日本史オンライン講義録

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045 執権政治のさかえ

目次

 

さて、執権政治がいよいよ全盛期を迎えますよ。今回、3代執権・北条泰時5代執権・北条時頼の時代をみていくことにします。あいだの4代執権は北条経時というのですが、経時さんは任期がわずかだったこと、あるいは大きい動きがあまりなかったので飛ばします。

3代執権・北条泰時の時代

前回、承久の乱の鎮圧で功績を挙げた北条義時の息子・北条泰時3代執権となります。泰時さんのやったことといえば、連署という職を置きます。

連署の設置と評定衆の設置

連署というのは、執権の補佐を行います。この連署も北条氏が任命されたので、執権と連署がタッグを組んで幕府を運営するということになります。そして、執権と連署が何か相談したいことがあれば、11人の御家人からなる評定衆という機関で、合議で政治が推し進められます。要するに、連署の上に評定衆が設置され、連署や執権が評定衆に諮って、評定衆11人で相談していろいろと決め事をしていくといったものです。このように執権政治を固めていくわけですが、ここで出されたのが御成敗式目です。

御成敗式目

これは中学校でも習いましたね。51か条からなる武家が初めて持つことになった法典です。ここには何が書かれているかというと、今まで武家同士が幾度となくトラブルを起こしてきた際に、今まで武家が代々やってきた先例慣習あるいは道徳などの道理がまとめられたもののことを言います。つまり、「今まで武家同士がトラブった時、昔からこういう方法で対処してきたよね!」あるいは、「武家の道徳的にはこう裁くのがセオリーだよね!」といったような先例や道理をまとめたものです。模試とかで御成敗式目を説明しなさいといった問題が出てきたときには、先例や慣習、道理というキーワードを漏れなく記してください。

以上の項目以外にも、守護というのは「こういうことができますよ!」「これだけの収入が得らることができますよ!」と権限の内容が示されたりもしました。また、武士と武士、武士と荘園領主などの争いを公平に裁くためにも御成敗式目は使われました。

ここで注意して置かなければならないことは、この御成敗式目が唯一の決まりごとかというとそうでもないのです。朝廷のワールドっていうのは、守護と国司が、あるいは郡司と地頭が、それぞれ並立している状態なので、朝廷の公家法と、荘園のローカルルールである本所法も同時に効力を持つのです。なので、御成敗式目はあくまでも武家の法令です。効力が発揮される対象者は、あくまでも武士と武士、武士と荘園領主の間のトラブルのみってことになります。朝廷の人や国司、棟梁、あるいは荘園などに関しては公家法や本所法も同時に効力を持っています。

式目追加

で、この御成敗式目がしばらくの間、武士のルールとして使われるのですが、のちに法が追加されると「式目追加」と言われるようになります。そして、この後の室町時代でもこの御成敗式目は生きていて、室町時代になってからも追加されましたってことで「建武以来式目追加」と言われます。ということで、鎌倉時代そして室町時代を通して武家が守らなければならない基本法御成敗式目であるということです。

 

よくセンター試験とかの正誤問題とかでは、

室町時代武家法は、鎌倉時代から続いてきた「御成敗式目」から変わり、「建武以来式目追加」となった。

 といったような誤りの文が選択肢でよく登場するのですが、使われなくなった的ニュアンスではなく、鎌倉時代御成敗式目がどんどんカスタマイズされつつ室町時代においても武家基本法御成敗式目が使われ続けたということをポイントとして抑えておいてください。

5代執権・北条時頼の時代

この時頼さんの時代ですが、北条氏により執権政治の全盛期と言われるので強調しておきます。泰時さんのときもそうだったのですが、時頼さんも権力固めのために様々な役職を設置していきます。

引付の設置

評定衆のもとに引付という役所を置き、その引付で働く人たちのことを引付衆といいます。この引付衆さんたちは何をやるのかというと、土地に関する訴訟を専門に担当する部署です。何かというとこの時代、土地に関するトラブルが耐えませんでした。我々が今生きているこの時代のトラブルというとお金にまつわるトラブルが多いですよね?だけれども、この時代はというと、富のもとっていうのは土地から産み出される生産物なわけですよね。だから、我々のお金に関する訴訟と同じように、土地に関する訴訟が多いわけです。土地の広さがすなわち経済力といえるでしょう。

例えば、川を挟んでAさんとBさんがそれぞれ土地を持っていたとします。ある日、大雨が降って川が氾濫をしたため、川の流れが変わってしまいました。そしてAさんがこう主張するわけです。「もともとオレの土地は川の東側にあった。かつての場所は確かにあんたの土地だったのかも知れないけど、今は川の東側にあたる土地は全てオレの土地だ!」なんてね。

当時は、このような土地に関するトラブルが頻発していたので、この引付がお互いの言い分を聞き、事務書類を作成した上で、「こうこうこのような理由で、最終的な判決はこうした方がいいのではないでしょうか」と評定所に持っていって最終的に評定衆が決定する。このように迅速で公正な裁判を実現するために設置されたのがこの引付衆です。

執権政治の強化

宝治合戦

北条氏にはまだまだライバルがいます。まずは、執権の座を狙おうとしている有力御家人三浦泰村一族を滅ぼします。なぜ三浦泰村が討たれたのでしょうか?実はこの時、将軍として藤原頼経という人が立てられていました。北条氏にとって将軍というのは、あくまでもお飾りであって、あまり権力を持ってほしくなかったのです。しかし、そうも言ってられません。そこに北条氏を倒したくて仕方のない三浦一族が将軍を頼って陰謀を巡らせるわけです。「僕らが将軍様をお守りするので、北条氏を追い出すことに協力してもらえませんか?」と。北条氏サイドからするとこの動きは面白くありませんよね。

そこで、藤原頼経を廃位し、そして同じ藤原氏である藤原頼嗣を立てます。しかし、すぐに廃位させます。やっぱり、北条氏にとってこの藤原さん将軍はあまりよろしくない、ということで新しい将軍を皇族から招きます。皇族将軍であれば、幕府と朝廷のパイプ役にもなってくれるだろうし、もはや皇族が北条氏の権力を奪うなんていう発想は抱かないだろうから、ここは一つ皇族から将軍をということで宗尊親王を新しい将軍に立てたのでした。

このいわゆる皇族将軍が4代続きます。但し、当然のことながら実権は与えられていません。北条氏にとっては、朝廷と幕府のパイプ役になってくれる程度がちょうど都合がよく、何か大きなことをやらかすような将軍じゃないほうがいいわけです。こうして北条氏は、4代続く皇族将軍の名目上ナンバー2である執権として権力をふるうのでした。

禅宗の保護

さて、この時代、中国から新しい仏教のタイプとして禅宗という仏教が伝わってきました。北条時頼禅宗を保護したことで知られています。具体的には、中国の南宋から禅宗を伝えに日本にやってきた蘭渓道隆をというお坊さんを保護し、建長寺というお寺を建ててあげます。

 

ということで、ここまでが執権政治の全盛期・北条時頼の時代です。この北条時頼さん、執権の座を狙おうとしたライバルの三浦泰村を追い落とし、それらと結びついているんじゃないかとされる将軍を廃し、また次の将軍も廃し、新しく皇族から将軍を迎え、禅宗を保護するといったような執権政治の全盛期を作ったのでした。