日本史オンライン講義録

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046 武士の生活

 

鎌倉時代の前半も今回で一区切りです。今回は、武士の生活ということでお話をしたいと思います。平安中期から武士が登場し、武士がだんだん力を持ってきて、平安末期にはすっかり武士の世の中になっていったよっていう流れを見てきましたが、そんな武士の鎌倉時代の生活ぶりはどうであったかを見ていきましょう。

 

武士の生活

住まい

武士の生活はどんなものかというと、住居は少し周辺よりも小高い場所にを構えます。ちょっと上から眺め見下ろせる場所ですね。そんな場所に、平安中期以降、貴族の間でよく使われた寝殿造を簡素化した武家といわれる構えの家に住んでいました。

農業経営

そして武士は先祖代々の土地を使って農業経営もするようになります。例えば、将軍様から「自分たちのものにして良いぞ」「今まで通りその土地を治めて良いぞ」あるいは「新しく土地をやろう」と言われてゲットしたいわゆる直営地も耕作します。直営地は、といわれたり門田と言われたり、正作(しょうさく)用作(ようさく)などと言われたりしました。そして、この館の周りにあるような直営地の耕作には、下人や所領内の農民をあたらせました。下人ってのはいろいろなところで出てきますが、人に使われる人っていう意味なので、さまざまな時代で登場します。

地頭の仕事

そして、自分の直営地での仕事とは別に、武士には地頭としての仕事もあてがわれるのでした。守護っていうのは、国に1人ですからそれほど数はいないのですが、あとはみんな地頭となっていくわけですから、今で言うと市町村くらいの規模やそれよりもさらに小さい規模のエリアに配置されるわけですから、多くの武士たちは地頭に任命されるのです。

そんな地頭の仕事として、まず1つは、農民から年貢を徴収し、例えば公領であれば国衙、荘園であれば荘園領主に地頭が成り代わっておさめることになります。やっぱり、刀を持っているわけですから、おい年貢を出せ!って言われたら農民も素直に応じたのでしょう。このように地頭は年貢を徴収し、そして国衙荘園領主におさめるのでした。そして、徴収した年貢のうち一定量一段当たり5升)を兵粮米加徴米などとして自らの取り分にしたのでした。

武士なので、治安維持が本来の業務なのですが、そうそうトラブルがいくつも起こるわけはないので、日常の業務としては農民から年貢を徴収し、国衙荘園領主に成り代わって納め、「この地域一帯の治安と平和はこのオレが守ってやるぜ!だから、兵糧米・加徴米をいただくぞ!」ということで、その一部は治安維持にかかる軍事費として地頭らの取り分としたのでした。

 

惣領制

本家と分家

では、武士の生活をどんどんと続けていきますよ。とくに武士は、武士の家というスタイルであることから惣領制をとっていました。惣領制とは何かというと、本家の長男筋を惣領、(家督(かとく)ともいう)を中心とする血縁体制のことをです。長男の家柄のことをさす本家のことを宗家ともいいますね。宗家の首長を惣領(家督といい、他を庶子といいました。ちなみに、分家のことを一家といいます。

で、惣領は何をやるのかというと、一族を束ねるということなのですけど、戦争になったらその人が一武士団の大将となるわけです。そして、先祖や氏神など要するに家にかかわる庶務を束ねて行うのが惣領の役割です。

相続と結婚

そして、鎌倉時代にみられる武士の家を特徴づけるものとして、その相続形態があげられます。鎌倉時代の特色は、相続分割が原則です。例えば、お父さんと子2人がいたとします。お父さんが死んだらお前たちに土地を授けようということで、土地が2人に分割して相続されました。お兄さんには3人の子どもがいてやがてはその土地も3分割に、弟には2人の子どもがいてやがてはその土地が2分割にされていくのですが、それが続いて相続されると一人ひとりの取り分が少なくなってしまいます。のちに、所領の細分化を招いてしまいます。これが鎌倉後期の問題へとなっていきます。

あと、女性の地位はこの時代比較的高いです。女性が御家人になる、なんてこともありました。結婚形態は嫁入婚といって、女性が男性の家に入るスタイルが一般的でした。

鍛錬・道徳

武士となるものはあまり贅沢をせず簡素な暮らしをして、そしていついざ鎌倉となっても大丈夫なように常に体を鍛えておくことが武士の美徳とされていました。そのように戦う力を蓄える武芸が重視され、その代表的なものが騎射三物(きしゃみつもの)です。馬に乗って的を射る流鏑馬(やぶさめ)、フィールドにたくさんの的が置かれていて、それを射抜いていく笠懸(かさがけ)、そして、フィールドに犬を放ってその犬を狙うちょっと可哀相なのが犬追物(いぬおうもの)です。他にも、巻狩(まきがり)といって、一門の家来を引き連れて惣領が軍隊を指揮する大規模な狩りを行うことによって武士としての戦闘力を高めていくのでした。

 道徳・規範

そして、彼らの道徳規範は、 「武家のならい」「兵(つわもの)の道」「弓馬の道」といわれ、鎌倉時代あたりの武士の道徳が、後世の武士道のもとになっていきます。

武士の土地支配の拡大

国衙荘園領主との紛争

武士というのは、主に地頭なのですが、ここに国司がいて国司が治める役所のことを国衙といいました。そして、一部は貴族の荘園があったりしたわけです。本来は、国衙国司あるいは国司が派遣した郡司や郷司が治め、荘園は荘園領主がその土地を治めている、そのようなスタイルの土地に治安維持のために幕府から地頭が派遣されていくわけでしたね。ところが、この派遣された治安を守るための警察官のような役割を担う地頭が、だんだんとその土地の支配者っぽく振る舞っていくわけです。そうすると、国衙荘園領主は「お前たちにそこまで任せた覚えはないぞ!」ということで紛争が起こります。

地頭の土地支配の強化

特に、承久の乱後に任命された西国の地頭のことを新補地頭といいましたね。これが一番トラブルのもとになっていきます。というのも、幕府から派遣された警察や自衛隊のような存在だった地頭が、どんどんとその土地の支配者っぽく振る舞っていきます。

地頭請所

例えば、ある国のある地域に派遣された地頭がいたとすると、最初は国衙荘園領主に成り代わって税を納めるだけの存在でした。しかし、だんだんと土地支配力を強めていきます。なので、国司たち・郡司たち・荘園領主たちも、「農民たちとのトラブルも厄介なので、いっそのこと地頭に任せてしまおう!」ということで、もはや土地管理そのものを任せてしまい、年貢だけを国衙荘園領主が受け取る地頭請所の契約結ばれるようになりました。

特に、荘園領主なんかは自分たちは都にいて、加賀国下野国とかのように遠い所に荘園を持っているので、まぁ自分たちは年貢だけは貰えればそれでいいですよ、あとは地頭におまかせしますよ、といった流れになっていきます。そうすると、地頭はただの警察官や自衛隊の存在から、その土地の支配者っぽい振る舞いへと変わっていくわけです。

下地中分

もう一つは下地中分というものです、。そうすると地頭がこの土地の支配者っぽく振る舞うようになると、地頭の中には国衙荘園領主の言うことをだんだん聞かない連中も現れてくるわけです。このように「年貢をうまく治めてくれない」とか「オレがこれだけ面倒みてるんだからもうちょっと取り分を増やせ!」といったトラブルが頻発したので、国衙荘園領主も「それならもういっそのこと、このエリアの半分は地頭さんにやるからさ、全部取り分にしていいよ」と荘園を分割することを下地中分といいます。

この下地中分がとくに起きるのが荘園です。荘園領主は、都にいて暮らしていて遠くの国に荘園を持っているわけですから、現地の荘園を地頭に任せていました。荘園領主荘園領主で、地頭さんは年貢を毎年納めてくれるかなと思っていたら、今年はちょっと地頭の取り分が多かったなんてこともよくありました。地頭にその理由を聞いてみると、「今年は年貢の一部は多めに拝借させてもらいますよ。なんせこの土地を管理しているのは僕ですからね。」とか何とかいって、少しずつ地頭がその土地の支配者っぽく振る舞っていく中で、土地をめぐるトラブルも頻発していました。そのトラブルを防止するために、荘園を分割して地頭に与え、支配権を分割する下地中分を行っていたのでした。ちなみに、伯耆国の東郷荘の例が有名です。

こうして、土地(公領・荘園)を地頭が乗っとった形になりますね。当然、国衙荘園領主も、あるいは国司・郡司・郷司も、幕府に対して「何とかしてくださいよ!あいつら地頭が支配者っぽく振る舞うことで困ってんですよぉ」と訴えます。しかし、「とはいってもねぇ、それは当事者間で解決してよ。」というように、幕府は事実上地頭の土地支配を黙認した形になるので、地頭がどんどんと乗っ取った形になっていきます。