066 戦国大名の分国支配 / 都市の発展と町衆
前回は戦国大名の成長について見ていきました。ただ、この戦国大名っていくら覚えても実はテストや入試では出にくい傾向があります。なぜかというと、そこを出してしまうと戦国マニアに圧倒的な有利なテストになってしまうからなんですね。たとえば戦国のゲームやっているとか、戦国時代の漫画を読みまくってるマニアに圧倒的に有利になってしまうので、あんまり入試にはでてきにくい傾向があります。実は、入試に出てくるのは今回の内容、つまり戦国大名による分国支配です。だから、戦国大名をたくさん覚えるよりも、分国支配について抑えておいたほうが得点は見込めると思います。
支配のしくみ
戦国時代には、大名がいて守護だったり守護代だったり、あるいは国人から身を起こして実力でこの国をもぎ取った者もいます。ただ、諸国にはこれまでも守護に従わなかったような国人や地侍らがたくさんいるわけですね。実力には長けているとは言え、この国人や地侍を次々と家臣にして組織していくプロセスがあるわけです。あるいは、ある大名を倒して新たに領地を広がったとします。するとその土地にも国人や地侍たちがいるので、こいつらを家臣として取り込んでいかなければなりません。こうして、新たに国人層あるいは地侍層を味方に取り込んで、家臣として組織するそのしくみが寄親・寄子制というものです。
寄親・寄子制
たとえば、ある大名には古くから付き従っていた有力家臣がいたとします。そうすると、となりの国を攻めて新たに領地が手に入った時、その土地の地侍らを味方に組み込んでいくわけです。そして、大名は、新たに組織化された地侍を古くから付き従っていた有力家臣に預けて、地侍の面倒をみさせるわけです。この面倒をみさせるという点は、現代の民間企業でいうところのOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)制度とどこか似通ったところがあります。企業に就職した入社1年目の新入社員は、当然右も左もわからないので、先輩社員とペアを組んで、仕事をしながら仕事を覚えるという教育制度を導入しているところが多くあります。このように、新たに組織した侍たちを有力家臣に面倒をみさせて「ウチのやり方」を教えて、家臣にしていくことでピラミッド状に組織を広げていきます。これがあたかも親と子の関係であることから、寄親・寄子制といわれるのです。
貫高制
そして、戦で手柄を立てていくわけなのですが、手柄を立てた家臣に対して土地を与えて褒美をとらせるわけですが、この場合の土地のカウントの仕方のことを戦国時代では貫高制といいます。貫高とは何かというと、大将が「よし!敵の首を取ってきたそうだな、それは喜ばしいことだ。じゃあ、お前には3000貫の土地を授けよう!」というように使うわけですね。この貫高というのは土地の生産力をお金に換算するのです。つまり、面積ではなく生産物であるコメをお金に換算した値のことですね。たとえば、3ヘクタールの土地、とか5坪の土地ではなくって、そこからとれるお米が1万円分だったとしたら、1万円の土地、5万円の土地、100万円の土地といったように土地の面積をお金で表したものが貫高制です。室町後期はカネ社会に移行していきましたので、土地の広さをお金で表すのが都合が良かったのでしょうね。ちなみに土地生産力をカネではなくコメの取れ高でカウントしたのは豊臣秀吉で太閤検地で確立していきます。つまり,室町時代から秀吉以前は貫高制と区別しておきましょう。
分国法
この授業の内容で最も重要なものがあります。それは分国法です。分国法とは別名家法ともいわれ、戦国時代の領地支配の基本法のことです。分国って何かというと、戦国大名の領地のことでしたね、この分国で通用する法律のことを分国法っていいます。では、どういった内容なのでしょうか?幕府や守護の法令、たとえば御成敗式目のような法令が代表的なのですが、我々がいままでやってきたルールなど、そういうのを法の形にアレンジするわけです。代表的なものとして「喧嘩両成敗」などが挙げられます。喧嘩両成敗とは、もし家臣同士で揉め事をおこしたらいずれかに原因があったとしても、どちらも罰しますよ、っていうものです。つまり、家臣団の争いを家臣同士で解決することを禁止しました。もしトラブルがあったら、自分たちで解決しようとせずにまずはオレに言え!家臣同士で切り合おうものなら、戦力ダウンにつながるだろ?ってことですね。細かい分国法であれば、朝はいつまでには起きなさい、夜はいつまでに寝なさい、こういう鍛錬をしなさい、など結構細かく決められたものもの多いです。
では主な分国法をみていくことにしましょう。これが入試問題にもよく出てきて、1点、2点の明暗を分ける部分でもあります。ここでは5つの分国法を紹介しますが、教科書には11種類書かれてあるわけで、マイナー分国法も私大入試とかでは出題される可能性があるので、可能な限り抑えておいてほしいと思います。
- 北条氏 ・・・ 早雲寺殿廿一(にじゅういち)箇条
- 今川氏 ・・・ 今川仮名目録
- 伊達氏 ・・・ 塵芥集(じんかいしゅう)
- 武田氏 ・・・ 甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)
- 朝倉氏 ・・・ 朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう)
以上5つは、いつテストに出てもおかしくないほどのメジャーな分国法です。
領地の把握
戦国大名は、自分の領土がいったいどれほど広いのか、どのくらい生産力があるのか、どれくらいの兵隊を戦争につれていけるのかを把握しておかなければなりません。そういうときに検地といって、どれくらいウチの国には生産力があるのかということを調べるのですが、この時代の検地のことを指出検地(さしだしけんち)といいます。差し出し、何を差し出すのかっていうと、戦国大名は家臣にその支配下の名主(その土地を持っている農民たち)に耕作地の面積や収穫高を自己申告させます。
- 大名「おい、お前の土地からはどれくらいのコメがとれるんだい?」
- 名主「はは、この土地からは3000貫分のコメがとれます。」
- 大名「うむ、そうか・・・。」
物資の生産
三河(今の愛知県東部)を中心に木綿栽培が普及していきます。木綿というのは、いままで朝鮮から輸入していたものでしたね。しかし、戦国時代になってくると日本でも栽培が普及していったということになります。
都市の発展と町衆
この時代、都市が発展をしていくわけです。なぜかというと、例えば戦国時代はというと戦国大名たちが分国をかけて争っていくわけですが、そのときに都合がいいのは家臣を集中的に城下町に住まわせておくことなんです。今までは、家臣に土地を分け与えたら、その土地の面倒を家臣に面倒をみさせるために、地方バラバラに散らせていましたが、徐々に家臣そのものをは自分の近くに住まわせておいて、いざ戦乱時にはすぐに対応できるような体制へと変化していきました。
都市の種類
では、この時代いろいろなタイプの都市があるので、紹介していきたいと思います。
城下町
さきほどいったように、戦国大名が自分の家臣を近くに住まわせておく、あるいは鍛冶屋であるとか戦争に必要な軍需物資を作り出す商人を住まわせておくなど、城下に人を住まわせておく戦国大名の本拠地が城下町でした。城下町というのは現在でも、主要都市や県庁所在地になっていたりしていますね。すでに天守閣は無くなってしまった跡地に県庁が位置していたりする県がたくさんあります。
このように戦国大名の本拠地として城下町が発展していきます。たとえば、
などが挙げられます。
門前町
有力な寺院や神社の周辺に形成された町のことを門前町といいます。寺や神社というとたとえば、
などが有名です。
寺内町
門前町の中でも、浄土真宗(一向宗)は堀を構え、武装する「城」スタイルの都市が築かれました。浄土真宗の門前町のことをとくに寺内町といいます。その町の周りに堀を巡らし、兵を囲って武装をして、敵が襲ったときでも戦うことができる、そんなスタイルの町です。たとえば、
- 摂津の石山
- 加賀の金沢
- 河内の富田林
などが挙げられます。大坂や今の石川などに本願寺といって浄土真宗の本拠地がありました。
その他
港町や宿場町などの発達も見られました。戦国大名はこのような町に税をかけない楽市などの特権が与えました。つまり「うちの町には税をかけません!どうぞ自由に商売をやってください」といったものですね。税を徴収しないので大名自身にはメリットはありませんが、自分の城下町が発展することによって人・モノ・カネが集まって結果的に城下町全体が繁栄することにつながるので、自由な商売をさせることにしました。
都市の自治
室町時代の中で農村の惣といわれる組織についてお話しました。自然発生的に成立した村のことで、この惣は自ら運営を行ったわけでしたね。年貢も自分たちで集めて差し出すから権力者は口を出さないでくれ!ということで、自ら運営を行い、自ら責任を負う「自治」を行う都市が出現した。代表的な自治都市として、
覚え方「京都の町衆はガッチガチ,年中ハダカで,堺へGO!」
(京都・町衆・月行事 / 年行司・博多 /堺・会合衆)
最後の京都の町衆がやったこととして、これまで廃れていた祇園祭を復活させるなどしました。「町衆」って一見すると用語であって用語のようでない地味な感じもしますが,過去に進研模試とかで「町衆」を答えさせる問題が出てましたので注意しましょう。
まとめ
今回は、戦国時代の街の様子をみていきました。戦国大名は自分たちの城下町を盛んにし、楽市などの自由な商売を許して、どんどん発展させようとしました。そして、都市の中には独立自治の気構えをみせる自治もあって、町衆という人たち、あるいは豪商たちによる自治が行われるようになりました。今回は以上です。