日本史オンライン講義録

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081 鎖国政策と長崎貿易

いよいよ幕府の最も重要な政策である鎖国政策についてみていくことにしましょう。小学校でも、中学校でも習う鎖国ですが、この鎖国のお陰で日本ならではの文化が育まれたといっても過言ではありませんし、この鎖国によって日本人が国際社会の中でも閉鎖性があるというように見られた要因でもありました。この鎖国政策によって後々にまで大きな影響を及ぼすことになります。

 

鎖国政策

では、どういう目的で鎖国をやったのかみていきましょう。まずはキリスト教の禁教ですね。キリスト教を禁止するということなのですが、西洋では神というのは至高の存在なんですよね。この神を信じるということは、幕府をないがしろにするのではないかってことでキリスト教を禁止しました。その点、ヨーロッパとかでは神様も至高の存在だが、この神様から権力を授かった王様もまた至高の存在であるというように、この辺はうまく切りかわしているんですよね。まぁ、日本にとってはキリスト教は認めてしまったら幕府をないがしろにしてしまう危険な思想だということで切り捨てられるのでした。

 

もう一つの目的はというと、実は鎖国をしたいんだけども、江戸時代初期のころの幕府って例えばメキシコにも使いを派遣したり、一大名の伊達政宗もスペインに使者を派遣したり、ポルトガルとも貿易の決まりごとをつくってみたり、このように外交には積極的だったんですよね。なんで鎖国をするんだったら、メキシコにまで使いを派遣する必要なんてないじゃないですか?なぜ積極的な外交をやりながら、この期に及んで手のひら返しの鎖国をしたのか不可解ですよね。これは実は幕府が貿易による利益を独占したようとしたのがもう一つの目的です。どういうことかというと、たとえば外国と取引をするとなると、今のようにアメリカのものやヨーロッパのものをAmazonとかでワンクリックすれば海外から発送してくれるといった便利な時代ではなかったわけですよね。ですので、海外から入ってくるものは全て日本にはない貴重なものなのです。また逆に日本から海外に持ち出すものも海外の国にとっては日本のものって珍しくて素晴らしい、多少高くとも手に入れたいって思うわけです。このように珍しいものの売り買いを繰り返せば莫大な利益をゲットできるわけです。こんな素敵なチャンスを幕府としては大名たち、とくに外様大名たちには渡したくないわけです。とくに外様大名たちに勝手に貿易をして勝手に莫大な利益を上げてもらいたくない、そこで幕府は一方的に大名たちの利益を鎖国によって制限しながら、幕府が独自に空けた窓口であるオランダ中国にだけ取引を限定して、この貿易による旨みを幕府で独り占めしようとしたのでした。鎖国政策については、年号付きで勉強するのがセオリーですので年号もセットで覚えておきましょう。

 

経過

1616年、中国線を除く外国船の来航を平戸長崎に限定しました。

1623年イギリスが商館を閉鎖し、日本から撤退しました。イギリスはオランダと貿易の主導権争いをしていたのですが、東南アジアでオランダとの争いに敗れて、そして東アジア方面からもイギリスは一旦手を引いて、これからインドの経営に専念するようになります。

1624年スペイン船の来航を禁止しました。スペインというとキリスト教の布教に熱心であったのに加えて領土的野心をギラつかせていたわけですね。そういうスペインをまずは来航禁止にしていったのでした。

1633年奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止しました。奉書船ってなんですか?奉書船というのは、老中が発行する老中奉書を受けた船のことです。老中奉書は、海外に渡航する際に今まで幕府が発行していた朱印状に加えて、この老中奉書も必要でした。この老中奉書っていうのは、老中が自分の名前で責任を持って発行するものです証書ですから、許可をした責任は全て老中が負わなければなりませんでした。ですので、海外渡航したい人は、「幕府から朱印状をもらいましたよ、海外に行っていいですか?」っていうお伺いを立てるわけです。その伺いを老中という個人が吟味するのですが、老中も責任をできればかぶりたくないわけですから、「オマエはどこにいくんだい?フィリピン?だめだよーあそこはフィリピンの息がとてもかかっていて、キリスト教に染まっちゃうからダメだ!」とか「仕方ないなぁ、でもオレの名前で発行するんだから、渡航先では絶対に下手なマネはするなよ!」ってな感じで、これまでよりも審査が厳しくなったといえるでしょう。

1635年日本人の海外渡航と在外日本人の帰国が禁止されました。この奉書船以外の、海外渡航の二年後には日本人そのものが、朱印船であろうが、奉書船であろうが海外に行ってはダメだ!加えて、いま海外にいる日本人は帰ってきちゃダメだ!としたわけですね。

1637年、島原の乱が勃発します。民衆が不満をもったため、反乱を起こしたのですが、民衆らの心の寄りどころがキリスト教だったわけですね。ほら、やっぱりキリスト教を野放しにしておくとロクなことがない!ということで、改めて幕府は禁教を強めていくのでした。

1639年ポルトガル船の来航を禁止しました。この時の来航禁止の禁令には、「自今以後、かれうた渡海の儀、これを停止(ちゅうじ)せられおわんぬ」と書かれていました。かれうたっていうのはポルトガルガレオン船のことですが、ポルトガルの船はこれからさき日本にやってくるのは停止してしまったんだよってことでポルトガルに禁止を言い渡しました。

イギリスが撤退し、スペイン船を禁止し、ポルトガル船も禁止しました。この後、どうなったのでしょうか。

1641年平戸のオランダ商館を長崎に移しました。このように残ったオランダを長崎に移して限定して貿易をしたことを「鎖国が完成した」ともいいます。そして、この長崎といえば出島のことですよね?オランダ人を出島に移して、日本人との自由な交流を禁止していきました。そして、長崎奉行がこのオランダ商館の動きを監視していくのでした。

1616年から1641年にわたって、幕府は段階的に海外との扉を閉ざしていき、さらには日本人の渡航も禁止していくことで、鎖国へと近づいていくのでした。ポイントとしては、島原の乱も含めて1633年→1635年→1639年()と覚えるのです。なので、この1633年奉書船というところをまずはきちんと抑えていけば、鎖国を引き出せることでしょう。

長崎貿易

さて、そしたら貿易を長崎に限定したわけですので、長崎貿易について話をしていきましょう。長崎を窓口とする幕府の貿易は、まずオランダです。

オランダ

オランダは出島に商館をおいたのでした。インドネシアダヴィという町がオランダの東アジアにおける最重要拠点でしたので、ここに東インド会社の支店として商館を置きました。そして、オランダはキリスト教の布教は日本では行わず、貿易の利益だけを求めたのです。ここがスペインやポルトガルとひと味違うポイントですね。そして、オランダ船が来航するごとにオランダ商館長がオランダ風説書を提出しました。やはり幕府もまったく海外の事情を知らないっていうわけにはいかないので、海外でいま何が起こっているのか大まかでも把握しておく必要がありますよね。そこで、オランダ船が来航する都度、幕府はオランダ商館長に海外の事情を幕府に報告するためのオランダ風説書の提出を義務付けたのでした。といっても、オランダ目線で書かれた報告書なわけですので、たとえばナポレオンによってオランダが一時征服されて、世界からオランダという国が消えてしまったこともあったのですが、「オランダは残念ながらなくなりましたよ」とかそんなことは律儀に書かず、相変わらずオランダは元気でやってますよ!といったような調子でオランダ目線の報告がなされたのでした。

中国(清)

続いて、オランダの他にも長崎で窓口として貿易をしている国がありました。それは中国ですね。王朝名でいえば清です。正式な国交を求めていったのですが、明から引き続き清とも正式な国交は結べず、私貿易の形式をとりました。そして、出島のように中国人が住まわせされたのが唐人屋敷というところです。長崎港外に設けた中国人居留地のことです。

 

では、最後に幕府による貿易のコントロール、つまり貿易統制についてみていきたいと思います。これまでみてきたとおり幕府は窓口を搾って、幕府が貿易の利益を独占しようとしたって話をしました。しかし、せっかく幕府が貿易を独占しようとしているのに、外国の商人にその儲けを全部持っていかれると、それはそれで困るわけです。そこで、海外の商人に旨い汁を吸わせないようにするために、一時廃止していた糸割賦制度を復活させます。 といわれる商人の組合のようなものを作って、これ以上の値段では生糸は買い取らないようにしましょうねとかルールをきめて、海外の商人の利益独占を阻もうとしたのでした。そうした海外の商人というのは、主に清やオランダなんですけども、これに年間貿易高をオランダ船に銀3000貫までの貿易をOKとしました。そして、清船には銀6000貫までの貿易をOKとしました。なぜこのように制限をしたのかというと、当時日本の主な輸出品は銀でした。日本は当時、アホほど銀がとれていて世界の3分の1ほどの産出量だったといわれているのですが、世界のスタンダード通貨でもあった銀を、オランダや清の船が生糸などと交換してごっそり自国へ持ち帰ったんですね。日本としても通貨は当時銀が主流でしたので、たくさんの銀が海外へ流出していくことはなんとか防がなければなりませんでした。ですので、このように貿易に制限を儲けたのです。そして、のちには清船の来航を年70隻までに制限したのでした。

 

まとめ

幕府は長崎という窓をあけて、オランダや中国と貿易をしました。オランダに対しては出島、そして清に対しては唐人屋敷を窓口としました。幕府がお付き合いしている他所の世界はまだまだあって、たとえば対馬藩を通してやりとりのあった国が朝鮮です。そして、朝鮮ともときどき通信使を通してやりとりをしていました。それと同じように、薩摩藩琉球の面倒をみているわけですが、琉球は幕府に対して琉球国王の代替わりごとに謝恩使を、そして将軍の代替わりごとに慶賀使を派遣しました。そして、この琉球王国は日本側にも所属しているし、清にも所属している、いわば両属関係にあったということを抑えておきましょう。そして、北海道では松前藩とやりとりをしていたのがアイヌでした。