日本史オンライン講義録

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057 室町幕府

目次

 

室町時代というと、初代将軍に足利尊氏、2代将軍に足利義詮(よしあきら)という人がいて、有名なのが3代将軍が足利義満です。しかし、初代将軍の尊氏のころは、まだ室町という言葉はでて来ていないんです。これはどういうことかというと、3代将軍・義満が京都の室町という場所に大きなお屋敷を作ったことから、ここでようやく室町幕府と言われるようになったのです。日本史では、足利尊氏のころからを「室町幕府」として便宜的に一括りにされちゃうのですが、室町時代の室町という語源は3代将軍の義満が建てたお屋敷の場所ということを抑えておきましょう。ではそんな室町幕府が作られていったお話を今回はしたいと思います。

足利義満の時代

公家・武士・僧のトップへ

幕府のしくみはまた次回に回すとして、今回は足利義満の時代に何があったのかをみていくことにしましょう。さて、義満はそれはそれは凄い人なのですが、どれだけ凄い人なのでしょうか。まずはかんたんにまとめておきます。

足利義満とは

 ① 太政大臣 であり

 ② 征夷大将軍 であり

 ③ 法王 だった

 まずは武士のトップである征夷大将軍に任じられました。あの頼朝さんも征夷大将軍でしたね。そして、貴族のトップである太政大臣にも任じられています。あの清盛さんが太政大臣に任じられましたね。ちなみに、征夷大将軍太政大臣の両方になったのは義満が初です。そんな義満ですが、のちに出家をしてお坊さんになるのですが、僧侶としてのトップである法王にもなっています。つまり、3つの世界のトップに上り詰めたのですね。

そうすると、義満が建てた代表的なものとして鹿苑寺金閣が挙げられます。

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金閣は3層になっているのですが、1層目が寝殿造、2層目が書院造、そして3層目が禅宗で、1層目は公家を表し、2層目は武士を表し、3層目は今の自分を表しているなんてエピソードがあります。「どうだ!おれは征夷大将軍になり、太政大臣になり、法王にもなった。つまり公家のトップ、武士のトップ、僧のトップ、これら3つのキングになったんだぜ!」っていうのを表している建物だと解釈すると面白いですよね。実際のところは、そういった意味で義満は建てたわけではないらしいんですが、そうやってみるのも悪くはないなと思います。

室町幕府の体制確立

花の御所

さて、足利義満ですが、室町幕府の体制を確立しました。まず一つ目のトピックとしては花の御所というのを作ります。京都の室町というところにお屋敷を作って、そこで義満は暮らしました。ここから京都の室町が義満の政治の中心となったので、室町幕府と名付けられました。この室町幕府の体制については、次回 058 室町幕府のしくみ でお話したいと思います。

南北朝の合一

さて次のトピックは、義満のときに長らく続いてきた南北朝が合一します。南朝というと大覚寺統でしたね。大覚寺統後亀山天皇皇位を譲って北朝三種の神器を渡して、天皇家北朝持明院統)の後小松天皇に統一されました。

朝廷から幕府へ

足利義満は、朝廷から征夷大将軍の位をもらって幕府を開きました。幕府というのは治安を維持するための臨時政府なのですが、朝廷の権限がだんだんと幕府に移っていくことになります。そして、いつしか幕府が政府のように振る舞うようになるのです。たとえば、全国の土地に課した税である段銭(たんせん)の徴収権などをもつようになるわけですね。

守護の統制

さぁ、ここで日本全体をみてみると、守護が権限をどんどんと拡大していくわけですね。以前よりも力を付けた守護をうまくコントロールするためには、幕府はより強い力で守護を押さえつけなければなりませんよね。

土岐康行の乱(1390)・・・土岐氏の討伐

明徳の乱(1391)・・・山名氏清を滅ぼす

永の乱(1399)・・・内義弘を滅ぼす(「おお」つながりで覚える)

いずれも実力者であった3人をわざと挑発して、わざと乱を起こさせ、そして鎮圧することで勢力を削っていきました。たとえば、この土岐氏のいる美濃なんていうのは交通の要所ですし、京都から近い尾張伊勢を持っているので反乱を起こされたらきっと厄介な敵になることは間違いない、先に潰してしまおうということで土岐氏を討伐します。

山名氏清は、11か国の守護でした。なので、60か国ほど当時あった中で6分の1を占めているので、六分一殿と言われたりもしました。そんな山名氏が言うことを聞かなかったら、これもきっと厄介な的になるだろうということで先に潰しました。

そして、大内義弘は今の中国地方を中心に6か国ほどの守護でした。このように、あまり力を持ちすぎると要所であったり、国数の多い守護の勢力を削っておくことでうまくコントロールしようとしたのでした。

日明貿易の開始

義満は、中国の明とまずは国交を開こうとしました。

遣明船の派遣

僧の祖阿(そあ)と博多商人の肥富(こいつみ)の2人を明に送り込んで、国と国との付き合いを開始します。当時、明はいろんな国と主従関係を結ぼうとするような政策をとっていましたので、この明は船を送ってきた義満に対して「なになに?どうした?国交を結びたいだと?よし、わかった!じゃあ、まずは貢物をもって参れ!」といったことになります。これが、日明貿易の最大の特徴といえる朝貢貿易です。

明の皇帝へ貢物を送るという形です。貿易は、明に対して日本が常に貢ぐという形で貿易が行われます。だから、日本は当然明と比較すると下になるということがいえます。ただし、じゃあプレゼントを送るだけかというとそうではありません。貢がれた方としては立場が上なわけですよね。だったら、上の立場として明は日本に余裕があるところを見せなければなりません。その貢物に対してお返しの品を2倍返し、10倍返しで日本に返すわけです。なので、立場は日本の方が下なんだけど、メリットとしては日本の方があったといえます。

特徴その1・朝貢貿易

この朝貢貿易で潤った室町幕府の将軍・義満は「日本国王源道義」という名をもらい、自身は明の皇帝へ「日本国王臣源」と署名しました。

  • 明の皇帝「おまえを日本の国王として封じよう(認めよう)。」

というわけですね。日本国王の源さんという名前をもらいます。なんで源さんかというと、足利氏はもとをたどれば源氏なので、日本国王の源さんという名前をもらいます。そして、自身は明の皇帝に対して

  • 義満「あなたの家臣である日本国王の源です」というような署名をしています。
特徴その2・勘合貿易

さて、貢物を持ち帰る遣明船は、この勘合という証書を持参して、明の持っている底簿(帳簿)と合わせます。

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勘合というのは、1枚目の紙に2枚目の紙を重ねて2枚に渡って文字を書くわけですね。そして、2枚目の紙をペロっと剥がすと、1枚目の紙には文字の左側だけが残り、2枚めの紙には文字の右側だけが残った状態になりますよね。このように、1枚目(勘合)を日本がもち、2枚目(底簿っていわれる台帳)を明がもち、それらを突き合わせて照合できれば、「うむ、たしかに朝貢貿易の正式な船だな」ってわかるわけです。だから、明をだまくらかして倍返しや10倍返しの返礼品を得ようとすると一発でウソが発覚してしまうんですね。

これは当時、中国沿岸にはびこっていた倭寇(わこう)といわれる海賊と区別するために、日本が明へ出向くときに持っている「勘合」と、明が持っている「底簿」とを突き合わせて、倭寇によるなりすましを防いだのでした。

ちなみに、この勘合は皇帝の代替わりごとに「はい、勘合貿易100回分のチケットね」といった感じでで100枚の勘合を日本にドサって渡して、100回分の交易ができたというわけです。ですので、この勘合貿易をスムーズにするためには、日本も努力しなければならないですよね?日本も倭寇の取り締まりを精力的に行いました。

北山文化

義満の時代、最後のトピックです。足利義満の時代、京都に北山文化が花開くわけですが、最初にお話した鹿苑寺金閣は義満権力の象徴の一つともいわれています。そのほかにも、世阿弥による「風姿花伝」あたりが作成されたのもこの頃です。北山文化に関しては、また文化史のところで詳しくやりたいと思います。

 

さてここまでは、足利義満の時代のお話をしました。義満は、武家のトップ・公家のトップ・僧侶のトップとして3つの世界のキングとなった人物です。また、強い権限をもち京都に花の御所をつくり、室町幕府を確立させた人物でもありました。そして、日明貿易もはじめたのでした。では、そんな室町幕府のしくみについて迫ってみたいと思います。

室町幕府の機構

まずですね、室町時代で一番えらいのは将軍様です。そして、将軍から大きく2本の枝に伸びるうちの1本目は中央の機構です。

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中央

管領と呼ばれる将軍の補佐役が置かれました。そして、その下の主要な役職として、まずは評定衆(ひょうじょうしゅう)ですね。主に、所領関係が多いのですが訴訟審議を行います。また、鎌倉時代にも似たような役職が置かれていたのである程度はイメージできるかと思いますが、政所(まんどころ)ですね。政所の長官のことを執事といい、政所は将軍家の家政や財政について担当をしていました。そして、中央組織のもう一つとして、侍所(さむらいどころ)があげられます。侍所の長官のことを室町時代独特の呼び方ですが、所司(しょし)といいます。これは、御家人の統率や京都警備などを担当します。鎌倉時代のしくみと室町幕府のしくみは良く似ていますよね。執権だったポジションが管領に置き換わって、侍所の長官が別当から所司になるんだなって感じでその変遷をイメージできればよいかと思います。なので、割りと名前的には見慣れたものが多いですよね。

三管領四職

そこで、この管領なんですが、実は管領になれる家柄が決まっていまして、管領になれる家柄のことを三管領といいます。この三管領は、細川氏・斯波氏・畠山氏、これら3つの家柄から交互に選出されるということになります。さぁ、もう一つは御家人のリーダーでもある所司ですね。所司になれる家柄も決まっていて、その家柄のことを四職(ししき)といいます。これら四職とは、京極家・山名家・赤松家・一色家の4つの家柄から輩出されます。このように室町時代の有力な守護大名らのことを「三管領四職」といいます。

三管領四職を覚えるための必殺語呂合わせ

都のは 赤 一色」きょうとの やまは あか いっしょく

極)(名)(松)(一色

地方

 地方にはまず鎌倉府という役職が置かれます。この鎌倉府の長官のことを鎌倉公方かまくらくぼう)といいます。公方というのは将軍のことなので鎌倉将軍というようなイメージですね。この鎌倉公方は、代々将軍の親戚にあたる足利氏が担当します。鎌倉公方は重要な役職ですので、将軍の親戚筋が担当するのですね。そして、初代の鎌倉公方は、足利基氏(もとうじ)です。

そして、その下に置かれるのが関東管領です。この関東管領は、代々上杉氏世襲するということになります。ですので、中央における将軍(足利氏)と三管領っていう関係が、鎌倉にもそっくりそのまま持ち込まれて、鎌倉公方(足利氏)と関東管領(上杉氏)の関係になっていることがわかりますね。この鎌倉府というのは鎌倉に置かれたミニ幕府のようなものです。関東一円を支配するために置かれた幕府の出張所が置かれることになります。

あとは、遠くの地方を納めるための役所でたとえば、九州探題奥州探題羽州探題、そして守護頭たちですね。守護は前々回お話をしたように、その役割がだんだんと大きくなり守護大名とよばれるようになりましたね。しかしながら、この守護たちは、任国には赴かず、守護代に任せるケースが多いということを補足しておきます。

 幕府の軍事基盤

そしたら、幕府の軍事基盤についてのお話をしておきましょう。幕府のもつ軍隊のことを奉公衆(ほうこうしゅう)といいます。この奉公衆は、幕府の軍事力として周囲に睨みを効かせていくわけですが、普段いつも戦争をやっているわけではありませんので、平時のときは奉公衆は何をやっているかというと、御料所(ごりょうしょ)といって幕府直轄の所領の管理も行っています。

幕府の経済基盤

さて、軍事基盤の話としてもう1つ、いったい幕府はどのような収入で運営をしていっているのでしょうか。幕府の経済基盤のお話です。まずは、幕府は御料所という土地をもっているわけですので、そこからの上がりが幕府の収入になっていくわけですね。

次に、商人とくにお金を扱っている土倉役(どそうやく)とか、酒屋役(さかややく)といわれる高利貸し(いまでいう金融機関)にかけられる税金なども幕府の経済基盤の1つでした。

交通にかけられる税としては、関銭といって文字通り関所を通過するときに課せられる通行税も経済基盤の1つでした。

津料の津とは港のことですから、港の使用料も幕府の収入となっていきました。

段銭棟別銭は、家屋や屋敷に課せられる税なのですが、国家規模の大きな行事などが行われるときに庶民から臨時的に徴収される税として代表的な税です。

そして、最後は、前回お話した幕府が明へ使者を派遣して、朝貢貿易を行うことによって日本では得られないモノを持ち帰り、そこからの収入を得て幕府の経済基盤を固めたりもできました。

  • 御料所からの収入
  • 土倉役・酒屋役・・・高利貸しへの税
  • 関銭・・・関所の通行税
  • 津料・・・港の使用料
  • 段銭・・・田地への税
  • 棟別銭・・・家屋への税の徴収
  • 日明貿易の収入

これらが幕府を回していく主な経済基盤といえます。そしたら、このことから室町時代の特徴が見えてくるのですが、この御料所からの収入というのは直轄領ですので、そこからの具体的な収入というのは米・作物などです。しかし、土倉から日明貿易まではどのような具体的収入なのかというと、モノではなくカネなんですね。ですので、室町時代というのはカネ社会が徐々に浸透していったというのが特徴でもあります。