日本史オンライン講義録

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084 元禄時代

4代将軍・家綱から7代将軍・家継までの時代をやっています。その中でも今回は中学校でも勉強しましたが、「元禄」という時代のお話をします。「元禄」というと5大将軍・綱吉の時代ですね。この元禄時代っていうのは、綱吉が将軍に就任した頃からスタートして、将軍在任中に「元禄」が終わりますので、綱吉=元禄で抑えておいてよいかと思います。

5代将軍・綱吉の時代

まずは重要政策からいきましょう。前の4代将軍・家綱のときは保科正之という人物の補佐を受けていましたが、5代将軍・綱吉には堀田正睦が補佐役としてあたっていました。この堀田正睦という人はある事件で斬られて殺されてしまうのですが、その後に側用人柳沢吉保の補佐を受けます。この綱吉の政治のことを側用人政治といったりもします。では、次々と重要政策を挙げていきましょう。

武家諸法度

武家諸法度は何度も改訂されるのですが、主に将軍の代替わりのときに出されることが多いです。この綱吉のときには天和令という武家諸法度が出されました。

「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」

という風にかかれてあるわけですね。武士という者、忠孝を約束して礼儀を正す、という意味があります。なぜいまさら?って思うかもしれませんが、それまでの武士の道っていうのは「弓馬の道」でしたね。戦う戦士なのだからいつでも戦える準備をしておきなさいっていうことで弓を射たり、馬に乗ったりして武芸を高めることを目的としていましたね。しかし、この天和令あたりから、武よりも文が前にあるように、武芸よりも、主君に対して忠誠を誓い、父祖に対する孝行・礼儀秩序を重視したのでした。

文治政治の徹底

つまり、文治政治の徹底がキーポイントということですね。続いて、こういう忠とか孝とかいう考え方の源流点はどこかというと、むかしの中国の孔子という人の教えで儒学とくに朱子学の教えになります。この儒学とくに朱子学では、「そもそも主君とは何か、家臣とは何か、常に上下関係を意識してあなたの役目は何であるかを立場をわきまえて行動しなさい」という大義名分論の考え方のことを指します。それは非常に幕府側にとっては都合のいい考え方だったんですね。ですので、綱吉自らが朱子学者である木下順庵に学びます。そして、東京の湯島というところに儒学の祖・孔子をまつる聖堂(湯島聖堂)を建てて、そこに学問所を併設し、林家の林信篤(のぶあつ)大学頭に任命しました。

生類憐れみの令

そして、この綱吉が有名になっているその一つの理由に、ちょっと一件変わったアノ法令が出されたからでした。もう分かりますよね?そう!生類憐れみの令です。なんでこんなへんてこな法律が出されたかというと、綱吉にはなかなか子宝に恵まれませんでした。とくに跡継ぎとなる男の子に恵まれなかったのです。そこで、綱吉お母さんがちょっと信頼の寄せているお坊さんに「そうしたら息子に男の子が産まれるでしょうか?」と相談したのです。するとこのお坊さんは「綱吉自身が戌年生まれなんだから、犬を大切にしたら男の子が産まれるかも知れませんよ?」とかへんてこりで適当なことを言ったがために、母親がそれを真に受けて「綱吉や、かくがくしかじかで、犬を大切にする法律を出しなさい」と言ったものだから、綱吉によって生類憐れみの令が出されたのでした。そして、当時野良犬が多かったのですが、犬を大切にするという法令が出されたために、犬を収容するためのフィールドが作られて、何万匹も収容できる犬小屋が作られたり、それがどんどんエスカレートして生類憐れみの令がトータルで130回くらい出されたために、そうすると犬だけでなく鳥を大切にしなさい、猫を大切にしなさい、みたいな感じで動物をどんどん保護していく風潮になったために、一説では蚊を殺しただけでも、お取り潰しになった武士とかもいたそうです。まぁ、この法令のおかげで世の中が混乱し、天下の悪法とまで言われるようになった始末です。行き過ぎた生き物の殺生禁止令に庶民は迷惑を被ったとおわれています。

服忌令(ぶっきれい)

次は服忌令といわれるのですが、喪に服したり、忌引をしたりする機関を定めました。今でも人が死んだときに「喪に服す」と言ったり、親戚が亡くなったら忌引で学校を欠席したりしますよね。何かと言うと、死というのは忌まわしいものだから遠ざけようとする発想が出てきたわけです。わりとそれが日本人には根付いて今に至ります。生類憐れみの令であったり、服忌令であったり、儒学の奨励であったり、こうした一連の綱吉政治は、武力で立身出世するという戦国時代の価値観を見事に転換させることに成功しました。たとえば、生類憐れみの令っていうのは確かにへんてこりんな法令ではあるのですが、生き物を大切にするといったルールによって、一連の戦国時代の雰囲気をかき消すことに一躍をかったとも言われています。

経済的転換

頼りにしていた金や銀を豊富に産出していた金山・銀山が、少しずつその産出量を下げてきました。なので、幕府にとって収入が減少するということにつながりますよね。なぜなら、今まで地中に埋まっていた金や銀を掘り返せば、それだけお金になっていたのですが、掘っても掘っても次第に発掘されなくなると、それは収入も少なくなることにつながります。もう一つは、前回のときにお話をした振袖火事、いわゆる明暦の大火によって江戸は大きな被害を受けました。江戸の町を復興させるために支出が増加してしまったため、財政難に陥ります。

元禄小判

そこで、勘定吟味役という役職についていた荻原重秀によって貨幣が改鋳されました。これはどういうことかというと、今までの小判は金の含有量が86.3%だったそうなのですが、今回はこの金に銀を混ぜて金がだいたい50%くらいの元禄小判を作ったのです。その元禄小判の金の含有量は56.4%なので、今までの小判と比べるとだいたい3割増しで小判の見た目の枚数を増やすことができるようになります。このように、元禄小判の鋳造を行うわけですね。金の含有量を減らしたことによって生じる差額のことを出目(でめ)というのですが、この出目を稼ぐことで財政難の立て直しを量ったのでした。たとえば10枚の小判を集めてきて、一旦金を溶かしてそこに3枚分の銀を混ぜ込んで再び成型すれば13枚になりますよね。10枚が13枚になった、この3枚分んお差額のことを出目といいます。こうしてお金を増やせばいいじゃないかってなりそうなのですが、それはお金の量が増えたといっても質の悪いお金が増えたってことですから、お金の価値が下がって、それに連動してモノの価値が上がってしますインフレを招くことになり、物価が上がって庶民の生活を苦しめることになったのでした。質の悪いお金ってことはみんな知っているので、今まで小判2枚で買えていたものが、「いやいや3枚じゃないと売らないよ」ってなるわけですね。

 

まとめ

はい、このように、明暦の大火のあと復興するために財政支出が増加してしまった、そのため財政難に陥ったため、小判の質を落として出目で稼ごうとするものの、庶民には出目の恩恵が受けられないため、結局庶民の生活を圧迫することになっていましい、経済的に混乱を招く結果となってしまいます。そこで、次の将軍家宣・家継あたりでまた小判を元の価値に戻そうとするのですが、またそれで一つ混乱がおきてしまったりもするので、まだしばらく経済の混乱は続くことになります。今回は以上です。