日本史オンライン講義録

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037 保元の乱・平治の乱

目次

 

復習

このあたりは、政治の話と武士の成長の話が交錯しているため混乱しがちなので整理をしておきますよ。まず平安時代は、中期の摂関政治から、後三条天皇の親政を経て、後期の院政へと少しずつ移行していきましたね。その裏側では、武士が活躍・成長が垣間見れたのです。武士の中でもとくに源氏や平氏が急速に成長していったのでした。そして今回は、いよいよその武士たちが、貴族たちよりもその存在感を上回る、そんな移行期間をみていくことにしましょう。いよいよ武士が世の中の主役に躍り出る平安時代後期のお話です。

前回のお話では、前九年合戦・後三年合戦まで終えました。それ以降の世の中について見ていきましょう。

武士の中央政界への進出

そもそも武士というのは、どんな役割を果たすために設置されたか覚えているかな?武士は、地方の治安を守るために置かれたり、貴族にお仕えする侍(さむらい)として重宝されたんだよ。そんなローカル的武士の存在が、少しずつその存在感を増し、ついに活躍の場を中央政界へと移していきます。

大寺院の荘園の領有

さて、荘園というのは私有地のことでしたね。その私有地を大寺院が拡大していくのですが、荘園(私有地)が拡大するということは、同時にかつて一国の収入となっていた公領(国有地)が縮小していくということになります。つまり、公領(国有地)がしだいに荘園(大寺院の私有地)へと塗り替えられていくわけです。国としてもこれ以上お寺の勢力に侵略されたくない。そこで、その国担当の国司検田使を派遣し、大寺院の所有する土地の調査に乗り出します。しかし、大寺院サイドも「この土地は正真正銘、我々◯◯寺のものだ!文句あるか?!」と国の干渉に対抗します。このように、荘園拡大に制限をかけていきたい政府側に対し、お寺側も僧兵(下級僧侶の兵隊)を組織して、なんとか国の干渉を排除しようとする動きを見せていきます。

そして、「この土地は◯◯寺のものだ!」「あの土地も◯◯寺のものだ!」「向こう側の土地も◯◯寺のものだ!」とお寺の侵略は拡大していきます。すると「おいおいおい!この土地は荘園として認めた覚えはないぞ。」と国司が反論するわけです。しかし、このお寺は、僧兵たちと一緒に神木や神輿(みこし)を担いで「なんだよ!おまえたち、まさか神様に逆らうのか?」 と訴え、どんどんと要求を強めて土地侵略を進めていくのでした。

この僧兵の代表的なものとして、南都・北嶺が有名です。南都というのは、興福寺の僧兵が春日神の榊(さかき)をかかげて国に要求を通していきます。つまり、お寺さんがワガママを押し通していくのです。そして、北嶺というのは、延暦寺の僧兵たちが、日吉神社のお神輿を担いで、これもお寺の要求を朝廷にどんどんと通していくというわけです。またこの坊さんの兵隊たち、なかなか手強いのです。そこで、都の治安を守るため、武士が雇われることになるのですが、この武士が都と同時並行的に地方にも進出していくことになります。

 地方武士の動向

武士のお屋敷のことを舘(たち)というのですが、武士はこれを建設し地域の親分的な存在になっていきます。例えば大河ドラマ真田丸では家老の直江兼続上杉景勝のことを「お館様」と呼んでいたのを覚えている人も多いと思います。そして、この地方武士の代表格が、以前少し触れました奥州藤原氏なのですが、根拠地は陸奥平泉としています。中尊寺金色堂のある平泉ですが、経済基盤としては金や馬などを産出しています。この奥州藤原氏にはどんなお館様が居たかというと、藤原清衡(きよひら)・藤原基衡(もとひら)・藤原秀衡(ひでひら)の3人です。清衡は、清原同士の争いであった後三年合戦の末に奥州の最終的な勝者となった人でしたね。平泉の中尊寺金色堂は規模こそ小さいものの、その造りは細部にまで手が込んでいて見れば見るほど惹きつけられるものがあります。

源氏と平氏

このように武士が中央に進出し、都に配備され、あるいは地方でも力を持っていくというお話をしましたが、これを予備知識として再び源氏と平氏について見ていきましょう。

さて復習です。承平天慶の乱平将門の乱藤原純友の乱を鎮圧した武士といえば誰だったかな?そうですね、平貞盛源経基でしたね。そして、摂関家に協力をし接近することに成功した源満仲。そして、平貞盛の次に登場するのが平忠常という人物が登場し、平忠常の乱を起こしてしまいます。しかし、源頼信頼光兄弟によって鎮圧され、平氏はしばらく衰えるのでした。そして、源氏はしばらく絶好調です。陸奥鎮守府将軍となった源頼義・義家父子は東北の安倍氏清原氏の争いをうまく抑えることに成功し(前九年合戦)、今度は清原氏同士の内紛が起こるのですが、そこに源義家が介入したことによって鎮圧しました(後三年合戦)。

では、このあとの源平の動きについて見ていくことにしましょう。ここで、源義親という人物が登場します。この源義親は、反乱を起こしてしまいます(源義親の乱)。平忠常の乱平氏が反乱を起こしたように、今度は源氏が反乱を起こすことになります。ここから、平正盛という人が源義親の乱の鎮圧に一役かったことから平氏が復活をとげることになるのです。この平正盛という平氏は、伊勢平氏といいます。桓武平氏の系統ではあるのですが、時代の流れとともに根拠地もしだいに別れていきます。伊勢・伊賀周辺を根拠地としていることから伊勢平氏と呼ばれており、桓武平氏の中でもこの伊勢平氏源義親の乱で力を伸ばしていくことになります。

そんな平正盛の子にあたるのが、平忠盛。この人が鳥羽上皇の信任を得るわけです。さらに、忠盛の子にあたるのが平清盛。そして、清盛と同世代の源氏として、義親の子にあたる源為義源為朝源義朝です。源義朝はかの有名な頼朝のお父さんですよ。さぁ、いよいよ有名どころの源平の名が登場しましたね、ということはいよいよ源平の戦いへ突入します。

保元の乱平治の乱

源為義・為朝・義朝/平清盛の世代のときに鳥羽上皇の死去による皇位継承争いが起こりました。これが保元の乱です。この事件は何かというと、鳥羽上皇には子どもが2人いて、兄貴が崇徳天皇、弟が後白河です。ところが、上皇というのは自分の権力固めのために次から次へと「天皇の位を譲りなさい!」と促していきます。そこで、「兄貴(崇徳)は弟(後白河)に天皇の位を譲りなさい!」ということで、崇徳は後白河に天皇の位を譲ることになります。つまり上皇が「譲りなさい!」と強く出ることで、支配力を示すことができるし、天皇が力をつけてしまわないように次から次へと譲位させることで、上皇としての権力固めもできることになります。すると、兄貴が崇徳上皇、弟が後白河天皇となるわけです。しかし、この兄弟、実は仲が悪かった。父(鳥羽上皇)が健在だったころはなんとか抑えも効いていたのですが、鳥羽上皇が死んでしまったことで、両者はそれぞれ味方となる貴族や武士を集めて兄弟ケンカをやらかすことになります。この兄弟ケンカがいわゆる保元の乱です。

保元の乱

ではこの保元の乱を詳しくみていくことにしましょう。対立構図としては、

です。特徴としては、後白河が崇徳がの関係、忠通が頼長がの関係、源義朝為朝が・為義の関係、清盛が忠正が叔父の関係です。つまり、天皇藤原氏も源氏も平氏も、一族が分かれて争ったということになりますね。さて、結果としてどちらが勝利したかというと、後白河天皇です。負けた崇徳上皇は讃岐に流されます。相関がややこしいので、ここは語呂合わせで覚えます。

(覚え方)

崇徳が  りないため    ただ負けた

(崇徳)  (長)  (義・朝) (正)

ある夜、崇徳上皇為義・為朝は、崇徳上皇にこう進言します。「上皇、ここは一つ、今晩にでも後白河方に夜討ちをかけましょう!チャンスです!」。すると崇徳天皇はこう言います。「夜討ち!?えぇ〜そんなことしてもいいのかなぁ、どうなのかなぁ。いや、でも僕はそんな卑怯なマネはしたくない・・・。」一方、後白河天皇天皇方で義朝・清盛が同じように「みかど、夜討ちをかけましょう!」と進言します。すると、後白河は「よし!やれ!!」と素早い判断が功を奏し、夜襲が見事に成功し後白河天皇が勝利をおさめたのでした。

さて、この保元の乱ですが、後白河天皇方が勝ったということ以外にもう一つ意義があります。それは何より、武士の実力が世に示された事件であるということです。もはや天皇VS上皇の争いであっても、武士の力を借りなければ決定的勝利を収めることができない、天皇方も上皇方も武士をあてにして戦う、武士の力が世の中に示された事件として捉えられていくのでした。

平治の乱

そして、もう一つの事件です。それは、世代的には源氏と平氏それぞれ一つあとの世代になって、源氏は源義朝源頼朝。一方で、平氏平清盛です。この両者が争うことになった事件が平治の乱です。簡単にいうと、後白河上皇の院近臣の対立、武士の対立です。正確にいうと、後白河天皇方で味方をした人達(後白河天皇藤原忠通源義朝平清盛)。つまり、保元の乱で勝利したもの同士の中で争いが起きたということになります。

では、詳しく見ていきましょう。まず、藤原通憲信西ですが、この人は勝利したにもかかわらず自殺しています。勝ったのになぜ自殺?と思うでしょ?これは、タッグを組んだ平清盛とその子・重盛らが都を一時留守にしていた間に、源義朝の軍勢に急襲されてしまい、あえなく自殺に追い込まれたのでした。藤原通憲信西は斬首、源義朝は殺害、源義平は斬首、源頼朝はまだ幼かったという理由で命だけは許されて伊豆へ流されました。

平治の乱の性格としては、保元の乱で勝ったもの同士の内部の争いがポイントです。とくに、天皇方についた源義朝平清盛保元の乱で勝利したわけですが、勝利者同士が争ったという性格が非常に強いです。勝った者同士(源義朝平清盛)が「よっしゃ、どっちが強いか決着つけよや!」というようなイメージです。そして、平清盛が少し都を離れたそのスキをねらい、源義朝藤原通憲信西を襲ったのでした。その後、平清盛は都に戻り、源義朝を襲い殺害します。そして、藤原信頼源義平は斬首、源頼朝は伊豆へということで、この時代すっかり平氏の時代へなっていくということになります。結果、残った平氏が権力を独占したということです。

<まとめ>

保元の乱平治の乱というこの2つの事件を通して、武士の実力が世の中に示され、ライバルが次第にいなくなっていき、最終的に武士である平氏が生き残った。そして、貴族の世の中からすっかり武士の世の中になってしまったという一連のダイナミックな流れを抑えておきましょう。