡す役職についていて,天皇の前に文書をチェックする係なので,事実上関白みたいな仕事はしていたのですが。ちなみに御堂関白というニックネームがつけられたのは道長が亡くなってからで,その際に御堂摂政とはせず御堂関白としたのだそうです。ちなみに自らの日記も「御堂関白記」といわれています。そして,何よりも4人の娘(彰子・威子・威子・嬉子)を皇室へ嫁がせています。こうやって娘が多いというのも権力を握るための定石だったといえるでしょう。そして,娘たちが皇子を産んだりするわけですので,道長は3天皇(後一条・後朱雀・後冷泉)のおじいちゃんとなって権勢を振るったのでした。

 

一家三后の外祖父に

まずは天皇家外戚(とくに道長の立場は外祖父)として権力を集中させます。外戚っていうのは覚えていますか?漫画サザエさんを例にお話をしましょう。氏長者である波平さんは自分の娘・サザエさん天皇家(フグ田家)に嫁がせる、そして天皇のマスオさんとサザエさんの間に生まれた子・タラちゃんが後継者として天皇に即位する。しかし、タラちゃんはまだまだ幼いので、外祖父である波平おじいちゃんが「どれどれ、おじいちゃんが政治の面倒をみてあげよう」ということで、摂政として政治に介入することができるわけですね。波平さんはさらなる権力を集中のために今度は次女のワカメちゃんを天皇であるタラちゃんと結婚させるわけです。今の民法ではありえない事態ですよ。そして、また生まれてくる孫の面倒をみる、もちろん摂政としてね。

 

こうして、藤原道長は3人の天皇の外祖父となっていくのでした。この3人の天皇というのは、後一条後朱雀後冷泉です。難しい大学では問われることがありますのでチェックをしておきましょう。

 

絶頂期の藤原道長

まさに権力を欲しいままにし、朝廷は我が物である、日本全土は我が物であるという気分を謳ったのが望月の歌です。 ある満月の夜に、家来たちを集めてパーティが開かれたのでした。そこで、藤原実資(さねすけ)を近くに呼び、「今の心境を歌にしたので感想を聞かせてくれ」と言うのです。

この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば

訳「この世のすべてが私のものに思える 私の心は満月のように満ち足りている」 藤原道長の歌(望月歌)

「なんてド下手な歌なんだ…。あまりにも自惚れてすぎているし引いてしまうわ。」実資は固まってしまいます。しかし、何かコメントをしなければならないけど、褒め称えるわけには到底いかない歌だし、かといってど下手だなんてことも面と向かって言えないし。「ええい、ここはひとつみんなで唱和して責任をなすりつけ合おう」ということで、みんなでド下手な望月の歌を謳ったんだとか。そのときの記録として書き記したものが藤原実資の「小右記」です。望月の歌の出典名を聞かれた場合は、「小右記」とおぼえておきましょう。

 

 運に恵まれなかった藤原頼通

次に権力を握るのは道長の子・頼通です。頼通さんもビッグネームですが、実はやったこととしては教科書でいうと2行程度なんですよ。ちなみに彼のニックネームは宇治殿といわれています。

①京都の宇治に平等院鳳凰堂を建立

50年に渡り3人の天皇の摂政・関白をつとめる

まるで鳳凰というのはめでたい鳥のことで,そんな鳥が羽を広げた姿にみえることから鳳凰堂あるいは屋根の上に鳳凰が飾っているので鳳凰堂っていいます。知っているますよね?⑩円玉の表に描かれているのを。今度から⑩円玉をみるたびに10円といわずに藤原頼通!って言ってやりましょう。そうやって勉強するもんなんですよ。さてそして,さきほどもいったように、父・道長は実は関白になったことはありません。意地悪な正誤問題とかでよく出題される傾向にあるので確認しておこう。道長は、外祖父作戦をとったんだったね。なので、あくまでも幼少の天皇を補佐する摂政のみ。一方で、頼通さんは摂政と関白も務めたというのがポイントです。こういうところは、一問一答集とかではカバーできない部分なので、教科書にも自分なりの言葉でメモを残しておくことをオススメします。

 

それにしても、なぜ頼通さんは有名なのにあまり書くことがないのだろう。実は、頼通さんは藤原氏の中でも権力の絶頂期にいたものの、頼通さん以降の藤原氏は徐々に権力を失っていくことになっていくのです。それもそのはず、いつもの外祖父作戦がとれなくなったから。外祖父になるためにはまず何をしなければならない?そう、女の子が生まれないと天皇に嫁がせることができないわけですよ。しかし、頼通さんは女の子に恵まれず一度も天皇の外祖父なることはできなかった。なので、摂政で関白で天皇が成人しても嫁がせる女の子がいないので、結局一度も天皇の外祖父になれることはできなかったので、藤原家と天皇家の距離が離れてしまうことになるんだね。それにしても頼通さん、きっと女の子が欲しかったんだろうなぁ…。

 

貴族社会の特徴

では、道長・頼通の話をしましたが、平安時代のど真ん中ということで平安貴族の社会についても見ていきましょう。

母方の縁が重視された

結婚後は、妻の両親と同居をするか、新居で生活しなければならなかったんだよ。これは男性にとってはなかなかプレッシャーのかかる感じがします(あくまでも私の個人としての意見ですが)。で、母方の縁を重視するということですから、摂関家が自分たちの娘を天皇に嫁がせて権力を握るというのも平安時代ならではの特徴だと思います。

摂関家にヘコヘコする中・下級貴族ら

そして、中・下級貴族も摂関家に隷属します。なぜなら、摂関家のいうことをヘコヘコ聞いていさえすれば、下級の貴族であっても国司などに就けてもらうことができたからです。この国司というのは非常においしい役職で、税金をちょろまかして自分の懐にいれたり、その国の人々をこき使ったりすることができたので、国司に就けてもらうために摂関家に隷属した、というわけなんだね。

平安時代の政治運営

平安時代の政治のあり方はというと、天皇太政官を通じて全国を統一的に支配するという建前が一応はあるわけなんですが、しかし実際のところ、その根底には天皇摂関家の意向を忖度(そんたく)しながら政治をしているってことになります。道長をはじめとする高位高官が天皇の御前で会議をするのですが,天皇をお守りする近衛(このえ)という軍隊のある場所があって,その近衛の陣で話し合いをします。やっぱり重要文書を略奪されたりするといけないので,軍隊や警察がいるようなところで行われる会議のことを陣定(じんのさだめ)といいます。道長・頼通時代の重要な公卿会議ですね。正誤問題とかでは,重要政務は太政官での審議を経ずに摂政関白が決定したとあれば,誤りですので注意してくださいね。

 

とはいうものの、貴族の関心事といえば良い政治をするのだ!世の中を変えていくのだ!という改革派の貴族などおらず、とにかく例年通りに無難に同じことをやっていくっていうのが政治の中心だった。つまり年中行事をこなす先例や儀式などを淡々とやっていくことが重視されたんだね。あるいは、どんな官位が与えられるか(叙位)、どんな役職が与えられるのか(除目)が貴族たちの興味の中心となっていくわけです。

 

ということで、今回はあの藤原道長であっても業績を挙げなさいと言われればたった3行程度、頼通であっても2行程度でおさまるというお話でした。それはなぜなら、政治的なことは去年と同じことを今年も同じようにやるということが重視される社会であり、関心事といえば「誰が次にあの官職につくのかな?」といった役人たちの人事についてばかりだった。一言でいうとチマチマした事柄が政治の中心になるわけなので、中学の教科書でも出てきた道長・頼通ではあるんだけどその内容は必然的に薄くなるってわけなんだね。