日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

040 源平の争乱(治承・寿永の乱)

目次

 

さて、いよいよ鎌倉時代へ突入したいところではあるのですが、今回は少し工夫をして平安後期から鎌倉時代の前半までラップさせながら進めていくことにします。というのも、武士っていう奴らが登場して、すっかり武士の世の中になってしまったということで、そんな武士の成長過程を辿ってみたいからです。 

さて今どこにいるのかというと、平安末期から鎌倉時代にかけてです。ですので、武士の中でも主導権が平氏から源氏へと交代する、それは源氏と平氏が争うということですので、いわゆる源平の争乱のお話をしてみたいと思います。 皆さんご存知なのは、義経が◯◯の戦いで勝った!というようなことを想像するのではないでしょうか。そういう一連の源平の争乱のことを総称して治承・寿永の乱といいます。ある程度の教科書や参考書になると、源平の戦いとは言わずに、治承・寿永の乱と書かれていることがほとんどです。

平氏専制政治への不満

鹿ヶ谷の陰謀

 前々回お話したように、平氏が「平氏こそが一番なり。平氏でない者は人ではない」と言い放つくらい権力を独占し、上から目線なのでしたね。そういった平氏専制政治に不満を持った人々が増えてくるのでした。一つは、鹿ヶ谷の陰謀といって藤原成親や僧・俊寛らによる平氏打倒計画が建てられるのですが、これは失敗に終わります。前々回にもお話しましたが、「平氏最近腹立つよな〜」「いっちょ平氏やっつけてやるか〜」みたいな会話をお酒飲みながらやっちゃったもんだから、それがバレて陰謀が明らかになって捕らえられたのでしたね。この背後には後白河法皇の姿もあったことから、平清盛後白河法皇を幽閉しました。そして、清盛は、孫を安徳天皇として即位させ、平氏はますます権力を独占していくのです。こうして、ますますの権力独占が強まっていくわけですので、さらに平氏に不満を持つ人も多くなりました。

それでは、平氏専制政治への不満を抱く二つ目の事件をみていくことにしましょう。

以仁王(もちひとおう)の令旨

「院を閉じ込めるなんておかしいだろ!!」ということで、幽閉されてしまった後白河の子・以仁王源頼政がタッグを組んで挙兵します。実際、この2人は兵を挙げて平氏を倒そうというところまでいくのですが、まだまだ時期尚早でこの二人の挙兵はあえなく失敗に終わります。しかし、その裏側で以仁王は、全国の武士あるいは全国の協力してくれそうな武士に手紙を送っていました。これを令旨(りょうじ)というのですが、「誰か一緒におごり高ぶる憎き平氏のヤツらを倒しませんか?」という呼びかけの文書は、挙兵が終わって乱が静まった後も全国にばらまかれつづけ、各地に令旨が届けられるのでした。そして、この手紙を受け取った各地の源氏たちが「あ、そうなのか!よっしゃオレも!」「じゃあオレも!」「オレもやるぞ!」となったわけです。なので、以仁王自身の乱は失敗したけど、令旨の効力は生き残って各地の源氏の挙兵を促したということになります。

不満の声を浴びた平氏の動き

では、各地の源氏がどのような動きをしたのか見ていく前に、平氏の動きをみておきましょう。こういった平氏に対する不満が高まる流れの中で、「おい、ちょっとヤバイ感じやん…。」と危険を感じた清盛サイドは福原京という新しい都を作って遷都します。本拠地を京都から神戸に移して、自分の身内を固めようとしたわけですが、「自分たちの勝手な判断で天皇上皇をむやみに移すなー」といった大寺院や貴族の反対を受けてわずか6ヶ月で京都に戻っています。

平氏打倒の挙兵

では、以仁王の令旨に応えた全国各地の源氏について代表的なものをみていくことにしましょう。

伊豆の源氏(石橋山の戦い富士川の戦い

さぁ、今のところ源氏の棟梁といえば平治の乱の生き残りで、年齢がまだ幼かったという理由で、命だけは許され伊豆に流されていたあの人です。そう、源頼朝ですね。そんな源頼朝、実はあまり戦いは上手ではありませんでした。意外にも戦争向けの武士ではないんですね。なので、石橋山の戦いでは、平氏平維盛)軍を倒すために戦ったものの敗北を喫しました。但し、人望は人一倍厚かったようです。負けはしたものの、各地の武士たちが「お味方したい」「協力します」ということで、味方を従えてリベンジマッチに挑みます。これが、富士川の戦いです。

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しかし、この戦いは戦わずして源氏が勝利します。というのも、ある夜に富士川を挟んで両者にらみ合いの状態でした。軍勢の数は圧倒的に源氏の方が有利な状況です。しかも、夜討ちを得意とする源氏相手に平氏はひたすら身構えたまま。そこに、一匹の水鳥がバタっと音をたてて飛び立ちました。するとそれに応じた水鳥の大群がバタバタバタバタバタっと大きな音をたてて飛びたち、その音に驚いた維盛軍は頼朝軍が川の向こうから仕掛けてきたと勘違いをし、西方へと逃げていったのでした。そして、勝利した頼朝らは川を渡って追い討ちをすることなく、一旦東国(鎌倉)に引き返し、着々と新しい政権の準備を進めていきます。

信濃の源氏(倶利伽羅峠の戦い

信濃という国はとても広大でした。今の長野県でも岐阜県寄りにある木曽という地域に源義仲という源氏がいました。木曽にいるので木曽義仲とも呼ばれています。義仲は、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い平氏平維盛)軍に勝利をします。この戦いはちょっと面白く、倶利伽羅の峠の上から平氏の大群に対して夜討ちを駆けたのでした。どのような方法で夜討ちをかけたのかというと、何百頭ものウシさんの角にたいまつを着けて、油断していた平氏めがけてドドドドドーっと一気に駆け下りたわけです。普段、牧場とかで見る可愛らしいウシさんですが、けっこう身体は結構大きいですよね。そんなでかい身体をしたウシの大群が角にたいまつを着けて駆け下りてきたひにゃ、平氏も為す術はありません。このように、相手の意表を突く戦略で相手を圧倒する、どこか野武士のような山賊色の濃い源義仲平氏に勝利します。

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源氏の名を汚す義仲

そんな義仲さんは、勢いもそのままに一気に京都まで突っ込み、京都を占領状態にします。平氏都落ちをし、これから平氏はどんどんと西へ西へと逃げざるを得なくなってきます。親分肌で野武士のような義仲さんが率いる平氏の武士たちですが、もとはといえば田舎から出てきている山賊出身ということもあり、野蛮な性格をもつ人も少なくありませんでした。そんな義仲の軍隊はあまり統制がとれていなくて、かわいい女性をみかけたら女性をさらったり、ちょっと高価なものをみつけたら略奪を働いたり、お腹が空いたら食料を泥棒したりと、京都の治安悪化を招くのでした。今までの源氏と違ってイメージがちょっと悪いですよね。

義仲を討つ範頼・義経

そこで、源氏の親分でもある源頼朝は、同じ源氏の義仲の評判が落ちていて、これ以上源氏のを汚すことは許されない。だから、源氏のリーダーとして義仲を倒さなければならないですよね。しかし、義仲は野武士なわけですから戦には相当強いわけです。もっと戦上手を出さなければ頼朝には勝ち目はありません。そこで、打倒義仲のために頼朝の切ったカードが、弟の源範頼、そして源義経なのです。そして、この2人の力によって源義仲を滅ぼします。(宇治川の戦い

まとめ

はい、ここで一旦まとめますよ。義仲の軍が京都で略奪や乱暴をするわけです。源氏のリーダーとして頼朝は、源氏の評判を落とす義仲を倒したい。しかし、自分は戦があまり上手ではない、一方で義仲は戦のスペシャリストである。そこで、弟の義経という男が義仲を滅ぼすのでした。そして、もう一つ。この間に平清盛が熱病によってこの世を去ります。清盛の後を継いだのが三男の宗盛ですが、清盛亡き今、その力は次第に衰えを見せ始めます。

平氏の滅亡へのカウントダウン

さぁ、ここからは彗星のごとく登場した義経のゾーンに入っていきますよ。まさに絶好調の義経ワールドの時代です。

一ノ谷の戦い@摂津

一の谷というのは今の須磨付近です。都落ちした平氏は、須磨の海側に陣を張ります。一方の義経は、本隊とみせかけた軍勢(範頼軍)を東から差し向けている間に、義経率いる騎馬隊は大回りをして鵯越(山側)へ兵を進めます。そして、一気に山を駆け下りて平氏の背後から仕掛ける奇襲作戦に討って出ます。

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てっきり東側から源氏がやってくるものとばかり思い込んでいた平氏の軍勢は、油断していたスキに背後から奇襲をかけられた形になります。義経の得意とする戦略機動の奇策はみごとに的中しました。実はこの数日前、現地の村人に聞き込みをしていたそうです。「この坂道はウマで駆け下りることができるか?」と。村人は「いやぁ〜それはどうでしょう。シカなら駆け下りることは出来ますが、ウマはちょっと難しいのではないかと。」と言われたのですが、義経は「シカが駆け下りることができえるんだから、ウマが駆け下りられないことはないだろ!」と言って、勇気を持って義経が先頭を切って平氏に突っ込んでいったのでした。ちょっと無茶苦茶ですが、誰も思いつかないこのように戦略機動的な作戦を立てることがとても上手なのが義経なのです。そして平氏は、慌てて船を使って瀬戸内の海へと逃げていくのでした。

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屋島の戦い@讃岐

この戦いでも、正面に軍隊がいると見せかけておいて、実は本隊は背後に回って一気に仕掛ける戦略機動が見事に炸裂します。

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そして、平氏を海に追い落としていくわけです。戦いの終盤、夕刻となって休戦状態になると平氏軍勢の一曹の船から一人の女官が登場します。そしてその女官はおもむろに棒の先に取り付けた扇を掲げて「これを弓矢で射落としてみよ。できる?」みたいな無茶振りをするわけです。そしたら、源氏の軍勢の中から那須与一という弓矢の名手が現れて、揺れる船の上から弓を構え「南無八幡大菩薩、この矢、外させ給もうなー!!」と絶叫しながら、外せば切腹覚悟で揺れる船上に掲げられた小さな扇の的をめがけて矢を放つわけです。この屋島の戦いの終盤戦を描いたのが、あの有名な平家物語の「扇の的」のエピソードです。

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壇ノ浦の戦い

壇ノ浦というのは、今の関門海峡付近。関門海峡の潮の流れは日本でも3番目に速く、義経はその潮流の変わるタイミングをうまく利用して、潮の流れに乗って平氏に攻撃をしかけました。そして海の藻屑へと叩き沈められた平氏ですが、「おごれるものも久しからず」「ただ春の夜の夢のごとし」あれだけ繁栄していた平氏もこれで滅亡します。そして、この戦いによって桓武平氏として代々受け継がれてきた三種の神器である宝剣と勾玉がなくなっています。さて、これにて一件落着、めでたしめでたし!…では終わらないないんですよね。さて、この後、何が起きたのでしょう。

頼朝と義経の不和

源氏の棟梁であった源頼朝とその弟・義経との間に衝突が起きます。「えーっ!なんでー!?」と思いますよね。実は、頼朝さんは源氏の棟梁であったけども戦はそんなに得意じゃない。一方でいくつもの合戦で連戦連勝を収めて人気の高まっていった実力派の義経どちらが源氏のリーダーにふさわしいのかという問題が浮上します。こういう、総大将なのかそれとも実際に敵を打ち破った武将なのか、こういうところでの確執っていうのは日本史・世界史関わらず結構よくあることなのです。結果、頼朝と義経両者の対立が生じ、義経は小さい頃にお世話になったことのある奥州藤原氏のもとへ身を寄せるわけです。

しかし、義経に身を寄せられた奥州藤原氏としては心境的には複雑です。このまま置いておいたら頼朝から睨まれちゃうし、かといって義経のことは放っておけない。案の定、頼朝がやってきます。頼朝は、奥州藤原氏の棟梁であった藤原泰衡(やすひら)に対して義経殺害を要求します。なので、歴史を愛好する人々からすると、頼朝ってあまり印象がよくないんですよね。でも、頼朝は頼朝で源氏の棟梁として源氏の名を汚さないようにと野武士・義仲をやっつけたりと、正しいことを信じて真面目にやってきたので、悪い印象をもたれるのはちょっと可哀相な気もするのですが・・・。

そして、結果的に義経をかくまったという理由で藤原泰衡も頼朝に討たれて、奥州藤原氏は滅亡するのでした。これで、日本全国の中で唯一支配できていなかった東北エリアも源氏のものとなり、いよいよ鎌倉幕府が成立していきます。一説によると、義経はモンゴルへと渡り、チンギス・ハンを名乗り大帝国を作ったとされています。ちなみにこの説を一番最初に説いたのが、江戸時代に日本にやってきたドイツ人医師のシーボルトさんです。(試験には出ません)

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