日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

047 蒙古襲来

目次

 

今回から鎌倉時代の後半がスタートします。日本人にとってわりと馴染みの深い出来事からはじめましょう。それは何かというと、モンゴル帝国が襲ってきて日本人がそれを撃退したという蒙古襲来です。いわゆる元が襲ってきた元寇のことです。寇という文字は冠ではないのでご注意を!

この鎌倉時代前半から後半にかけて、世界ではどのような動きがあったのかというと、チンギス=ハンが現れて、モンゴルからスタートし、中国にあるいは西アジア方面にあるいはロシア方面にどんどん進出していくわけです。いわゆるモンゴル帝国の建設です。

そして、孫のフビライ=ハンの世代になると、かつてチンギス=ハンが建設したモンゴル帝国がやがて5つに分かれて、そのうち中国の領土を受け継いだのが孫の一人であるフビライ=ハンなわけです。このモンゴル帝国の中国の部分を「」というのです。この「元」が、お隣の朝鮮半島の「高麗」を服属させ、お次は日本だ!ということで「おい!日本よ!オレの家来になれ!」というわけです。ここでいう家来になれというのは、具体的にいうと「貢物をもってこい。そしてオレ達に臣下の礼を取れ!」ということです。この状況に直面した8代執権が北条時宗です。

8代執権・北条時宗の時代

この北条時宗が直面したのが、この元寇です。モンゴル人が襲ってくる蒙古襲来のことですね。元寇は2回ということを中学校でも習いましたね。蒙古襲来は2回あります。

文永の役

最初の元寇は、文永の役といいます。時の執権が北条時宗ですが、元の朝貢要求に対して拒否をするわけです。すると、元+高麗軍が、博多湾にやってきてそのまま上陸しようとします。日本はというと、かなり苦戦します。なぜ苦戦するかというと、何しろ日本が外国の軍隊と直接バトルをするのは歴史上しばらくありませんでした。そうすると、全然戦法が違うわけです。元軍は集団でやってくるわけですね。日本は、馬に乗った武士が、「やぁやぁ、我こそは!◯◯であるぞー」とまずは名乗りを上げて、一騎打ちで戦うのが日本の戦術の主流でした。しかし、日本が「やぁやぁ我こそは!」って名乗りを挙げて、名乗り終わらぬ内に元軍がピュンピュンピュンピュンと弓矢を放ってくるわけですね。「名乗りをあげずに弓を射るとは卑怯だぞ!」って言ったところで相手は日本語がわからないわけですから、お構いなしに出会い頭に即弓矢!ですよ。そういう出会い頭に即弓矢の連中らに対し、律儀に名乗りをあげて戦う日本にとっては苦しい戦いとなりました。

あと、元軍の放った火薬弾がドカ―ンっと爆発する「てつはう」という武器を手榴弾のようにどんどん投げ放ってくるわけです。こんな武器みたことも聞いたこともない日本軍ですから、非常に苦戦を強いられてしまいます。この苦戦を強いられた戦の様子が、蒙古襲来図絵巻に描かれています。

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馬に乗っているところを火薬の込められたてつはうという武器が爆発してその音に馬が驚いている様子が描かれていることで有名です。そしてこの作品ですが「私はこの戦いで頑張ったんですよ!すごいでしょ!」ということを伝えるために竹崎季長がこの絵巻物を描かせたと言われています。

結果、日本は苦戦を強いられてTHE ENDだったかというとそうでもありません。日本も頑張って応戦しています。というのも、元にとってはまだまだ様子見で、全力で戦ってないこともあり、あと天候が悪化して暴風雨ということもあって元軍は一時日本を撤退したのでした。ここでかわいそうなのは高麗軍なんですよ。高麗というのは元に攻め滅ぼされて元に降伏し服属した国です。日本を攻めろ!って言われて、いやいや戦わされてたくさんの犠牲者が出てしまったという何ともかわいそうな高麗です。

文永の役

で、この文永の役ともう一つ、弘安の役という出来事があるのですが、日本は文永の役後すぐに、元軍の集団戦法やてつはう戦法に対し、何か対策をしないといけないということで、九州北部の御家人たちを集めて、まずは九州の守りを固めます。もとから異国警固番役というのがあったのですが、本格的に強化に乗り出すわけです。

そして、もう一つが防塁です。相手が名乗らずに戦いを挑んでくるのであれば、まずは大きなバリケードを作って、相手の進出を食い止めた上で、そのバリケードを防衛線として利用したのです。相手が名乗らなければ、こちらも名乗る必要はない!ということを考えたのです。なので、万里の長城ほどではありませんが、バリケード博多湾沿いに作りました。今もその一部が例えば、福岡に西南学院大学という大学があって、キャンパス内に残っていたりしています。

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弘安の役

このように、文永の役後、防衛を強化した日本なのですが、再び元の襲来を受けることになります。それが元寇の2回目・弘安の役です。この間、元は元でちょっとした変化が起こっています。実は、元という国の南には南宋という元に抵抗する国があったのですが、この間に元は南宋を征服して服属させ中国を統一しました。この南宋という国は比較的豊かな国で、人口も多く、農業生産性も高いことから、これは戦争をするには都合がいいわけですね。それで、この南宋の軍も日本攻撃に参加させるわけです。そうすると、元は本気になって攻めてきますよ。文永の役の元の軍勢は3万2300人だったのですが、2回目となる弘安の役になると14万2000人に大きく増えています。やっぱり元も1回目は甘く見ていたのか失敗しているので、2回目は気合を入れて大軍勢を用意したのでした。九州北部に襲来して、結果どうなったのかというと、あの防塁対策がうまく成功しました。まず、防塁を作ってその先に元軍を入れない、そしてこちらも名乗って一騎打ちではなく、相手が確認できたらすかさず弓矢で射掛ける戦術が功を奏しました。なんとか博多湾からの上陸を阻止し、そして暴風雨が吹くのですが、14万人を海に叩き沈めた神風によって勝利した戦いがこの弘安の役です。やっぱりかわいそうなのは、高麗の人たちですよね。フビライ=ハンによって服属させられ、無理やり何万人も駆り出されて戦いに出向き、挙げ句の果てには暴風雨でひどい目にあってしまうというわけですよ。日本にとってはラッキーだったのですが、元や高麗にとってはアンラッキーだった戦だといえます。

この元寇での高麗の兵隊さんの苦しい様子を描いた文学作品として、井上靖「風涛(ふうとう)」が有名です。読書家の人は一度読んでみてください。面白いと思います。 

風濤 (新潮文庫)

風濤 (新潮文庫)

 

禅宗の保護 

はい、このように北条時宗さんはうまく暴風雨も手伝って元軍を追い払ったのですが、もう一つあげておきましょう。前々回に取り上げた北条時頼と同じく、仏教の一派である禅宗を保護します。元に滅ぼされた南宋のお坊さんが日本に助けを求めてやってくるわけですが、そのお坊さんを無学祖元といいます。日本に渡ってきた無学祖元を招き寄せて、円覚寺というお寺を建立します。

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円覚寺は、鎌倉の観光スポットの一つで円覚寺舎利殿というとても作りのいい国宝があるので、機会があればぜひ見てくださいね。

 

ということで、ここまでが時宗さんの時代です。今回は、北条時宗が2回の元寇をうまくしのぎました。異国警固番役や防塁といった対策がなかなか功を奏した戦いでありました。