036 院政
目次
この回は、平安後期です。さて、一つ前の平安中期の政治的特徴といえば何でしたか?はい、摂関政治でしたね。そして、前回の授業でお話したのが、平安後期・後三条天皇の時代でした。では、今回はその後に控える院政について見ていくことにしましょう。
院政
院政というコトバそのものは、すでに中学校でも習いました。さぁ、院政って説明できますか?院政とは、上皇(太上天皇=退位した天皇)が、中央政府(朝廷)は都に存在するものの、この上皇が別の政府(院庁)を立ち上げて政治を行うことです。とくに、院政時代とか院政期とかいう場合は、平安後期の白河上皇そして鳥羽上皇、後白河上皇の3人の上皇の院政をさすことが多いです。
院庁
天皇の位を譲って、なおも力を持ち続けようと上皇によって立ち上げられたこの院庁。一体、どのようなものなのでしょうか。一言でいうと、院政を行う役所です。この院政というのはまがいなりにも一つの政府なのですから、諸国に対して命令が発信されます。院庁からの命令書のことを、①院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)といいます。次に、②院宣(いんぜん)は、上皇個人としての命令を伝える文書です。つまり、①組織としての命令、なのか、②上皇個人としての命令なのかの違いですね。
院近臣
上皇のお側に仕えて、上皇といろいろ相談しながら政治を推し進めていくのが院近臣(いんのきんしん)です。天皇の側に仕えて政治を行う組織を朝廷(中央政府)というのに対し、上皇のお側に仕えて政治を行う組織が院近臣ですね。そして、上皇のお側に仕える人々(后・乳母・富裕な受領など)が、上皇といろいろ相談をしながら院庁を動かし、朝廷を率いる天皇に影響を及ぼしていくのです。
北面の武士
院の持つ武力のことを北面の武士といいます。源平の武士たちを仕えさせて、上皇の勢力のお助けマンとなるわけです。
仏教の保護
さて、院政期の3上皇らは、出家して「法皇」といわれるようになります。この3人に限らず、この時代の天皇(上皇)らは相次いで仏教を保護していきます。そして、「勝」という字の入ったお寺が次々に造営されるのです。例えば、白河天皇の法勝寺、堀河天皇の尊勝寺など6つのお寺を総称して六勝寺と呼びました。また、仏教信仰の中心にもなった紀伊の熊野詣、あるいは高野詣を繰り返します。ということで、院政期の上皇らはお寺を作るなど、山岳信仰と結びついたお寺をお参り、最終的には出家をして坊さん界のリーダーである法皇となっていくのでした。
院の経済基盤
経済基盤というのは、院が自分の身内にいろいろな土地を与えたり、自分の収入にしたりするためのベースのことをいいます。そんな院の収入基盤として以下の3つを紹介しましょう。
知行国
まず1つ目の経済基盤は知行国ですね。今まではAという国に中央政府(朝廷)から任命されて国司が赴任すると、国司のお給料の出どころはもちろん中央政府(朝廷)からでした。ところが、この頃から、権力を握っている上皇が「やあやあ、そこの国司よ!そなたには美濃国、越前国を知行国として授けようではないか。」といったようなやり取りが行われるようになります。そして、その知行国の知行国主となったあかつきには、その土地すべてを実質的に知行国主が支配でき、そこからの収穫全てを自分のモノにできる、つまり現物支給のお給料として知行国を上皇から受け取るようになったのです。
院分国(いんのぶんこく)
このように朝廷(天皇)から任命された国司が知行国主としてある一国の収入を総取りできるのが原則でした。しかし、それに対し、収入を総取りするのが国司ではなく、院(上皇)自体が、その一国の収入を総取りできる経済基盤のことを院分国といいます。
寄進地系荘園
知行国にように、院が上皇の側で仕える院近臣らが与える荘園のことを寄進地系荘園といいます。代表的な寄進地系荘園は、鳥羽法皇が八条院(鳥羽の娘)に寄進した八条院領や、後白河法皇が寺に寄進した長講堂領などがあります。何しろ院政といっても、朝廷のように国司を派遣して一国を支配するということはなかなか難しいものがありましたので、朝廷に口利きをして、国司を知行国に任命したり、あるいは土地を寄進していって、寺や味方になってくれそうな上級貴族に便宜を図ってやることで上皇自らの権力固めに力を注いだです。
さてそれでは、そんな院政の代表的な3人の上皇についてみていきましょう。
3人の上皇による院政
上皇は、自分の権力を固めるために次々と天皇を譲位させました。なぜなら、上皇自身が権力を握り続きたいわけですから、天皇に経験を積ませてしまうと「天皇としてだいぶん慣れてきたぞ。さぁ今度はいよいよ自分が上皇となって、政治の権力を固めていくぞ」と思わせることにつながりかねません。そこで、自分のポジションを狙われる前に上皇は次々と天皇を退かせては、新しい天皇を即位させ、即位させては退かせ、ということを立て続けに行っていくのです。
白河上皇の時代(天皇:堀河・鳥羽・崇徳)
それでは、白河上皇の時代を見ていきましょう。前々回(034 源氏の進出)にお話しましたが、源氏の活躍が目立った後三年合戦が起こりました。そして、院政の開始です。白河上皇が堀河天皇に皇位を譲ったことが院政のスタートとなります。続いて、白河上皇の行ったこととして、北面の武士が設置されました。先ほども出てきましたが、院の持つ武力で上皇勢力のお助けマン的存在が北面の武士でしたね。
鳥羽上皇の時代(天皇:崇徳・後白河)
代表的な上皇2人目は、鳥羽上皇です。鳥羽上皇はすでに崇徳天皇に譲位していましたが、白河上皇が亡くなったことによって、上皇のポジションには鳥羽上皇がスライドしていきます。鳥羽上皇のやったこととして、さきほど登場しました娘に寄進をしています(八条院領)。さて、崇徳上皇と後白河天皇は非常に仲が悪く、ある意味鳥羽上皇が2人を抑える役目を果たしたのですが、その鳥羽上皇が亡くなったことによって、崇徳と後白河の対決姿勢がより増してしまい保元の乱へと発展していきます。この保元の乱については、次回(037 保元の乱・平治の乱)のところで詳しくみていきたいと思います。
後白河上皇の時代(天皇:二条・高倉・安徳)
このあたりは平氏が実権を握っているところでもあるのですが、院政のダイジェスト版として少し紹介しておきます。保元の乱ともう一つ起きた大きな戦乱として平治の乱があります。この平治の乱では、院近臣どうしの争いに源氏と平氏が加わり、平氏が勝利します。この頃、後白河上皇が院政を行っているのですが、この平治の乱をきっかけに太政大臣に就任した平清盛へと政治の実権は移っていきます。しかし、藤原成親らによる平氏追討計画が企てられました(鹿ヶ谷の陰謀)。なぜこのような陰謀が企てられたのかというと、ここで太政大臣に就任した平清盛のことを疎ましく思う人物が一人いますよね?そう、後白河上皇ですね。後白河上皇は、政治の権力を平氏に奪われてしまったわけですから。しかし、上皇自身がそんな物騒なことを策謀したことが広まってしまうのも、それはそれで後々厄介なことになってしまいます。そこで、平氏から実権を取り戻したい後白河上皇は、あくまでも裏で手を引くかたちをとり、実際の平氏打倒計画は藤原成親という貴族によって陰謀を巡らされたのではないかと言われています。
以上、院政の3上皇についてダイジェスト版で簡単にお話をしました。次回は、保元の乱・平治の乱について詳しくみていきたいと思います。