日本史オンライン講義録

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049 鎌倉時代の社会の変動

目次

前回、鎌倉幕府が滅びましたね。今回、鎌倉時代の特に後半の社会・経済について扱いたいと思います。1つは農業の発展です。

農業の発展

二毛作

二毛作といって1つの田で2種類の作物を育てるということです。米が表作なのですが、その米を刈り取った後の田んぼをうまく利用して、裏作として麦とか豆とかを作るということが多かったのです。これは畿内西日本一帯でよくみられました。それもそのはず、何と言ってもお米が取れない寒い時期なんで、比較的あったかい場所が二毛作を行うには適しています。だから、畿内・西日本で多く普及したんですね。とくに、麦を裏作とする二毛作が普及しました。

農業技術の発展

刈敷・草木灰

ただ米を植えるだけではなくて、肥料の利用ですね。この時代よく使われていた肥料といえば、刈敷。そして、草木灰ですね。刈敷っていうのは、雑草を刈って土の中に入れ込みます。そうすると、それが養分となって肥料になります。草木灰はというと、草や木を燃やした灰を土の中に入れ込みます。例えば、ホームセンターとかにいくと草木灰ではないですが、石灰が売られています。用途はというと、酸性の土をアルカリ性にするのに利用します。それと同じで、土壌を改良するために草や木の灰を土の中に入れ込むんですね。

鉄製農具

そして、もう一つは、鉄製の農具で牛馬耕が一般的に利用されていました。私も子供の頃、田舎に帰省していたときはよく畑の手伝いをさせられていたのですが、やっぱり庭を一から開墾するとなるとめちゃくちゃ重労働なんですよ。掘っても掘っても硬い土ばかりなので、めちゃくちゃ体力が必要なんです。でも、牛や馬に鋤を轢かせたらそれはそれは楽に耕すことができるので、鉄製農具や牛馬耕によって生産性の拡大が期待できます。

農民の副業

農作物を育てるだけではなくて、いよいよ貨幣経済が浸透していきます。室町時代になるとすっかりカネ社会になるのですが、鎌倉時代にもかなりカネ社会に近づいていきます。そして、農民が副業をやりはじめるんです。例えば、米を育てるかわりに、胡麻(えごま)といって、これを搾ったら油がとれるんですね。このように商品作物といって売ってお金にできる作物を栽培したり、その他にも、織ることによって作られた綿布麻布なんかも、売ってお金にかえていたようです。

 

商工業の発展

では、目線を町へと移していくことにしましょう。

手工業者の活動

手工業者とはたとえば、鍛冶とか、あるいは金属とかを溶かして鋳物を作る鋳物師ですとか、紺屋(こうや)と呼ばれる染物屋さんとかですね。最初はみんな同じ農民だったのですが、それぞれの特技が認められて農村内に居住し、商品を生産するようになります。鍛冶屋さんがうちの村にいてくれれば、鍬を作ってくれたり、鋤を作ってくれたり、何かと便利だろうということで商品を生産するようになります。

商業の発達

三斎市

しだいに定期市も開催されるようになってきます。例えば、三斎市(月に3度開催される市)が増加します。福岡県に二日市、あるいは愛知県に四日市という地名がありますよね。こういう市に数字がついている地名っていうのは三斎市が名残である場合が多いです。このように決まった日に市が開かれるのであれば、現代版でいうと決まった日にフリーマケットを開催しますよっていうのであれば、その日にその場所に人がモノがたくさん集まってくることになりますよね。商品は行商人が中央からいいモノ(織物や工業品)をたくさん運んできますし、そこで多くの人たちが売り買いをするようになります。

見世棚

他には、この定期市は月に3回といった感じで飛び飛びに行われるのですが、見世棚といって常設の小売店が出現するようにもなります。月に3回といったケチくさいことをいわず、ずーっと商品を置いておいて常に商品を見せておくことから見せ(見世)棚といいます。いまでは私たちはお店といいますが、お店は見世(見せ)棚が由来しているんですよ。

そして、いよいよ同業者の組合であるが結成されます。例えば、織物をおっている織物屋さんが5軒あったとすれば、その5軒で座を結成するわけですね。そこに6軒目の織物屋さんがやってきたとすると、その座が「おいおい!だれに断ってそこで商売やってるんだよ」といったように新規参入組を排除をして、自分たちの利益を死守するような動きもみせるようになっていきます。

さて、そんな市のにぎわいを描いた絵として「一遍上人絵伝」があるのですが、これは入試でもよく出される史料なので覚えておきましょう。

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これだけではないのですが、要するに一遍上人絵伝を読み取れば、今日お話した鎌倉時代の市の賑わいを知ることが出来ます。

 

流通

それでは最後に流通のお話をしたいと思います。

問(問丸)の発達

商品の輸送や中継を行う業者である問(問丸)が現れてきます。この問っていうものは、のちに室町時代では問屋(といや)と呼ばれるようになるのですが、これは現代にも通じる問屋(とんや)の原点となるものです。

為替

遠隔地間の取引に金銀の輸送を手形で代用するものです。手形っていうのは手に墨なんかを紙に付けてペッタリと押し付ける手形ではなくって、借金をしたときの借用書のようなものですね。

例えば、大阪で売ってある金1000枚の商品を、東京の人が欲しい!といって買おうとしたとします。

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そうすると、東京の人は自分じゃ遠隔地なので大阪まで取りにいけないので、自分の使用人に「おいお前、オレの代わりに大阪まで行って買ってまいれ!」と使わします。しかし、道中は盗賊なんかがウジャウジャいるので金1000枚を持っていると不安で不安で仕方がないわけですね。あるいは、金っていうのはとても重いので金1000枚を運ぶにも一苦労です。そんなときに、「金1000枚運ぶのが大変なので、じゃあ金1000枚貸しにしといてください」って書かれた紙切れ(借用書=手形)を作って、金じゃなくってその紙きれを大阪の商人に手渡します。そして、商品だけを東京に持って帰ります。すると、大阪の商人は「金1000枚貸しですよ」って書かれた借用書を金の代わりにゲットすることになりますね。

そして、今度は大阪の商人が、東京の商人から金2000枚分の商品を購入しようとしたときに、先日ゲットした金1000枚分の借用書と、今回新たに金1000枚分の借用書を今度は自分が作成して、合計2枚の借用書(金2000枚分の借用書)を東京の商人に渡して商品を受け取ります。こうしたやりとりが徐々に増えていくと、だんだんリアルマネーじゃなくって借用書のような紙のやり取りだけで決済をするようになるわけです。だってそうした方が金銀の持ち運びをしなくてすむし、盗賊から奪われるといったリスクも低減されますよね?ということで金銀の輸送を手形で代用するようになっていきます。このような商習慣は、ずっと時代が進んでいくと、信用を形にした現代でいう紙幣(お札)となっていくわけです。

貨幣の使用

鎌倉時代のお金はというと、平安末期から続いて宋銭あるいは、宋のあと元という王朝になっていくので、いわゆる中国からの輸入銭が使われるようになります。

金融機関

さて、お金の話がでてきたら、今度はお金を貸す連中が現れますね。利子っていうのは、古来の人間が発明した中で人々を悩ますものの1つですよね。この時代にも当然ですが高利貸し業者である借上(かしあげ)といった金融機関が現れます。

鎌倉時代借上(かしあげ)です。そして、室町時代土倉(どそう)という別の名称になっていってて、このことがよくテストとかで問われることがあります。

鎌倉(まくら)の 金貸し(ねかし)は 借上(しあげ)

すべて「か」つながりでゴロとして覚えてくと良いでしょう。

 

まとめ

このように農民は、二毛作をやったり、農業技術を発展させていったり、農民自身が副業をしてお金を稼ぐようになっていったのですが、どういうことが言えるかというと、要するに農村の経済力が向上していったのです。麦も取れるよ、肥料を使ってどんどん生産をしよう、そしてお金を稼ごう、といったように農村が徐々に徐々に経済力を向上させていったのです。そうすると、支配への抵抗を見せる農民も現れてくるのです。経済力が向上したら、その経済力をなんとか死守したい、だからその経済力を活用して自分の身を守ろうとするわけです。そこで登場してきたのが、悪党という人たちです。

支配への抵抗

悪党って聞くと、ゆすり・たかり・盗み・人殺しっていうイメージが先行しますが、そうではなくって簡単にいうと御家人でもないし幕府にも所属していないインディーズの武士のことを悪党っていいます。悪党は、農民と結びついて荘園領主や地頭に抵抗していきました。農民はすでに経済力を蓄えていますので、「うちの村を守って下さいよ」とかなんとか言って、インディーズの武士たちにお金を払って雇用関係を結びました。もし、なんにも武力を持ってなければ、荘園領主御家人が突然現れて「年貢を払え!いままでよりも倍納めろ!」とか言われたい放題ですよね。そうならないために、力を持ったインディーズの武士を自分たちで雇おうじゃないかっていう話になるわけです。これもすべて、農村に経済力がついたからこそ初めて成せるワザなのです。

農民の訴え

さらにそういった自立の芽生えがみられた農民たちですが、荘園領主や地頭を訴えるようになっていきます。そんな訴えの代表例として、紀伊国阿氐河荘(あてがわのしょう)の訴状が有名です。内容は、ひどい仕打ちをしてくる地頭を訴えるということなんですが、これもやはり訴えることができるだけの実力が農民にもそれなりにつきはじめた、ということですよね。