日本史オンライン講義録

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048 蒙古襲来後の政治

目次

 

前回、何とかギリギリモンゴル帝国の軍隊を追い払い、蒙古襲来の危機をなんとかしのぎきった後、いろんな難題が降り掛かってきます。

9代執権・北条貞時の時代

ここまでの執権は、①時政→②義時→③泰時→⑤時頼→⑦時宗→⑨貞時ですね。全て名前に「時」が入っているので、覚える時にちょっと苦労するかも知れません。まぁ、そんな北条貞時ですが、蒙古襲来の危機をしのいだ後すぐに執権になりました。ですので、貞時さんとしては、「もう一度モンゴルがやってきたらどうしよう…。」といった悩みがありました。

鎮西探題の設置

そこで、九州の守備を強化しようということで鎮西探題を設置しました。この鎮西探題ですが、それまでは鎮西奉行と言われていた役職を強化したものです。この鎮西奉行のある九州って場所が位置的にも鎌倉から非常に遠いので、わりと曖昧な位置づけだったんですね。しかし、もしかするとモンゴルがもう一度やってくるかも知れないので、これからは九州の守りをしなければ!ということで、北条氏の身内を九州の長官として派遣して、九州の御家人を支配させました。これによって北条氏の命令を及ぼす範囲がどんどんと広がって、すなわり北条氏の勢力が拡大するきっかけとなったのです。

得宗専制政治の確立

続いて、北条貞時の時代にひとつ大きな変化が訪れます。それは何かというと、得宗専制政治が確立したということです。この得宗ってのは、北条氏の嫡流(つまり長男の家系)が権力を拡大していきます。では、権力関係をみていくことにしましょう。

鎌倉時代後半の権力関係

まず、幕府で一番のトップはというと将軍様ですよね。ただし、鎌倉幕府の場合は将軍様に実権はありませんでした。そんな将軍の家来のことを御家人といいましたが、御家人の中でもさらにトップに位置するのが北条氏であり、御家人の筆頭として将軍をサポートして幕府を取り仕切っているのが北条氏です。

ただ、そんな北条氏の中でも、嫡流(長男の家系)のことを得宗といいます。この得宗家が北条氏の中でも一番偉いということになるわけですね。実は、この得宗にも家来がいるわけでして、この得宗の家来のことを御内人(みうちびと)といいます。そして、この御内人の中でも一番偉いリーダーのことを内管領(うちかんれい)といいます。

霜月騒動

本来は将軍がいて、将軍の家来が御家人たちなのです。この北条氏の嫡流である得宗は、表向きは将軍の家来である御家人の一人なはずですよね。そして、この得宗の家来である御内人たちは、御家人達にとっては格下の存在であるべきはずなのに、今や将軍には実権がなくて北条氏が時の権力者になっているので、この北条氏の嫡流である得宗家来(御内人が「私は北条様の家来だぞ!」って御家人よりも威張りだすわけです。なので、この御家人御内人内管領も含む)が対立をします。そこで起きた事件が霜月騒動です。内管領平頼綱が、御家人安達泰盛を滅ぼしてしまいます。本来、身分の上では御家人の方が格上なのですが、滅ぼしたのは格下の御内人ということですね。

 平頼綱の乱

さて、今度は執権・北条貞時が、内管領平頼綱を滅ぼします。霜月騒動では、平頼綱安達泰盛が戦って、平頼綱が勝利するわけですが、次第に平頼綱が主君を超える権力を持とうとしました。結果的には、霜月騒動によって自分の御家人としてのライバルの安達泰盛が滅んだ後、北条貞時は自分の家来なのに威張っている平頼綱を滅ぼします。

では、まとめますよぉ。このように、北条貞時御家人としてのライバルが滅び、そして家臣のナンバー1も倒れていったので、残された得宗の権力がさらに高まったといえるわけですね。これで北条氏の嫡流がまさに一人勝ち状態である得宗専制政治が確立したということになります。

永仁の徳政令

ここでもう一つの出来事を挙げておきます。それが永仁の徳政令です。さきほど貞時さんの悩みを1つ挙げましたが、実は2つ目の悩みを抱えていました。それはどんな悩みかというと、モンゴル人は追っ払ったんだけど「元寇の恩賞が出せない」というのがもう貞時さんの悩みでした。

今までは、敵と戦って勝利すれば、その敵の土地をゲットすれば、家来に分配して恩賞を与えるのが慣例だったのですが、今回の元寇はただ単に上陸しようとしたモンゴル人を追い返しただけで、別に大陸から新しい土地をゲットしたわけではないので、御家人たちからすると「チェッ!一生懸命働いたにもかかわらず何も恩賞が得られないってなんでやねん!」と不満が募ったのでした。

もう一つ、御家人が苦しむ原因となったのが、これまでの慣習であった分割相続です。分割相続というのは、例えばお父さんが亡くなった後に、複数の子ども達に土地を分けて配分するといった行為でしたね。分割された土地をさらに自分の子どもに分割して配分し、さらに分割した土地を・・・ってなことを延々と続けていくと、いずれは土地がめちゃくちゃ小さくなってしまいますよね。このように分割相続のために、所領がどんどんと細分化されていったことも御家人を困窮させる大きな要因となったのです。

そんな苦しい状態なのに、元寇の恩賞が出ないとなるといよいよ生活できなくなる。そこで、断腸の思いで土地を質入れして、土地を売却し、売却して得たお金で当面の生活を凌ぐといった、まさに負のスパイラルへと陥っていくわけです。そうしたときに、永仁の徳政令が出されるわけです。

これは土地を買い取ったり、質を受けた人からするといい迷惑になってしまうのですが、質入れしたり売却された土地を武士のもとに戻しましょうとしたのです。そして、御家人が借り入れていた借金の訴訟をやってはならない、つまり借金の帳消しを実行したのです。これが永仁の徳政令です。このように武士の弱体化を防ごうとしたものの、土地が細分化されたり、出費の割には恩賞がでなかったりしたので、武士の暮らしはなかなか苦しいものがあり、効果は限定的であったと言われています。

このように、北条貞時の時代をまとめていきました。蒙古襲来後の政治です。ちょっと鎌倉時代ももうすぐ終わってしまうので、先に鎌倉幕府の滅びゆく姿を見ておきたいと思います。

14代執権・北条高時の時代

内管領による権力独占

14代執権は北条高時ですが、この人は、政治に関しては自分の家来のナンバー1である内管領長崎高資に全てを任せていました。内管領の権力独占というか、この北条高時さんは「政治はお前に任せた!オレはもう遊びにふけるから。」と言って、犬と犬を戦わせる闘犬をして楽しんだり、いろんな遊びをするわけです。だから、高時さんのイメージとしては志村けんのバカ殿様みたいな感じですかね。

正中の変

さて、そのスキを見ていたのかどうかは定かではありませんが、いよいよアイツが水面下で動き始めます。アイツって誰やねんっていうと、いよいよ登場、後醍醐天皇です。後醍醐天皇にって倒幕計画を企てられるわけですが、これはあえなく露呈してしまい失敗に終わります。これを正中の変といいます。

16代執権・北条守時の時代

元弘の変

後醍醐天皇による倒幕計画その2です。これも失敗に終わるわけですが、後醍醐天皇は何度も立ち上がり、最終的に新田義貞に声をかけて、一緒に鎌倉幕府を倒すことになります。