日本史オンライン講義録

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065 戦国時代の始まり

いよいよ戦国時代、安土桃山時代へと入っていきます。「戦国」「安土桃山」と聞くとなんとなく歴史心をくすぶられる人も多いんじゃないかと思います。「戦国」といえば、武田信玄上杉謙信毛利元就、シブいところでは長宗我部元親島津義久などが挙げられますね。一方で「安土桃山」といえば、織田信長豊臣秀吉の時代ですね。こういうところをこれから勉強していきたいと思います。

 

かくいう私も、日本の歴史といえば戦国時代から惹き込まれていった思い出があります。小学校のときに「関ヶ原の戦い」という本を図書館で借りて、ひたすら読んでいました。関ヶ原の戦いがとにかく面白くて面白くてしょうがないわけですね。そうやって戦国武将を覚えていった記憶があります。中学生になると「信長の野望」っていうテレビゲームにハマってしまいました。自分が戦国大名の1人となって天下を統一していくっていう内容なのですが、時間を忘れて何十時間、何百時間とやっていたのがついこの間のことのように思えます。

戦国大名の登場

はい、それではいよいよ戦国時代へと入っていくことにしましょう。今までの守護大名と呼ばれていた実力でその国を治める大名、いわゆる戦国大名が次々と登場してきます。この戦国大名なのですが、勢力をましたのは16世紀後半ですので1500年代後半ですね。応仁の乱が1467年に始まって、それから10年間続きましたね。1477年からおよそ7〜80年の間、世の中が荒れていて、そんな中から実力でその国を支配する大名が登場しました。

 

そして、この戦国時代の一つの雰囲気を表すキーワードといったら何でしたか?そう、下剋上でしたね。下の者が上の者を倒す、あるいは上の者も実力があれば下の者は当然敗れるといったように、力あるものが勝ち残るといったこの下剋上の風潮の中、さまざまなタイプの大名が登場していきます。例えば、実力のある守護大名は、下剋上によって倒されることなく生き残ってそのまま戦国大名になるというパターンがあります(武田家、今川家など)。あるいは、守護の代わりに領国へ赴いて守護代としてそのまま戦国大名になるパターンですね(織田家など)。そして、毛利家とか四国一円を治めていた長宗我部家などは、もとは国人からスタートして大名に上り詰めたというパターンもあります。もっと低い身分からスタートしたような大名もいて、たとえば美濃でもともとは油売り商人だった斎藤家なんかが挙げられます。このように、いろんな人たちが実力があれば上の者の勢力を削り取り、どんどん国を作っていったというそんな戦国大名たちです。

 

戦国大名が支配する領地のことを分国といいます。例えば武田家の領地のことを武田家の分国、今川家の領地のことは今川家の分国といったように呼びます。分国の治め方ですが、これは室町幕府のしくみに依ることなく、それぞれの家がそれぞれの方法で治めていきました。

戦国時代の始まり

じゃあ、この戦国時代ですがどのように始まっていったのでしょうか?ここでは2つの事件を取り上げて戦国時代の始まりの象徴を見ていきたいと思います。さて、戦国時代そのものが下剋上を特徴としていますので、ではその下剋上の中の2つの事件について見ていきましょう。

その1 北条早雲の登場

1つ目は、北条早雲の登場です。北条っていう名前は、鎌倉時代の執権をイメージしがちですが、ここで登場する戦国大名としての北条氏は、鎌倉時代の北条氏と区別して、「後北条氏」と言ったりします。そんな「後北条氏」としての早雲ですが、何をやったのかというと、伊豆国を奪い堀越(ほりごえ)公方を滅ぼします。ん?堀越公方ってなんだ?っていうと、かつて鎌倉公方ってありましたよね?京都に幕府があって東日本一帯を治める役割を担っていたのが鎌倉公方でした。この鎌倉公方なのですが、足利成氏という人物と足利政知という人物が仲違いして分裂し跡継ぎ争いの結果、古河公方堀越公方へと枝分かれしたのです。そして、北条早雲が、この後に子孫諸共、堀越公方を滅ぼしてしまったのです。さらに、かつて鎌倉公方の補佐を担っていた関東管領山内上杉氏といわれる家と、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏といわれる家に分裂をしていきます。

 

このように2つに分かれた鎌倉公方のうちの堀越公方北条早雲が討ち果たします。これはどういうことかというと、北条早雲は主君を持たない身分の低い武士で、一説には素浪人とも呼ばれていました。一方で堀越公方はというと、分裂はしてしまったとはいえ足利氏からすれば、やっぱり堀川公方は幕府の中でも将軍に次ぐナンバー2の家柄に変わりはないわけなんですよ。そんな足利氏がこともあろうことか、主君を持たない北条早雲に討ち滅ぼされるというまさに格差下剋上こそが戦国時代を表す典型的な特徴の1つといえるでしょう 

その2 細川氏を中心とする権力争い

細川氏といえば、室町幕府でもかなりメジャーな守護大名三管領の家柄でしたね。この細川氏の実権を家臣である三好長慶が奪ってしまいます。つまり三好氏が細川氏をのっとったという形になりますね。さらに、三好氏の実権は家臣である松永久秀へと移り変わっていきます。このように細川氏が持っていた権力は、どんどん下の者たちに取って代わられるわけですね。ですので、この松永さんが、結局は三管領のポジションへとつくわけなので、いわばダブル下克上の様相をとっていたのではないかと言われます。

さてこの松永久秀なのですが、とても面白い人物で、平蜘蛛の茶釜というエピソードがあります。織田信長に攻められたときに、「この茶釜だけは絶対に渡さない!」と言いながら、茶釜そのものに爆薬を仕掛けて、自らその茶釜を抱いて、最期は茶釜とともに自爆したというような壮絶な最期を遂げた人なのですが、なかなか人間的にも魅力的で、型破りな面白い人物であります。

 

今回は、戦国時代の始まりを告げる2つの事件について簡単に紹介しました。北条早雲という身分の低い武士が、足利氏の一族を討ち滅ぼすという格差下克上がありました。もう一つは、細川氏から三好氏、三好氏から松永氏へといったダブル下克上があった。格差下克上とダブル下克上、この2つの事件が戦国時代の始まりを告げるのでした。

 

戦国大名の分国支配

ここに日本地図を用意しました。だいたい、16世紀半ばの勢力範囲だと思って下さい。主な大名の名前と主な支配領域を示したいと思います。では、さっそく北から順番にみていきましょう。

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東北地方

伊達氏

まず東北地方をみていくと、伊達氏が陸奥で勢力を拡大しました。伊達政宗は、むかし天然痘で片目が見えなくなってしまって、それで眼帯をしていたので独眼竜正宗といわれたという有名なエピソードが残っています。その伊達政宗で有名な伊達氏なのですが、上の地図でははっきりと領域を書き表せないほど勢力としては小さいものでした。伊達氏が勢力を拡大したのは戦国時代でも末期の頃ですので、伊達政宗なんて戦国の末期の末期であるようなイメージをもっておいてください。独眼竜正宗といわれる正宗ですが、カッコイイ大きな三日月型の兜をかぶっていたり、大きい水玉模様の陣羽織を羽織っていたりしてました。そういうことから「格好つける男」のことを、伊達男と表現したりしています。なのでレンズの入っていない格好つけるためのメガネのことを伊達メガネなんて言ったりしますね。戦国モノの漫画やゲームでもやたらとカッコよく描かれるのが伊達正宗です。東北地方の代表的な大名として伊達氏は押さえておきましょう。

上杉氏

上杉といえば上杉謙信が有名ですね。上杉謙信は、それまで長尾景虎というこれまたカッコイイ名前を持っていました。そんな長尾景虎時代に、関東管領の上杉氏からその役職を受け継いで、名前も上杉を受け継いで、そして上杉謙信と名乗るようになりました。上杉さんはどのあたりの領域を支配していたのかというと、今の新潟県とか群馬県あたりが上杉氏の領地でした。

武田氏

そんな上杉さんのライバルが武田さんです。甲斐の虎ともいわれた、武田信玄ですね。甲斐から信濃駿河遠江に支配を拡大します。天下に最も近い男の一人といわれました。越後の龍といわれた上杉氏、甲斐の虎といわれた武田氏、この両者が激突した戦いがあの有名な川中島の戦いです。このライバル同士の戦いは5回も川中島で激突したのですが、その中でも4回目の戦いは死闘中の死闘といわれるわけですね。上杉軍、そして川を挟んで対峙をするのが武田軍。その武田軍の中には山本勘助という人物が作戦を練るわけですね。どんな作戦なのかというと、闇夜にまぎれて武田軍を半分に割って、上杉軍の背後に軍勢を回します。そして、上杉軍の背後からワッと襲いかかり、ひるんだところをもう半分の軍勢で襲いかかるというものです。ところが、上杉謙信も戦いの神様というだけあって、さすがです。ある日、みてみると武田の軍勢の中からご飯を炊く煙がいつもより多いわけです。「武田は今夜動くに違いない!」とみた上杉軍は、信玄が兵を割って後ろに回り込んで挟み撃ちにする体制をとってくることをさらに読んで、戦力が半減している武田軍の本陣を一気に上杉軍が攻め込みました。一時的に戦力が半減している武田軍は、味方の半分の軍勢が戻ってくるまで上杉全軍を相手に持ちこたえなければならないという凄まじい死闘でした。この時代すでに足軽同士の戦いが主流だったので、大将同士の一騎打ちはなくなっていることから本当にあったかどうかはわからないのですが、上杉謙信は馬に乗って、椅子に腰を掛けている武田信玄に何度も切りかかり、それを武田信玄は手に持っている軍配(采配する指揮棒)で上杉の刀を防いだっていうエピソードが残されています。

関東地方

それでは、目をすこし南の関東に移していきたいと思います。

北条氏

格差下克上を行った北条早雲ですが、この人が相模(今の神奈川県)に進出し、北条氏綱北条氏康らが関東一円を支配していきます。

東海地方

今川氏

今川義元という人物が、駿河遠江を支配していました。この今川義元ですが、桶狭間の戦い織田信長を前に無様に命を落としていたので評価の低い人物として扱われがちなのですが、しかし今川義元自体は実力の持ち主で、海道一の弓取りといわれて軍事的才能・政治的才能に長けていた人物と言われていました。その評判はホンモノではあるのですが、ただ桶狭間の戦いにおいては織田信長の方が一枚上手だったといえます。

織田氏

そして、今川氏の隣に位置するのが、序盤こそ領地は小さいのですが、これから美濃をはじめ畿内一円を支配していくことになる織田信長ですね。信長は、美濃の斎藤氏を倒し、成長していきます。織田信長についてはこのあと天下人まで一歩手前というところまでいくので、そのときに再度見てみたいと思います。

北陸地方

次は北陸です。

朝倉氏

朝倉氏は越前を支配します。また、北陸ではないのですが、朝倉氏と古くから同盟関係にあった浅井氏は、北近江を支配します。両者はなぜ有名なのかというと、あの織田信長に滅ぼされたということで有名です。

 

中国地方

続いて巨大勢力が存在していた中国地方いきましょう。

毛利氏

安芸の毛利元就は、大内氏・尼子氏を滅ぼして中国地方を支配しました。毛利元就は教科書でも太字になっているので是非押さえておきましょう。さて、この毛利氏の前に、中国地方の覇者だった人物がいました。それは誰かというと、室町時代守護大名であった大内氏です。大内氏は非常に強い勢力を築いていたのですが、大内氏が家臣の陶晴賢(すえはるたか)という人に滅ぼされてしまいます。この大内氏の内紛に便乗した毛利氏が中国地方を飲み込んでいったということになります。ですので、中国地方の覇権は大内氏から毛利氏に移っていったという流れで捉えておきましょう。

四国地方

つづいて四国をみていくことにしましょう。

長宗我部氏

ちょっと独特な響きのある長宗我部氏。長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、土佐から四国一円に勢力を拡大します。

九州地方

それでは最後に九州です。

大友氏

豊後(いまの大分県)からスタートして九州西部へと支配を拡大したのが大友義鎮(おおともよししげ)です。この人はキリシタン大名の代表格としても知られるので、抑えておくといいかもしれません。

島津氏

そして、島津貴久大隅を支配します。実は、これに加えて龍造寺氏というもう一つの勢力があって、龍造寺・大友・島津という3つの勢力がしのぎを削りあって非常に面白いのですが、教科書的には大友氏・島津氏があげられています。

 

今回は戦国時代でした。戦国時代となると血湧き肉躍るような話が期待されるのですが、授業で全でを話していくと時間がいくらあっても足りません。しかし、川中島の戦いであるとか桶狭間の戦いであるとか一つ一つの戦乱をみていくと非常に面白く興味深い戦いの連続ですので、ぜひ歴史群像シリーズの類の本を読んで歴史を好きになって欲しいと思います。今回は以上です。