日本史オンライン講義録

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038 平氏政権

目次

 

平安時代もいよいよ大詰めです。今回は、平安末期の政治についてみていくことにしましょう。

平氏の繁栄

前回お話しました、保元の乱源義朝平清盛が勝利し、次の平治の乱では勝利者同士の争いとなりました。この平氏が、平安時代末期における最終的な勝者ですので、この後非常に反映を遂げていくことになります。平家物語で「奢れるものも久しからず」と言われたように、おごり高ぶるほどの繁栄を見せたわけです。例えば、平家一門のひとり平時忠は「この一門にあらざる人は皆非人なるべし」てなことを謳っています。要するに、平氏でなければ人でない!平氏でなければお前らはイヌかネコか馬なようなものだ!と奢れる者であったのが平氏なのでした。

 

平清盛政権

平清盛はもちろん武士の中の武士、平氏の棟梁です。保元の乱のときの上皇が後白河だったのですが、武力で支援する格好になったのがこの保元の乱平治の乱でした。そして、武士の棟梁として西国一帯の武士を束ねるのでした。家人といわれる家来を擁していきます。

武士的性格と貴族的性格

そしてもう一つ、この平清盛はだんだん貴族風な性格を帯びていくのです。例えば、天皇家が相次いで六勝寺を建てていったように、清盛もお寺を建てていきます。平清盛が建てたお寺として有名なのが、蓮華王院です。このお寺の本堂を三十三間堂といいます。修学旅行の訪問先としても有名で、三十三間堂といえば千手観音がうじゃうじゃと山ほど千体並んでいるのが特徴的です。これらは平清盛が後白河のために作られたのが蓮華王院です。これで気を良くした後白河は清盛に対して、武士として初めて太政大臣を任じます。そして、子の平重盛ら一族も高い位を独占していくことになるのです。

 

そんな平清盛なのですが、あの摂関政治藤原氏が見せたような権力の固め方を同じようにやっていくわけです。それはどんな方法かというと、天皇家外戚になるということです。だから、自分の娘がいた場合、その娘を天皇家に嫁がせて男の子が生まれ天皇に即位させれば、清盛は天皇のおじいちゃんになることができますよね?そこで、清盛は、子である徳子(建礼門院徳子)さんを、高倉天皇中宮(要するに妻)にします。そして、見事男の子が生まれて安徳天皇として即位させることによって、晴れて天皇のおじいちゃんになることができました。このように、武士の性格と、まさに摂関政治のような貴族的性格の両方を兼ね備えたところが、これが清盛政権の特徴となります。

 

平氏の経済基盤

では、その清盛政権を支えた経済的基盤は一体なんなのでしょうか?その権力のベースをみていきましょう。

知行国

まずは、知行国です。その国の収入を総取りすることができたのが知行国でしたね。そんな知行国平氏一門(息子とか甥っ子とか)にどんどんと与えていくことになります。全国に散らばる荘園はその数なんと500、そして知行国は30と言われています。荘園に関していえば、全国の半分以上を独占していたということになります。

 

日宋貿易

2つ目の経済基盤は日宋貿易です。中国の王朝や朝鮮の高麗との交流が活発化していきます。国使を互いに交わしたオフィシャルな正式国交ではないのですが、民間人レベルの往来は頻繁に行われていたと言われています。清盛政権の時代、宋はに圧迫され、いよいよ宋は南宋になると通商がさらに活発化するようになります。中国の歴史上でも中国南部はかねてより非常に経済力に富んでいて、中国北部はどちらかというと南部の経済力に支えられている、南部からするとお荷物のような扱いだったのが北部です。ですから、南部だけで勝負できる南宋は経済的にもかなり豊かであったといわれています。さて、この南宋の時代になると通商がかなり頻繁になってきます。

 

まず清盛は、貿易港として大輪田泊を改修します。泊というのは港ということだよ。これは、いまの神戸市、ヴィッセル神戸のホーム・ノエビアスタジアム神戸がある和田岬のことを指します。神戸というのは世界有数の良い港町といわれており、神戸はご存知のとおり、六甲山があって山がそのまま海に向かってそのまま落ち込んでいる地形をしています。海底が深いので大型船でも岸壁まで横付けできるのです。うまくやればちょっとの工事で良い港になった大和田泊。山から見下ろす夜景がそれはそれはとても綺麗なわけです。日本では、神戸以外にも、函館や横浜、長崎などが港町としては有名ですね。清盛は、そんな港町として神戸の地を選び、港の改修工事を行なって日宋貿易をより発展させようと考えたのでした。それでは、日宋貿易における代表的な輸出品と輸入品をみていくことにしましょう。

輸出品

金・水銀・硫黄・木材・刀剣などがあります。とくに金は、これから江戸時代まで続く代表的な輸出品だったのです。

輸入品

どちらかというとこちらの方が重要です。最重要の輸入品はというと、宋銭といわれるお金ですね。お金というと、奈良時代から平安時代初期まで使われていた皇朝十二銭がでしたね。その皇朝十二銭の最後であった乾元大宝から先は、中国からお金を輸入し、それを流通させていました。その方が、お金に含まれる銅の質も安定しているし、中国は日本にとっても最も信頼できる国でもあったので、この銅銭を日本に輸入し、流通させた方が都合が良かったのでした。

 

平氏勢力の台頭

このように、平氏が経済力をつけて、政治権力を独占していった姿をみんなOKしたかというとそうではありませんでした。平時忠が「平氏でなければ人でない」といったように、平氏の思い上がった態度に対してあまり良く思わなかった人も結構いるわけです。平氏の権力独占は、一つ前の政治の流れでいえば、摂関政治後三条の新親→院政でしたが、平氏院政期のときに、院を取りまく院近臣たちと対立をしていくのでした。その中で起こった事件が、鹿ケ谷の陰謀です。

鹿ケ谷の陰謀

藤原成親僧・俊寛らによる平氏打倒の計画が鹿ケ谷の山荘で練られていました。その場には、清盛を太政大臣に任命した後白河法皇も同席していました。後白河法皇としても自分が権力者だと思っていたのに、清盛が我が物顔でのさばるので、これは何とかしたい!と思っていました。そこで平氏打倒計画を企てたのですが、その席でこの3人、お酒を飲みながら計画を練っていたのです。やっぱり計画は真面目に立てないとダメですね。お酒を飲みながらの計画はうまくいくわけありません。この3人は酒を酌み交わしながら「平氏の奴ら、腹たつよな」「権力独占してのさばりやがって」「平氏は人でないなんて言っちゃってよぉ」みたいなやりとりがあったのでしょう。そして、酒をくみかわしていくうちに、3人とも気分がよくなっちゃって、「よっしゃ、ここでいっちょ平氏を倒してみるか!」「それはいいですなぁ!」と話していたときに、3人の中央に置かれていた瓶子(トックリ)がコロっと倒れたのです。「ははははは!瓶子が倒れた=平氏が倒れた!これは面白い!平氏を倒そうと思ってたときに瓶子が倒れるとは!」3人のバカ騒ぎはさらに続きます。「これはついでだ!平氏の首を取ってやれ!」といいながら、この瓶子(トックリ)の首の部分を割って切り取ったのです。しかし、いくらなんでもこれはちょっと冗談が過ぎますよね。そんなやり取りをコソッと聞いていた人物が、清盛に密告をし、成親や俊寛は捕えられたのでした。そして、同席していた後白河法皇も幽閉(監禁)されたのです。

 

いよいよ源平の戦いへ

酒の席でこういう計画を練れば、絶対にどこかから漏れるわけですよね。さらに、瓶子が倒れたことを平氏が倒れたとなぞらえて、首を切り取るなんてことはちょっと度を越したおふざけですから、処罰されても文句は言えません。しかし、3人を厳しく処罰したことが、ますます平清盛に反旗をひるがえすムードを高めてしまい、反清盛勢力の結集を促すことになってしまいました。反清盛勢力らの「清盛を倒してほしい!」という期待感はいったい誰に向けられたのでしょうか?そうです、前回お話しした、命だけは逃してもらったあの源頼朝に一気に期待があつまるのでした。さぁ、次回はいよいよ源氏と平氏の戦い、源平合戦です。