日本史オンライン講義録

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068 織田信長の統一事業

いよいよ安土、織田信長が登場します。織田信長といえば、信長・秀吉・家康の性格を表したといわれる「泣かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」ってやつですね。あるいは、鮮やかな勝ちっぷりで名乗りを上げた桶狭間の戦い、あるいは豪快華麗な姿の安土城が有名ですね。こうしたことから信長は、わりと豪快で天下を覇を唱えていくんだというような人物像で捉えている人も多いんじゃないでしょうか。しかし、織田信長というのは非常に合理的な判断をする人物ではないかなと思います。この織田信長を輩出した愛知県西部の尾張地方は商人が多く、わりと損得で考えるような人柄あるいは土地柄で、現代でも世界有数の自動車会社が愛知県にあることからも、わりと物事を損得で考える風土の中で生まれたのが信長といえるでしょう。例えば、桶狭間の戦いでは鮮やかな奇襲攻撃をかけるのですが、でも信長としてはその一回だけでしたね。強大な敵が向かってくる、それに勝つためにはどうしたらいいのかを考え、奇襲攻撃を加え相手の意表を突くのが一番合理的と考えて実践したのでした。奇襲攻撃は桶狭間の戦い以降は確かやっていないはずです。むしろ、信長は勝つべくして戦いを勝っていきました。今もいったように、尾張という地は戦というよりも損得勘定で動いている商人が多いため、尾張一帯は比較的弱いとされていました。ですから、信長は準備に準備を重ねて、たとえば鉄砲も相手より上回る数を揃えるし、兵隊も相手より上回る数を揃えて戦いを有利に運ぶ非常に合理的な判断をしたのでした。奇襲攻撃についても、何度も何度もやっていては奇襲にはならないので、ここ一番という時に発動をして今川義元を倒し、それ以降は慎重に慎重を重ねて着実に支配領域を広げていったというイメージが私個人としてはあるのですが、皆さんはどうでしょうか。あと「天下布武」といったスローガンであったり、印鑑をつかったり、いまでいう企業のロゴマークなんかを考えたり、安土城といったシンボリックなお城をたて、その城下町を楽市楽座にすることで賑わいを出そうとしたことからも、武士というよりもどこか商売人のような発想が信長の持ち味なのではないかなと思います。

信長の統一事業

桶狭間の戦い

それでは内容に入っていくことにしましょう。もう今回の主役は間違いなくこの人、織田信長です。まず織田信長はどこの出身かというと、尾張(いまの愛知県西部)の守護代の家柄(さらに分家)出身でした。そして、信長がまず直面したのは今川義元という今で言う静岡県の大大名が愛知県に攻めてくるという戦いでした。これはどうにかして追っ払わないと自分たちが滅ぼされてしまうということで、ここは一発ギャンブル的に逆転を狙って敵の意表を突く作戦にでました。この桶狭間の戦いで、駿河今川義元を破ったわけですが、どのように勝利したのか気になりますよね。信長は選り抜きの騎馬隊を率い、狭く長い窪地の土地を利用して、敵の隊列が長く伸び切ったところを見計らって敵の本隊を攻めるといった見事な戦略機動が的中したのでした。そして、今川義元の首をあげ、小が大を打ち負かすということをやってのけたわけです。

美濃の斎藤を滅ぼす

そして、次は北にあります美濃の斎藤氏を滅ぼします。ここで信長は天下を武力によって治めるといったような印判を使います。そして、オレが天下に名乗りをあげるのだ!というスローガン的使い方、あるいは「天下布武」が信長のロゴのようになっていて、天下という言葉をいち早く使うことによって、いろんな各地の大名に手紙を送り、その手紙に印判を使ったので、大名たちも「信長ってなんて大物なんだ!」というようにみんな認めていったわけです。

足利義昭を将軍につける

そして、将軍家の人物ではあるのですが、畿内を追われていた足利義昭を将軍の位に据えることによって、信長は足利義昭を将軍につけた功績として、信長が権力を振るうことを条件にバックアップしてもらったのでした。

姉川の戦い

さらに、有名な戦いとして姉川の戦いがあります。近江の浅井氏と、越前の朝倉氏を破ります。そして、宗教勢力とも対立をするのですが、それが比叡山延暦寺の焼き討ちです。強大な宗教的権威を屈服させるんですね。この辺りが、神をも仏をも恐れぬ信長の合理的性格を表していると思います。で、この延暦寺の焼き討ちの担当をさせられたのが明智光秀です。

延暦寺の焼き討ち

この明智光秀は、信心深く仏を信じる心が強いいうことでみんなからも慕われていたのですが、そういう人に対して延暦寺を焼き討ちせよ!と信長は命じたのでした。信長の前ではいくら信心深くとも信長の命令ともあらば比叡山でも焼き討ちにするのだーとみんなは思うわけですね。まぁこのことが本能寺の変につながかどうかはいろいろな説があるのですが、延暦寺の焼き討ちを行ったということは覚えておきましょう。さて、さっき話をした足利義昭なのですが、京都から追放させられ、室町幕府は滅亡します。ですので、このことから信長は将軍の地位をももはや左右できる存在であるということが分かると思います。

伊勢・長島の一向一揆

さぁ、そして延暦寺天台宗のお寺なのですが、今度信長が手を焼いたのは一向宗浄土真宗の信徒)ですね。浄土真宗の信徒は、加賀の一向一揆とか石山本願寺を拠点に一つ武装勢力の存在でもあったわけですので、そうした信者が信長の抵抗勢力となりました。信長も宗教がらみの戦いには手を焼くのですが、伊勢・長島の一向一揆で滅ぼします。そして、今川・斎藤・朝倉を倒し次は武田を倒していくのでした。

長篠の戦い

武田信玄の子、武田勝頼を破ったのが長篠の戦いです。この勝利の裏には鉄砲の集中活用があると言われています。一般的に言われているのは3000丁、少なくても1000丁はあったとのことです。この鉄砲、音だけでも相当ビビらせるほどの大きい鉄砲なのですが、この辺も敵に勝つためにはどうしたらいいか?を考えて鉄砲の集中活用をしたのでしょう。

安土城の築城

さて、この琵琶湖のほとりに本拠地である安土城を築城します。今ではごく一部の遺構のみが残っている程度なのですが、資料集などをみてみると豪華絢爛でシンボリックなお城を立てるわけです。こうしてみると、天下布武のスローガンや、ロゴマーク、そして安土城など、どこか信長のイメージ戦略であるかのような気がしなくもないですね。

石山合戦

そして、浄土真宗の信徒らが本拠地としていた大坂の石山本願寺を破ります。石山寺顕如(けんにょ)が退去し、信長は大坂を手に入れることになります。テストでは室町時代の8代宗主・蓮如と入れ替えて正誤問題で判定させてきますので要注意です!

 

本能寺の変

こうして信長は、今川氏・斎藤氏・武田氏・浅井氏・朝倉氏を破り、本願寺勢力を討ち、そして毛利と戦い、上杉と戦い、そして関東攻略に兵を向けて勢力を広めてきたのですが、信長は突如家臣の明智光秀に裏切られてしまい、1582年本能寺に火を放ち自害するのでした。アクの強い人物・信長ですから生涯何度も謀反にはあっているのですが、最終的に家臣の明智光秀によって本能寺の警備が手薄なタイミングを狙われてあえなく死んでしまうという一生でした。しかし、最も天下に近い男だったということは紛れもない事実ですし、天下をとるのは時間の問題とも言われていたわけなんですが。

 

信長の諸政策

そうした信長のやった政策ですが、伝統的な政治・経済を改めて、関所の撤廃をするなどしました。例えば、国境に関所を儲けて、そこで通行料を徴収すれば自ずと収入になるわけですが、信長はこれを撤廃したのでした。「うちの国に来たけりゃ、どうぞ来るがよい!」として、商人が城下町に集まりやすくなれば経済が活性化して、長い目で見れば収入になると考えたわけですね。また、経済政策としては、自治都市・を直轄化し、安土などには楽市令を発布した。例えば、座や市を保護していれば、この座や市から営業税として見返りを得ることができるわけですね。また、よそ者のライバルどもに対して「ここは◯◯様の市であるぞ!」と言ってシャットアウトできるわけですね。しかし、信長は座や市を儲けず よそ者の商売人でも自由にうちの城下町で商売しても良いぞ!というわけですね。そうすると、保護をする代わりに見返りとしての税は得られないのですが、長い目でみれば全国各地から商人が集まってきて、城下町自体の利益につながるだろうと考えたわけです。

まとめ

信長というと「泣かぬなら殺してしまえ」というような、あるいは桶狭間の鮮やかな価値っぷり、あるいは安土城の豪快な立ち姿といったところがクローズアップされがちですが、実際のところは非常に合理的な考えの持ち主だったのではないかと言うことを軸に話をまとめてみました。今回は以上です。