日本史オンライン講義録

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083 文治政治への転換

さて、江戸時代全体のお話をまだしていませんでしたね。ここで徳川15代将軍を初代から順番に紹介してみましょう。下に列挙した将軍は早い段階で丸暗記しましょう。そうしないといつまでたっても江戸時代で得点できなくなります。そして、15人の将軍を4グループに分けて時代感覚を捉えてもらえればと思います。

1〜3代は、江戸幕府が開かれた頃の時代です。そして今回みていくのは4〜7代、家綱から家継までの政治のお話をしていきます。その次に、8〜12代、吉宗から家慶の時代、そして最後は13代以降はいよいよペリーが来航して、そして幕末の時代へと入っていきます。

武断政治
1 家康
2 秀忠
3 家光

1〜3代は、まだ戦国の雰囲気を強く残している時代で、武力によって事を決する政治、武断政治が行われました。大名をコントロールして、わりと力ワザで政治を推し進めようとしたのでした。

文治政治
4 家綱
5 綱吉
6 家宣
7 家継

4〜7代は、文治政治ということで、武力によらない政治がおこなわれました。いわゆる元禄の時代がこの時代です。

改革
8 吉宗
9 家重 
10 家治
11 家斉
12 家慶

8〜12代は、もう幕藩体制というものがしばらくたっていくと、最初のやり方では維持できなくなってきました。しかし、なんとか幕藩体制を維持したいということで、改革に次ぐ改革、改革&改革が行われます。

幕末
13 家定
14 家茂
15 慶喜 

さて、今回からは武力に依らない政治、文治政治についてみていくことにしましょう。家康、秀忠、家光のころは大名武士たちを武力でコントロールする武断政治でしたが、もう戦国時代は終わり天下泰平の世の中なので武力による政治はふさわしくないわけですね。なので、ここで政治の転換点が生まれます。

4代将軍・徳川家綱の時代

さて、この家綱ですが、会津藩主で、家綱の叔父に当たる保科正之の補佐を受けます。こうして家綱が将軍に就任するわけですが、就任して間もなくある問題に悩まされます。それが、慶安の変という事件です。俗に由比正雪の乱ともいいます。この事件は兵学者の由比正雪が牢人(主君をもたない武士)たちを率いて蜂起します。主君をもたないというのは、大名がお取り潰しになったときにその家臣たちは失業してしまうんですよね。つまり、失業した武士のことを牢人というのですが、由比正雪は牢人たちに「よしよし、わかった、わかった。私にいい考えがある。幕府転覆計画だ。どうだあなた達を困らせた幕府を転覆させようではないか?」と吹き込んで牢人たちもこれに賛同し、転覆のムードが高まるわけですね。しかし、この蜂起は未然に防がれて正雪らは逮捕されるのですが、そこで幕府はなぜ牢人たちが大量発生するのかということに気づくわけです。それは失業している原因は、主君を失ったからだということです。この由比正雪の乱の背景には、末期養子の禁(あとで説明します)や武家諸法度違反で多くの大名が改易され、不満を抱えた牢人が大量に発生したことが挙げられます。まず、武家諸法度違反ですがこの間やりましたね、お城の改築を無断でやったためにお取り潰しになった大名もいました。このように、1〜3代将軍の時代は、逆らいそうな大名、災いのもとになる大名をどんどん取り潰してやれっていう武断政治の時代でした。たとえば大きい大名だったらたくさんの家臣を抱えているわけですので、取り潰しにあったら大勢の失業武士つまり牢人が生み出されますよね。当然、この牢人たちは「なんで俺たちの主人を幕府は取り潰すんだ!おかしい!おかしい!」と不満を抱くのでした。

武断政治から文治政治への転換

このように幕府も、「武断政治のときにたくさんの大名を取り潰したから不満を抱えた牢人が大量発生したのか」ってことに気づくのです。ですので、家綱の時代から「政治の在り方を見直そう!」ということで武力によらない政治つまり文治政治への転換が図られるのでした。

末期養子の禁の緩和

末期養子の禁っていうのは何かというと、たとえばある国のある大名が突然死んだとします。男の子が居ない場合は今までのルールだと、その大名一族は取り潰しになってしまいました。なので、最後の最後に男の子が居ない場合、どこかから迎え入れた養子にバトンタッチをすればいいのですが、養子をとらずにあるいは取り忘れて、最後の間際に抜け穴をかいくぐるように養子(末期養子)を決めて、そして自分は死んでいくっていうことを禁止していたのです。幕府としては「そんなもん、早々と準備しておけよ!末期養子になったらもうその大名家は取り潰しだぜ」となっていたのですが、文治政治の時代に入ってこれをちょっと緩和をしました。追い目を存続させるためだけの末期養子はやっぱりダメだけども、大名の年齢が50歳に満たない場合は、もうその時はOKにしようとしたのが末期養子の禁止の緩和です。廃止でなく緩和ね。まぁ、もっと長生きするんだったら、前もってちゃんと跡継ぎは準備しておけよって感じですね。

殉死の禁止

たとえば、またとある大名が亡くなったとします。その大名に仕えてきた家臣が「私も殿の後を追って死にます」っていうことを殉死というのですが、まぁこのあたりの時代は殉死が結構多かったんですね。とくに戦国時代は、主君との結びつきが強くて、「小さい頃から主君のもとに仕えて一心同体に行動してきた、だから死んでからも主君にお仕えします」っていう忠誠心の高い家臣が後をおって自殺をすることを禁止しました。これはね、やっぱりもう戦国時代の殺伐とした時代の風習であって、いまは平和な時代なんだから殉死だダメよ!としたのですね。

このように、末期養子の禁の緩和と殉死の禁止は、文治政治への転換期のところでよく試験にも問われるところですので、しっかりと抑えておきましょう。

 

では続けていきましょう。家綱のときに武家諸法度が改訂されます。これを寛文令といいます。内容としてはキリスト教の禁止などを改めて盛り込まれたものになっています。家綱の時の武家諸法度は寛文令と覚えてください。そして、家綱の政治のスタートが慶安の変だとしたら、ラストのほうでもまた悩ましい災難が起こります。

明暦の大火

このことを明暦の大火(振袖火事)といいます。江戸全域が焼えた大火災、これが明暦の大火で、江戸の3箇所から同時期に火の手が上がって、折しも強い風に吹かれて、この3つの火事がまたたくまに延焼し江戸全域が燃えたとされています。このときに江戸城天守閣も崩落して再建はされなかったのですが、それ以上に気になるのが振袖火事っていうちょっと思わせぶりなネーミングですよね。

なんで振袖っていうのかというと、実はある日、道を通りがかった娘さんがイケメンなお坊さんに一目惚れをしてしまうんですね。でも通りがかっただけなので、名前もよく分からないし、どこの人かも分からず会えずじまいになってしまいます。でも「会いたい、会いたい、会いたくて震えるー」って思っているうちに娘さんは恋患いにかかってしましい、お坊さんが着ていた着物と同じ柄の振袖をつくってくださいといって娘さんはそれを着用するんですね。そんことするもんじゃありません、娘さんは余計に恋患いが悪化してしまい、最後は死んでしまうのです。家族は嘆き悲しみ、棺の上には娘さんが愛用していた振袖をかぶせてお寺さんに引き取ってもらいました。当時、お寺ではお棺にかけられた服っていうのは仏様へのお供え物であり、お寺の運営費にどうぞっていう意味があるので、供養が終わると服は市で売られるわけです。するとまた別の娘さんがこの振袖を手にして着用すると、全く同じ日の1年後に娘さんがなくなってしまう出来事が起こります。そして、またこのお棺の上にかけられた服がお寺に納められ、そしてまたこの服を買った娘さんが、同じ日の1年後になくなるっていう何とも世にも奇妙な物語ですよね。そうするとお坊さんが「くしくも同じ振袖がわが寺へ戻ってきては、その振袖を着ることになった娘さんが亡くなっていく。これは供養せねば」と言いながら、護摩行の際に炊く火の中にその振袖を入れて燃やしてしまいました。そしたら、おりしも吹いてきた北東の風にのせられて、燃えた振袖が遠く飛んでいって、そこから江戸全域に燃え移ったという、なんともこの娘さんの無念さが江戸の町を燃やしてしまったということから振袖火事という名前がついたと言われています。

 

このように、この徳川家綱というのは慶安の変から始まり明暦の大火で終わるといった、なかなか悩ましい将軍なのでありました。

諸藩の文治政治

幕府の方ではすでに文治政治へ転換していましたが、諸藩の方でも文治政治へと転換していきます。これまで諸藩の大名は、いつでも戦争に備えて戦える状態を整えておくことが将軍様に対する義務とされてきました。しかし、もう平和になってしまったら、その必要性はなくなるです。

岡山藩

そこで、岡山藩の藩主・池田光政は、陽明学熊沢蕃山を招き学問を学ぼうとしました。そして郷学としては閑谷学校という教育施設をつくったり、熊沢蕃山の私塾がルーツである藩学の花畑教場が作られたりしました。

会津藩

会津藩の藩主・保科正之は、もう戦国の世の中ではないのだから学者を招いてみんなで学び泰平のために役に立つ知識を学ぼうではないかということで、朱子学山崎闇斎を招いて学問を奨励しました。

水戸藩

水戸藩の藩主・水戸光圀というのは、その昔ドラマにもなった「水戸黄門」で登場する「ひかえおろう!この紋所が目に入らぬか〜」の黄門さまモデルになった人で有名です。この人は、中国の明の儒学者朱舜水(しゅすんすい)を招いています。そして、この水戸藩は一度これまでの日本の歴史をまとめようじゃないかということで、彰考館(しょうこうかん)を設置して、「大日本史」をプロデュースしました。この大日本史が完成したのが、1906年ですので、日露戦争が始まって2年後ですので、編纂開始の1657年から明治の末期頃まで、文字通り大日本史の名にふさわしい大編纂事業であったわけです。

加賀藩

加賀藩の藩主・前田綱紀(つなのり)朱子学者・木下順庵という人を招きます。

 

これらの藩が幕府にならって、もう戦国の世の中ではないのだから、これからは文治政治に則って、学者を招き学問を修めることこそ泰平の世の中に必要なのだということでこのような改革を行っていきました。今回は将軍家綱、そして文治政治の転換についてお話をしました。今回は以上です。