日本史オンライン講義録

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035 後三条天皇の時代

目次

 

前回は、武士の登場そして源氏の進出についてお話をしました。今回は、後回しになっていた平安後期の政治の流れについて見ていくことにしましょう。中期の政治は摂関政治でした。その摂関政治が終わりを告げ、平安後期ではどのような政治体制になっていくのかを一緒に追いたいと思います。

復習

平安中期の政治スタイルであった摂関政治の特徴は覚えていますか?たとえば、摂関家から女の子が誕生したとします。すると、その娘を天皇の奥さんとして嫁がせて、やがて生まれてくる男の子(孫)が次の天皇に即位したら、孫を補佐する名目で実際の政治を外祖父として操る摂政に就いたり、孫が成人しても関白として権力を独占し続けるのでした。ただしこの場合、娘を天皇家に嫁がせると同時に、生まれてくる孫が男の子でなければ外祖父作戦は成立しません。事実、藤原頼通は、男の孫を授かることができませんでした。そのため天皇の外祖父になることができなかったのです。そうすると、藤原氏を外祖父に持たない天皇が登場します。これが後三条天皇です。

 

後三条天皇のおじいさんは三条天皇です。外祖父の藤原氏にいじめ抜かれてストレスを抱えていました。そのときに詠んだ歌が小倉百人一首にも収録されているこの歌。

「心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」

(もはやこの世に望みもないが)、心にもなく、このつらい浮世を生きながらえたなら、さぞかしこの宮中で見た夜の月が恋しく思い出されることであろうなぁ。

実は三条天皇はこの時、すでにストレスで失明してしまったのです。月が見れませんでした。そんな祖父の姿をみて、後三条天皇は悔しさをずっと堪えて時を待ちました。きっと摂関家を恨んでいたはずです。そして、やがてチャンスが巡ってきました。

後三条天皇の政治

藤原氏を摂政・関白としないので、後三条天皇は「これからは藤原氏に配慮することなく、オレ中心の政治をするぜ!」ということで、多くの改革を断行していきます。

さまざまな国政改革

もはや藤原氏に配慮しなくても良いわけですので、実力本位の学者・大江匡房らを重く用います。そして、宣旨枡という升の大きさに統一します。これは、よくばり国司らが普段づかいの升とは別に、税を納めさせる時の升をわざと大きくすることによって、その差額をちょろまかす不正が横行しました。そこで、升の大きさを統一することで国司の不正を防止したとともに、単位をそろえることで何かと実用的な効果を発揮したのでした。そして、この国政改革の目玉として、出されたのが延久の荘園整理令です。祖父の恨みを抱えた後三条天皇は、憎き摂関家の荘園をボコボコにしていきます。

延久の荘園整理令

さて、摂政・関白らの藤原氏にとって資金源といえば荘園(私有地)でした。荘園(私有地)が増えるということはどういう問題が起こるのでしょうか?例えば、◯◯国があったとします。荘園(私有地)がどんどん増えていくのに対して、その◯◯国が持っている公領(国有地)はどんどん減っていきます。そして、この荘園(私有地)の収入は主に藤原氏や有力な寺社のものになりますから、藤原氏や有力な寺社の収入がどんどん増えていくことになる。それと同時に、国の資金源である公領(国有地)が少なくなるということは、国に入る収入も次第になくなっていくわけです。つまり、藤原氏が荘園(私有地)を広げすぎてしまうと、国の公領(国有地)が少なくなってしまい、中央政府に入ってくるはずの収入も減少してしまう。これは中央政府としても悩みのタネでした。そこで、荘園の拡大を食い止める必要があるということで後三条天皇が出したのが延久の荘園整理令なのです。

この整理令に基づいて、まずは役所が作られます。この役所を記録荘園券契所(記録所)といいます。荘園といっても、その所有は結構あいまい・いいかげんでした。なぜなら、よくばり国司の支配から逃れるために、ある対策をしましたよね?覚えていますか?よくばり国司が「やいやい、この土地をよこせ!」と言ってきたら、「この土地はもう藤原さんに寄進しましたよ。取れるもんなら藤原さんところへあたってください」と、とりあえず口で言うだけの人もいたようです。このようなあいまいな土地も少なくなかったので、記録荘園券契所(記録所)を設置して、定められた年代よりも新しい荘園や、口約束だけのあいまいな寄進地系荘園をどんどん整理したのでした。それがたとえ摂関家の荘園であろうが、もはや藤原氏に配慮する必要がないわけですから、容赦なく藤原氏の荘園も全部停止し、国衙や政府への収入を正常に戻そうとしたのでした。

荘園公領制

延久の荘園整理令によって「荘園の範囲はここまで!ここから先は公領としますよ」といったようにバチっとラインが引かれ、土地の区分が明確化されたことによって、土地は貴族や寺社が支配する荘園と国司(受領など)が支配する公領の2本立てになっていきます。この状況のことを荘園公領制といいます。荘園のしくみについてはすでに触れましたので、ここでは公領のしくみについて見ていきたいと思います。

公領のしくみ

これまで、「国・郡・里」と言っていた地方の行政単位の「郡」と「里」を、公領の中の「郡・郷・保」に再編成しました。そして、以前は郡司・里長というようにお役人を置いていましたが、そのお役人にあたる存在を「郡は郡司、郷には郷司、保には保司」としてそれぞれ任命し、徴税を請け負わせたのでした。続いて、今で言う税務署のような位置づけとして、田所(たどころ)税所(さいしょ)などを設置しました。国司は基本的には、現地に赴かない遙任として都に居ながら、代わりに目代(代理の国司)を派遣し、実際の仕事を現地の公務員である在庁官人などに行わせていたのでした。

さて、農民はというと、公領にいても荘園にいてもあまり大差のない生活をしていました。これはすでにお話しましたが、農民は(課税対象である土地)を割り当てられ、税の支払いを請け負った田堵は、名主と呼ばれるようになりました。この名主は、自ら耕作するケースもあったようですが、基本的には下人・作人を利用して耕作を行い、年貢(米)や公事(手工業品・特産物)、夫役(労役)を負担し、荘園なら荘園領主に、公領なら郷司などに納めたのでした。

荘園のしくみ

荘園は、本家領家、そして実質的な支配権をもつ本所が、下司公文といった荘官(荘園を管理する者)を派遣して支配させていました。この荘官に対して、名主下人・作人を利用して耕作を行い生産物などを納めていくのでした。

まとめ

後三条天皇による延久の荘園整理令を出した結果、国・郡・里というこれまでの律令のしくみがなくなり、地域が郡・郷・保といった公領と所有者が様々な荘園とに細かく分割されていったのです。