日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

071 外交政策

前回は、秀吉の重要政策として中学校でも習う太閤検地刀狩令についてのお話をしましたが、今回はキリスト教に対してどのような態度で秀吉は臨んでいったのか、あるいは朝鮮出兵など、この辺りを含めた外交姿勢、外交政策についてお話したいと思います。

秀吉のキリスト教政策

早速ですが、秀吉の対キリスト教政策についてです。信長がある程度キリスト教の受け入れには積極的だったこともあり、秀吉もキリスト教に対してはある程度寛容的であったといわれています。ただ、キリシタン大名らも多くいたわけで、秀吉は彼らに対してこういうことを言い出したのです。

「全国の諸大名たちよ!キリシタン大名になる前に、一言オレに言ってくれよ。許可を得てからキリスト教の洗礼を受けてくれよ。」

といったように、大名に対してキリスト教入信の許可制を敷きました。それはなぜかというと、キリスト教の拠点であった長崎の大名である大村純忠という人物がいたのですが、彼が長崎をイエズス会に寄付したのです。天下人である秀吉の許可も得ずして、勝手にイエズス会に対して「長崎をあなたがたに献上します」としたんですね。この大村純忠というのはもちろんキリシタン大名なのですが、秀吉からすれば「大名とはいえ勝手なことするなよ!困るじゃねえか!キリスト教に入信するときは一言いってくれ。許可を与えるか与えないかはワシが決めるから」としたのです。

バテレン追放令

このような大村純忠のような例もありましたので、秀吉はバテレン追放令を出します。秀吉の有名なキリスト教政策の一つですね。バテレンとはなにかというと、宣教師のことですね。海外から日本にキリスト教を伝えるためにやってきた人たちを国外へ追放しました。そして、大名自信に対しては「事前に言ってくれれば入信を許可するけども、但し、あなた個人の信仰であって、大名が領内をキリスト教一色で染めるようなことは許さんからな」とキリスト教化を禁止しました。

しかし、宣教師を追放するとか、キリスト教化するのを禁止とか言われた大名の中には「こんなのやってられるかよ」と信仰を捨てなかった大名もいました。それが高山右近です。この人は領地を没収されています。やっぱり、右近自信も信仰心の高い人でしたので、「宣教師を追放するなんてオレはできないよ」「ウチの領民にはキリスト教を信仰してほしいから、やっぱり領内でキリスト教を禁止するなんてのはやってられないよ」ということで、実際のところ高山右近は領地を没収という前に、自ら大名の座を返上して、個人としての信仰を深めようとしたのでした。ただ、この命令をみてもわかるように、一般人の信仰は禁止していません。秀吉は、一般人についてはキリスト教の信仰は心のままである、とバテレン追放令にもちゃんと明記してあります。つまり,宣教師の布教活動と一体化して南蛮貿易も行われていたため,バテレン追放令は不徹底におわったのでした。

サン=フェリペ号事件 → 26聖人殉教事件

サン=フェリペ号とは船の名前なのですが、どこの国の船かというとスペインの船なんですよね。スペインはフィリピンを重要な植民地として支配していましたし、メキシコも重要な植民地として支配していました。フィリピンのマニラからメキシコのアカプルコまで船をバンバン輸送して、アカプルコで得たメキシコ銀をたっぷりフィリピンに持ち帰って、そして東南アジアで中継貿易をすることで莫大な利益をゲットしていました。そうすると、フィリピンからメキシコまでとなると、太平洋を横断するわけですので、途中で嵐に合うかもしれませんよね。そして、コントロールを失った船はいろいろな国へ漂着するわけなんですが、このサン=フェリペ号は日本の土佐へ流れ着くわけです。まだまだ日本には倭寇と呼ばれる海賊がたくさんいた時代ですので、大砲を積んでいるサン=フェリペ号を倭寇と見間違えて、取り締まって積荷を没収したんです。するとサン=フェリペ号の乗組員が腹いせにこう言っちゃうわけですね。

スペイン船乗組員「チェ、悔しいけどいいさ。どうせお前たちのこの国もいずれはスペインのものになってしまうんだから、アッハッハー」

と捨てゼリフを吐いちゃうんですよね。これには秀吉も立腹します。見せしめとして大坂や京都で熱心に布教しているキリスト教徒らをひっ捕らえて火やぶりの刑に処すわけです。これが26聖人殉教事件です。

海賊取締令

サン=フェリペ号事件の背景ともなったのが、まだまだ日本にも倭寇とよばれる海賊がはびこっていたので、秀吉は倭寇などの海賊をとりしまりを強化し、海賊取締令を出したのでした。ただし、この辺の政策が江戸時代と違うのは、江戸時代では鎖国をしていたので、日本人が海外に出て交易することは基本的に禁止されていたのですが、秀吉はというと取り締まりを強化しながらも、一般人は海外に出てもよいとして禁止しませんでした。このようにみてみると、一般人の信仰は禁止しなかったり、一般の商人は海外に出て良いとなると、でた先でスペイン人やポルトガル商人と接触するわけで、もちろんキリスト教文化とも接触するわけですから、このことから何がいえるのかというと秀吉のキリスト教禁止はいまいち不徹底であったということが言えます。バテレン追放令だけ見ると、キリスト教禁止といったイメージがあるのですが、貿易だけはやはり残しておきたい、貿易を禁止してしまうと貿易による旨みがなくなってしまいますからね。そのことを秀吉も懸念したため、秀吉のキリストの禁止というのはわりと不徹底だったというイメージが持てます。

朝鮮出兵

秀吉は朝鮮へ2度の出兵を行います。秀吉は、朝鮮を征服したかったのかというとそうではありません。本当のねらいは中国の明を征服したかったのでした。しかし、明をいきなり征服する前に、明の手前には朝鮮がいるわけですので秀吉は「おい、朝鮮よ!貢物をよこせ」ということと「中国の明まで案内してくれ!」という風に言うわけです。しかし、これは当然朝鮮としても拒否します。そりゃそうですよねぇ。

そこで第1ラウンドとして文禄の役が勃発します。入試問題を見据えてここで一つ抑えておきたいのは、鎌倉時代元寇)の文永の役弘安の役と、安土桃山(朝鮮出兵)の文禄の役慶長の役がごっちゃになる人がけっこう続出します。文永の役文禄の役なんかは文つながりで被っていますしね。注意しましょう。

文禄の役

秀吉は、肥前(いまの佐賀県)の名護屋城といって日本からちょうど朝鮮半島に一番近いところに出向いて、朝鮮攻めの本拠地としました。この名護屋城を私もかつて見に行ったことがあるのですが、にわか仕立ての簡易的な基地なのかなと思いきや、とても立派な生け垣があって、昔は立派な天守閣もあったとされていて、ある意味秀吉の朝鮮出兵の本気度が伺えるお城となっています。さて、そこで活躍したのが、加藤清正小西行長です。加藤清正は武勇に優れる虎退治をしたともいわれるとにかく槍一筋ですごく腕のたつ武将の中の武将ですね。小西行長と人は、すごく頭の回転が早い人で、たくさんの船を仕立てて朝鮮まで向かわせないといけないので、潮の流れなんかを利用して捌くことがとても上手だったと言われています。そんな2人のおかげもあってか、なんと朝鮮の都である漢城(いまのソウル)や平壌(例の将軍様がいるところ)を占領しようとします。

しかし、朝鮮もただ日本が攻めてくるのを指を加えてみているわけにはいきません。朝鮮のエースである李舜臣という人物によって反撃され、日本は敗北を喫してしまいます。李舜臣は陸上での戦いはあきらめて、海での戦いに勝負をかけます。なぜなら、日本軍は対馬海峡を渡ってこなれけば朝鮮に上陸することができないので、海上で日本軍の船を叩き沈める作戦にでたのです。日本の船はちょっと腰高な船なのに対して、朝鮮の船は亀甲船といって文字通り亀の甲羅のように平べったくて鉄で覆われている船なので、日本軍が鉄砲を放ってきてもなかなか当たらないし、鉄で覆われているので弾が貫通しないんですね。しかも、亀甲船は窓があいていて、そこから大砲が撃てるので、ドーンって撃てば日本の船の土手っ腹に穴を開けることができるわけですよね。だから李舜臣は、防御力と攻撃力に優れた亀甲船を大量投下することによって海の上での勝負をかけ、いくら陸上では最強といわれる加藤清正をもってしても補給ができなくなって立ち往生を余儀なくされ破れてしまいのでした。

慶長の役

第2ラウンドの慶長の役はとにかく日本軍が苦戦を強いられます。朝鮮も、第1ラウンドは日本が先制攻撃につけ入るスキを与えてしまったのですが、第2ラウンドは守りを整えていくわけですので、朝鮮からすれば海から上がってくる敵を迎撃するだけですのでそこまで難しくありませんよね。結局日本はこれに苦戦してしまいます。そこで、秀吉が死んでしまったことにより、朝鮮出兵終結します。

まとめ

朝鮮出兵のその後日本はどうなったのかというと、豊臣政権の弱体化を招くことになります。戦いに負けたこともさることながら、こんな外国まで攻めて戦働きを強いられた武将たちが、この戦いで日本のある意味居残り組の武将たちとの間で少しずつ亀裂が生じていくわけです。やがて、この現場で戦った人たちが家康になびいていき関ヶ原の戦いへと繋がっていくのですが、それはまた次回以降にお話をしたいと思います。今回は以上です。