日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

067 ヨーロッパ人の東アジア進出

それでは今日もやっていきましょう。教科書では戦国時代と安土桃山時代はバッサリと分断されて、新しい章立てで書かれているスタート地点となります。

ヨーロッパはひとつ時代の流れとして、例えば大航海時代であったり、ルネッサンスであったり、宗教改革であったり、中世を脱して海外に目を向けようとしつつある時代でした。つまり、ヨーロッパ人が海外に盛んに進出してくる時代です。では例えば誰かというと、バルトロメウ=ディアスは知らないかな?じゃあ、これなら聞いたことあるでしょう?ヴァスコ=ダ=ガマ!ヨーロッパ人でインドにたどり着いてインド航路を開いた人です。そして、有名なのがコロンブスですね。西に回って何かがあった!それがアメリカ大陸なわけですが、そこに到達した人です。そして世界一周をやってのけたマゼランです。実はマゼランは地球を一周した人物のように語られるんですが、実は地球をだいたい4分の3周したあたり、フィリピンで殺されてしまうので、実は一周をやってのけたのはマゼランの部下だったりするわけなんですが、まぁ昔逆周りで東南アジアにもたどり着いた実績があることから、世界一周の手柄としてはこのマゼランのものとなっているわけです。いずれにせよ、このディアスやガマやコロンブスの時代が大航海時代です。とくに中国や日本やあるいは朝鮮半島であるような東アジアにも次第にヨーロッパ人が来航してきます。

 

当時の東アジアでは、とくに中国の明が、(貢物、あるいは貢物の返礼以外は一般人の貿易は禁じるといった)海禁政策をとっていたのですが、とはいうものの中国の周りの国を含む東アジア沿岸の国々は盛んに中継貿易を行っていたという時代です。ここにヨーロッパ人が大きな船で乗り込んできて、いろいろ交易を始めるわけです。

南蛮貿易

その交易というのが南蛮貿易ですね。この南蛮というのは、一般的にスペインとかポルトルなど大航海時代の先駆けとなった国々のことをいいます。スペインの拠点はというと、いまのフィリピンの首都であるマニラを拠点としていました。ポルトガルはというと、インドのゴア、中国のマカオあたりを拠点としていました。もちろんポルトガルやスペインの本国から船を仕立ててアジアへ向かうということもあったのですが、主に彼らはでかい船を持っているので、東アジアの国々たとえば日本とマニラを結んだりして、東アジアで盛んに貿易を行ってその儲けを本国に持ち帰るというスタイルをとりました。何も、遠路はるばるポルトガルやスペインからマニラにやってきて、再び本国へ戻って、また再びマニラにはるばるやってきて、また戻って〜みたいなスタイルではなくて、一回マニラに来たらそこから近隣諸国の国々といくつか交易を行って、ある程度儲けたら本国へ帰っていくという形をとったのでした。

ポルトガル人の日本来航

そうしていくうちに、このポルトガル人が日本へも来航してくるわけです。最初にたどり着いたのはどこかというと、これは有名ですね。種子島です。種子島に漂着して何をもたらしたのでしたっけ?そう!鉄砲でしたね。なので鉄砲伝来は、ポルトガル人来航と同じタイミングの1543年というわけですね。種子島の領主である種子島時尭(ときたか)が、鉄砲の製造法を入手しました。鉄砲にはめ込んであるネジを外そうにも、当時ネジ技術がまだ日本にはなかったので、ネジの構造を理解するのにも結構時間がかかったそうです。でも何とか歯で噛んだり、叩いたしているうちにネジがポロッととれて、「あぁなるほど、この金属の棒ってこういう構造になっていたのかー」とネジの技術を習得していったそうです。つまり、鉄砲伝来の技術とネジ伝来の技術が同時だったということになりますね。まぁ、このようにして、鉄砲の製造法を入手します。

スペイン人の日本来航

スペイン人は平戸(長崎県の北西部)にやってきます。

南蛮貿易の開始

こういった人々が珍しいものを持って日本にやってきて貿易をするんですね。スペイン人は、その対価として日本人から受け取ったあるものに着目したわけですね。それはなにかというとです。貿易をしてみて、日本にはどうやら銀がザックザクとれるらしいということが分かったんですね。銀の採石地として代表的なのは島根県石見大森銀山です。この大森銀山は現在世界遺産にもなっているほどなのですが、ポルトガル人やスペイン人は自国のレアものアイテムを持ちこんで、あるいは中国や琉球のレアものアイテムを日本に持ちこんで、その代わりに銀を持ち帰りました。そうすると、ヨーロッパでは価格革命がおこり、今までの自国のお金の価値がガラリと変わるほど大量の銀だったそうです。さて、このように南蛮人は鉄砲やいろんなものも持ちこんでくるのですが、他に別のものも持ち込んできます。これは有名な話ですね。そう、キリスト教です。

キリスト教の伝来

ポルトガルやスペインでは、キリスト教の中でも正統派のカトリックといわれる宗派の国々です。このカトリックなのですが、実はヨーロッパで宗教改革という事件が起こりまして、カトリックは何かと間違ってる!カトリックは腐っている!といった宗教批判が耐えませんでした。まぁ実際のところ、カトリックの聖職者たちはお金や権力にまみれていて批判されるのも仕方なかったのですが、なんと行ってもカトリックは当時は劣勢だったわけですね。そこでカトリックのグループの一つであるイエズス会を中心に、さんざん批判されていたこのカトリックを擁護しました。「何を言ってるんだ!俺たちは腐ってなんかない!アジアやアメリカ大陸にキリスト教を広めるために頑張ってるんだ。お前たちの批判は的外れだ!俺たちにもいいところがあるんだ!」といったようにアジアへの布教を一生懸命やることで、カトリックに対する批判をうまくかわそうとする動きを見せたのです。そんな流れの中で、宣教師がたくさん日本にやってきます。

代表的な宣教師

まずは一番代表的なのは初めて日本にキリスト教を持ち込んだあの人ですね。そう、フランシスコ・ザビエルですね。日本の地で初めて布教を行った宣教師です。その他には、ガスパル・ヴィレラですね。「堺という街はまるでイタリアのヴェニスのようだ。堺は日本のヴェニスだ!」と手紙で堺の街を世界に紹介をしたといわれています。あとは、信長とのからみでよく出てくる宣教師は、ルイス・フロイスです。こうした中で庶民の層にもキリスト教が広まっていくのですが、戦国大名の中にもキリスト教を信じる者もでてきます。これがキリシタン大名ですね。キリシタン大名は、積極的に宣教師を保護していきます。代表的なキリシタン大名として、まずは豊後・府内の大名である大友義鎮や、有馬晴信大村純忠など、やはりこの辺りは九州の大名が名を連ねています。他にも黒田官兵衛(如水)なんかもキリシタン大名の一人ですし、あるいは高山右近もそうですね。すると宣教師であるヴァリニャーニのすすめで、これらの大名が協働して若者をキリストの中心地であるローマに派遣していろいろ見て学ばせようといった企画が持ち込まれます。これを天正遣欧使節といいます。派遣された若者たちはバチカンなんかに行った先でびっくりしたでしょうね。今でこそネットやガイドブックなんかで予備知識が得られますが、当時はそんな予備知識もないままにバチカンのサン・ピエトロ聖堂を目の当たりにしたひにゃ、言葉を失うほどの驚きだっただろうと思います。原マルチノ中浦ジュリアン・伊藤マンショ・千々石ミゲルの4少年が使節団のメンバーですが、きっと彼らは感動したんだろうなぁと思います。

キリスト教の施設

こうしたキリシタン大名の城下町には、たとえば南蛮寺(教会)や、コレジオ(宣教師の養成所)あるいはセミナリオ(神学校)などの施設が建てられました。

 

まとめ

今回はヨーロッパ人との交流、とくにスペイン人やポルトガル人といった大航海時代の先駆けとなった国々と日本との出会い、鉄砲が伝来し、キリスト教も伝来するといったお話でした。今回はここまでです。