日本史オンライン講義録

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079 江戸初期の外交

今回は江戸幕府の外交、よその国とのやりとりについて見ていきましょう。

南蛮人の来航

安土桃山時代のときに南蛮人とよばれる人々が日本にやってきて鉄砲やキリスト教を持ち込んだということを学びました。この南蛮人というのはポルトガル人やスペイン人のことでしたね。そして、時代は江戸時代に突入します。江戸時代初期の特徴としては、これまでのポルトガル人やスペイン人に加えてオランダ人やイギリス人が日本に接触をしてきます。ポルトガル人やスペイン人のことを南蛮人というのに対して、オランダ人やイギリス人のことを紅毛人(こうもうじん)といいます。

江戸初期の外交

それでは、西洋人といえば南蛮人しか知らなかった日本人ですが、新たに紅毛人と接触をするようになります。オランダ船のリーフデ号という船が西廻りで南アメリカマゼラン海峡を通って、太平洋上を航行中に遭難してしまうのですが、5隻の船団が1隻になってしまい、そして110人いたリーフデ号の乗組員も25人になってしまいました。このように嵐の中で当て所もない漂流を続けていた所、日本の豊後国(いまの大分県)に漂着します。このリーフデ号ですが、実は乗ることができます。長崎の佐世保にあるハウステンボスに復元されたリーフデ号があります。

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このリーフデ号がどれだけ当時のリーフデ号を再現しているのかどうかは分かりませんが、こういったヨーロッパの帆船に乗って遠くアジアを目指していたんだなと実感することできるのではないでしょうか。ぜひ旅行とかでハウステンボスに立ち寄った際には日本史の授業を思い出してリーフデ号の甲板に乗ってみてください。

 

そうして、日本にやってきたリーフデ号ですが、おそらく到着した時にはたぶんボロボロだったことでしょう。そして、当時の人が、その乗組員と話してみたところ南蛮人とは違った別の国の外国人だということがわかったんですね。その乗組員であるオランダ人航海士のヤン=ヨーステン(耶揚子)、そして海のことをよく知るイギリス人水先案内人のウィリアム=アダムス(三浦按針)でした。西洋のことをもっと知りたいと考えた徳川家康はこの2人を招き、幕府の外交顧問にします。

オランダ・イギリスとの接触

そしてオランダやイギリスっていう国は、話を聞いてみるとポルトガルやスペインと少し毛色の違った国だということがわかってきました。スペインやポルトガルイエズス会を中心とした非常に布教に熱心なカトリック国であり、当時世界中を植民地にしてやれといったように領土的野心の非常に強い国でした。しかし、オランダやイギリスっていうのは、どうやらカトリックではなくプロテスタントの国で、プロテスタントというのは個人が神様と直接つながりをもって、手広く大勢で集まらなくとも一人ひとりでも神様に祈ればそれは立派なミサであるといった考え方を持っていましたし、ポルトガルやスペインのような領土的野心というよりも、やっぱり我々はお商売を重視しているんだということを知りました。「どうか日本とお商売をさせてください、ポルトガルやスペインなんかよりも、我々オランダやイギリスとお付き合いした方が絶対お得ですよ!」と売り込みをかけられた幕府は、オランダやイギリスに貿易の許可をして、平戸に商館を置きました。

 

ではポルトガルやスペインとのお付き合いは終わったのかというとそうではありません。引き続き南蛮人との外交は継続されます。

 

スペイン・ポルトガルとの関係

スペインとの関係なのですが、スペイン領のメキシコ(当時ノヴィスパン)との通商を求め、田中勝介を派遣します。メキシコってどこかというと、あの北アメリカ大陸の南側にある国ですね。そこに田中勝介を派遣します。田中勝介って誰かというと京都の商人です。それにしても太平洋を横断してメキシコにいくには大変だったと思うのですが、そんなリスクを冒してまで行くメリットは一体何だったのでしょか。それは、当時世界中でもっとも銀が獲れる国だったのです。メキシコに行けばお金がザックザックとれるといったイメージですね。そして、幕府だけではなく、仙台藩主の伊達政宗も、家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をスペインへと派遣したのでした。この伊達政宗の派遣の理由も,メキシコの本国であるスペインへ行って貿易をさせてくれないかという使いを大名自らが出していったのでした。あの安土桃山時代天正遣欧使節団に対して,この江戸時代初期の支倉常長使節団のことを慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)とよんでいます。

 

では、つづいてポルトガルとの関係ですが、まずポルトガル中国のマカオあるいはインドのゴアマレーシアあたりを抑えているわけなんですが、さまざまに交易ルートを結ぶことを得意としていました。とくにマカオから中国の生糸を日本に運び利益を独占していました。中国の南にあるマカオの港から大きな南蛮船で日本に生糸を運んでくるのですが、中国の生糸は質がいいので日本人も欲しがる人がたくさんいたんですね。そうすると、ポルトガル人が値段を釣り上げるわけです。なんせこんなに大量に運べるのはポルトガルしかいないわけですからね。ここは商機とばかりにポルトガル人も日本の商人を相手にオークション形式で生糸を出品し、一番高く入札してくれた商人に生糸を売りつければポルトガル人はボロ儲けといった様相を呈します。しかし幕府もこれはあまりよくないということで対策をたてます。それが、糸割符(いとわっぷ)制度です。

糸割賦制度

幕府が特定の商人たち(糸割符仲間)に生糸を独占購入させて、ポルトガルの利益独占を防いだのでした。これはどういうことかというと、みんなで入札していくと価格が吊り上がっていくので、それはポルトガルの利益にしかなりませんよね。だから、みんなで競うのではなくって、ここはひとつ一部の商人にしか生糸を販売する権限を与えないようにして、入札資格を儲けたのでした。資格のもった商人しか入札できないってことは、入札できる商人が少なくなるわけですから、自然と入札競争が緩和されるようになり、生糸の価格高騰を抑える効果があったのでした。そして、ポルトガルの利益独占を防ぐことに成功したのです。

 

中国との関係

そしたら、忘れてはならないのが中国との関係ですね。明や清との関係です。まず明なんですが、国交を要求したのですが明は拒否しました。なぜなら明との関係がよくなかったからです。覚えていますか?天下人となった豊臣秀吉が、明の子分だった朝鮮に出兵しましたよね。あの一件があったので、日本からお近づきになりませんか?と迫ってきても頑なに、いや結構です!と交易を渋ったのでした。そして、明が滅び清という王朝へ変わりました。

 

日本人の海外進出

日本人もわりと江戸時代の最初の方は海外へ出ていったのです。まずは、活発な朱印船貿易です。これは幕府が発行した海外渡航の許可状をもって、ベトナムであるとかタイであるとかマレーシアであるとかフィリピンであるとかに活発に乗り出していくわけです。そして、日本人の海外移住が流行します。主に東南アジアの各地に「日本町」ができます。とくに海外移住をした日本人の代表格が山田長政です。山田長政は、タイのアユタ朝の王室に重く用いられ、アユタヤ朝州知事くらいの地位まで上り詰めて一軍を率いて戦争に参加するなど、このように海外で活躍する日本人も現れました。

 

まとめ

さてさて、そもそも江戸時代って鎖国ってイメージがあるのに、結構活発に海外と交流していますよね。アレ?って思いませんか?ここまでは江戸初期ごろまでは、オランダとイギリスと新たに関係を結び、スペインの植民地であったメキシコまで船を出して商人を派遣して関係を結ぼうとしたり、あるいは朱印船貿易ではでかい船を仕立てて一斉に東南アジアへ出ていくというように、これから鎖国をしていこうとする国のわりには案外幕府は貿易に積極的だったわけです。まぁ、そこから鎖国へ移り変わっていくプロセスを知るのも、ここ江戸時代の勉強のしどころの一つかなと思います。

 

今回は、幕府の初期外交についてお話をしました。鎖国をしていこうとする国の割には案外積極的なんだねってイメージを持ってもらえればと思います。今回は以上です。