日本史オンライン講義録

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069 秀吉による天下統一

前回の信長に引き続き、いよいよ今回は秀吉を扱います。秀吉は、戦乱続きであった戦国時代を統一し、天下をとるわけです。前回の信長は、合理的考えの持ち主だという話をしましたが、秀吉はとにかく人の扱い方が上手なんですよね。例えば、大きな土木工事をバンバンやっていくわけですが、城を造れ!と命じられていち早く完成させた部下を抜擢したり、あるいは北条氏を攻める時に小田原城の対面に城を作って長期戦の構えを見せたり、大規模な天守閣を備えた大坂城を作ったりしました。また、秀吉は水攻めが得意でした。備中高松城の周囲が湿地帯であることを見越して、この城を攻める際に、周りを全部土手で囲んでそこに川の水を流し込んで城ごと水浸しにして孤立させました。孤立させれば戦いは長期化し、中の人は飢えてしまうし戦意を喪失するだろうことを狙った作戦なんかを立てるのが得意でした。そういう土木工事をたくさん出来る秘訣はなにかというと、やはり人をまとめてテンションを挙げて一つの目標のもとに遂行していこうとする力が秀でていたのでした。晩年はちょっと暗い爺さんとなってしますのですが、現役バリバリの頃は持ち前の天性の明るさがリーダーとして人を惹きつける魅力の持ち主だったようです。

 

 

秀吉による天下統一のプロセス

はい、それでは秀吉統一のプロセスをみていくことにしましょう。そしたら、まさにこの高松城の水攻めをやっていたときに、明智光秀が主君の織田信長を殺したという情報を聞きつけます。ですので、この高松城をわりと強引に明け渡させて、それから明智光秀を討つために今の岡山あたりから京都まで一気に引き返します。このことを中国大返しといいます。明智光秀織田信長を倒し、その後のことはゆっくり考えようという算段だったのですが、意外や意外またたくまに秀吉が戻ってきます。

山崎の戦い

明智光秀は秀吉を迎え撃つ準備が十分にできていない状態で秀吉と対峙することになります。秀吉はなんと10日間ほどで移動したと言われています。そして、秀吉は一気に京都にとって返して、明智光秀を倒します。このことを山崎の戦いといいます。これも、秀吉ならではの盛り上げ上手が功を奏したのではないかといえます。なんせ長期戦のあとダッシュで軍を京都まで戻して、きっと兵も疲れているだろうに一気に明智光秀を討つなんてことは、なかなか普通出来ないですよね。そういうことが非常に秀吉はうまかったのでしょうね。

賤ヶ岳の戦い

そうすると、次の敵は柴田勝家です。秀吉や明智や柴田っていうのは織田信長の同じ家臣だったわけですが、明智や柴田といったライバルを破ることで「私は信長様の後継者だ!」ということをアピールしたかったのでした。柴田勝家を破ったのが賤ヶ岳の戦いでした。

これら2つの戦いは、信長の家臣時代の同僚を立て続けに破ったことで自分が後継者であることを決定的にしたのです。

大阪城築城

そして、秀吉は新たな本拠地を造ります。大坂城です。ここで注意、大坂の「坂」はつちへんです。 石山本願寺の跡地に大坂城を築城します。今立っている大坂城は江戸時代の敷地を再現したものなのですが、天守閣そのものは秀吉が作ったときそのものだと言われています。では、次の秀吉のライバルを見ていくことにしましょう。

小牧・長久手の戦い

次のライバルは、徳川家康そして織田信長の息子の一人である織田信雄(のぶかつ)ですね。秀吉 VS 家康だから、どれだけ激しい知力と武力が繰り広げられたのかと思いがちですが、いざ戦いが始まってみるとこう着状態がつづきます。相手は家康だ、相手は秀吉だ、下手に動いたらこっちがやられると双方のにらみ合いが続き、世紀の凡戦というかたちでドローに持ち込まれます。しかしその後、和睦が成立し、家康が秀吉の家臣となりました。

 

そして、秀吉は天皇であるとか朝廷であるとか既存の勢力を取り込むことに成功し、朝廷から関白が任ぜられ、のちに太政大臣のくらいにまで登っていきます。軍事力ではんく、伝統的な力を利用して階段を着実に登っていきます。

惣無事令

ここで、秀吉は惣無事令(そうぶじれい)を発令します。「戦争をやめなさい!私が天下人なんだから、領地の確定はオレに任せなさい!」と全国の大名に停戦と領地の確定を秀吉に任せることを命令します。「とにかく私に従いなさい。そうすれば戦争は終わる、長い戦乱は私のもとで終わるのだ。」と宣言するのです。しかし、それでも各地の大名たちは天下を目指して戦っている最中ですので、すぐには秀吉のいうことはきかないわけです。例えば、四国の長宗我部元親、九州の島津義久、関東の北条氏政、そして東北の伊達政宗など。しかし、やがてはこれらの戦国大名たちを屈服させ、天下を統一することに成功します。

豊臣政権の特徴

さぁ、それではいよいよ天下を統一することに成功した秀吉ですが、秀吉の重要な政策については次回お話するとして、豊臣政権の特徴について捉えておきたいと思います。 天皇などの力を利用して、自分もステップアップするといった伝統的勢力の活用が特徴としてあげられます。京都に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)といったお城仕立てのお屋敷を建てて、秀吉が権力固めのために利用した後陽成天皇を迎え入れます。そして、秀吉はこの天皇の名のもとに天皇を補佐する関白として諸大名に対して忠誠を誓わせるスタイルを取りました。要するに、秀吉が「おい大名たちよ、これからは天皇に忠誠を誓うのだぞ!これは関白としての命令だからな!」って感じで、天皇に従う前にまずは関白に従わせるといった手法を用いて権力固めを進めていったのです。

経済的基盤

秀吉は経済的基盤として、莫大な蔵入地(直轄地のこと)や、たとえば佐渡の金山や石見の大森銀山(のちに毛利氏が経営)、但馬の生野銀山(のちに尼子氏が経営)などを手に入れて主要鉱山を抑えました。また金貨として天正大判という貨幣をつくらせました。小判はわかりますよね?それが大判になるわけです。だいたい手のひら14センチくらいのサイズのお金をつくります。実際、純金でつくるとなると価値が高すぎて、少しお買い物をするというわけではなく、あくまでも恩賞用であったり、あるいは備蓄用であったりするわけですが、貨幣としては天正大判が代表的なものとなっています。

 

天下を取った秀吉は、これからその政治運営をを進めていかなければなりません。そこで、運営委員会のような合議(話し合い)によって政権を運営する組織をつくりました。合議制を整えるために、五大老五奉行を置きます。

五大老

この五大老は、重要政策の決定を行います。そして、政策が決定されたら滞りなく進めていく役職が五奉行です。いわば事務方ですね。

五奉行

※覚え方

前から あ  なたを あいして ました

前田  浅野 長束   石田   増田

 

以上、この5人で五大老が決めた政治・経済の事務を行います。だいたい重要な政治事項を決済していくのが石田・浅野・増田で、長束は財政に明るいのでお金関係のことを担当し、前田はお寺や朝廷や神社に太いパイプがあったので、寺社関係を担当していました。こうした合議制の下、豊臣政権が運営されていきました。今回は以上です。