日本史オンライン講義録

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092 享保の改革

さぁ,ここからは江戸時代後半に入りますよ。有名なのが享保の改革寛政の改革天保の改革といったいわゆる三大改革について迫っていきます。ところで,なぜこのような改革をしたかというと,江戸時代も幕府が開かれて100年以上経過して,今までの方法では幕府運営が維持できなくなってきたので,時の将軍や政権担当者が,改革に次ぐ改革でなんとか幕府を存続させようと努力をしていた時代が江戸時代後半といえます。

 

そもそも,幕府存続が危ぶまれて理由は何なのでしょうか。それは,幕藩体制のもと,幕府や藩が,農民からコメを税として徴収して,それを商人らに売ってお金に換金して,そのお金でいろいろなモノを購入していきました。また,旗本や御家人たちにもコメで給料を得ていました。そうすると旗本たちもモノを欲しがるようになります。たとえば,暗くなったら明かりとしてロウソクなんか欲しいですし,ちょっとした本でも読みたいですし,服も買いたいですし,そういう場合はお金が欲しいわけなので,コメを商人に売ってお金にかえるわけですが,そうするとそのコメを高く買ってもらわなければお金になりませんよね?そのときに,手工業の高まり,商品作物の栽培など,いろんな商品が江戸時代の中でも爆発的に増えてきたわけですね。上方からおいしいお酒が運ばれてきた,そのお酒飲みたいけどお金がない,そこでコメを売ってお金にかえる必要があるのですが,商人としてはできるだけコメを安く買い叩きたいわけですよね。なので,藩や旗本はお金が手に入れにくくなったのです。また,コメっていうのは,気候の変動とかによってある年は豊作だったり,ある年は飢饉になるまでの凶作だったり,その幕府や藩や旗本たちが寄って立つコメの取れ高は毎年変動し,そんな不安定な収入のもと幕藩体制を運営してきた背景があります。そんな中で世の中 も商品経済が浸透していったことで幕府や藩はどんどんと苦しくなっていくのでした。なので,改革が必要になってきたっていう流れを頭に入れておくとこれから勉強しやすくなってくるのではないかと思います。 

 

7代将軍・家継の死

わずか8歳で亡くなった家継。もちろん後継者としての子がいないわけですよね。そこで,将軍家の本家が途絶えたときのために家康がつくっておいた御三家から代理を立てることになりました。御三家は覚えていますか?紀伊・水戸・尾張でしたね。水戸藩というのはちょっと特殊な役割を与えられることが多かったですし,尾張は幕府のちょっとライバル的存在でもありましたので,なかなか将軍にするには差し支えがあったのでした。そんな中,後継者として選ばれたのが,紀伊藩主・徳川吉宗です。この吉宗が,傾きかけた幕府の立て直しをめざして幕政の改革「享保の改革」を断行していくのでした。

 

8代将軍・吉宗の時代

人材の登用

さて,まず吉宗は人材の登用を行いました。抜擢した人物として有名なのが,大岡忠相ですね。町奉行としてその手腕を上げました。大岡裁きといわれるくらい裁判がうまいことでも有名です。三方一両損というエピソードがあって,落ちてた3両を2人の男が「俺のものだ!」「いや,それは俺のものだ!」と言い争いをしていたときに,大岡忠相が間に入ってさばきをするわけですね。「3両あなたのものかも知れないが,相手のものかも知れない。ここは私が1両出すからさ,4両になったところで,どうかお互い半分の2両ずつ受け取ることで我慢してよ,足らずの1両は私が出して1両損をするからさ。どう?これでみんな1両は損することになるけど,丸くおさまるでしょ?」といった話が有名です。

 

そして,吉宗は,田中丘隅という人の登用を行いました。この人は民政家でして,渡し船や洪水予防のために堤防を建てたり,結構水関係で手腕を発揮した人です。この人が農業に関する本を書いて,これを「民間省要」を出したりもしています。ほかにも儒学者荻生徂徠や室鳩巣といった人たちを積極的に登用しました。

 

足高の制

さて,ここで登場した大岡忠相や田中丘隅という人なのですが,もともとは将軍に召し抱えられるような家柄ではなかったのです。では,なぜ重要ポストに抜擢されたのでしょうか。その理由は足高の制が影響しています。たとえば勘定奉行は3000石っていう領地を持っている家柄でなければ今までは勘定奉行にはなれなかったのですが,500石の家柄でも高い能力があれば勘定奉行にしたいわけですよね。その場合,プラス2500石を足して,500石に満たない家柄でも勘定奉行に向いていると判断されれば足してやって3000石にして,任期がおわればまた元に戻すよ,いいね?といったように,役職に満たない家柄の人材でも一時的に家禄を足して,不足分を補うしくみのことを足高の制といいます。これによって,たとえ家柄が低かったとしても,税を取り立てる勘定奉行として向いているようであれば登用することができるようにしたのでした。さらに,一時的に登用した優秀な人材が任期満了で退任してしまえば,退任後はもとの給料に戻すことによってむやみに支出を増やすことなく財政圧迫を防いだのでした。

足高の制の意義

・優秀な人材の確保

・支出の抑制

正誤問題では,不足する場合は「3000石まで不足分を支給する」と「3000石を支給する」と引っ掛けてくることがありますのでよく問題をみておいてください。また,この制度は旗本・御家人を対象としたもので,そもそも大名が就任する役職には適用されませんのでこちらもご注意を! 

 

倹約令

そもそも改革が必要な理由は何だったかというと,幕政の立て直しでした。世の中はカネで回っているのに,収入源がコメであるがために財政難へと陥ったのでしたね。そこで贅沢を禁じて支出の削減を図るために倹約令が出されました。

 

相対済し令

そして,相対済し令という命令も出されました。実は,この時代の訴訟の9割は金銭にまつわるトラブルだったと言われています。それをさばくのが町奉行なのですが,当然裁判になると下調べも必要だし,いちいち裁判もしなければならないので裁判コストがかかりますよね。そこで,金銭についての訴訟は幕府に訴えず,当事者間で解決させることで訴訟にかかる費用を削減するために相対済し令が出されました。

 

上米の制

大名から石高1万石につき100石を幕府に上納させる制度を上米といいました。史料では「高壱万石に付八木百石積り差し上げらるべく候…」でよく登場します。この中の八木っていうのは,米という意味です。石高1万石につき100石を差し上げよ,そのかわり参勤交代の江戸在府期間を半年に半減するからさ,といった内容です。これは大名にとっては嬉しいですよね。ただ,幕府にとっては「恥を忍んでお願いする。コメくれよ」って恥を忍んで大名に頭を下げているわけで,できれば幕府としても本当はそんな恥はかきたくない,でもそれくらい幕府の財政が切迫していた状態だったのでしょう。なので,経世が建て直されると上米は行われなくなりました。そして,江戸在府期間も半年から1年に戻されるのでした。

 

定免法の採用

年貢のとり方を,検見法から定免法へと改めました。この検見法って何かというと,その年の収穫に応じて年貢高を定めるものです。しかし,この定免法というのは収穫高に関わらず,一定の量を収めさせるのでした。さて,この時代は収入をコメに頼るというものでしたので,年ごとに収入が変化するわけで収入不安定なわけですよね。しかし,定免法では,豊作であろうが凶作であろうが毎年一定の額を年貢として収めさせるわけですので,計算がたつわけですね。しかし,非常に凶作であったり飢饉であったりしたとき,それでも一定の量を収めさせられることで,本当に生きていけなくなる農民が続出し,土地を売り渡して小作人に転落してしまう農民もたくさんいたのでした。ただ,だからこの定免法というのは農民にとってはかなり厳しい政策であったことに間違いはなさそうですね。

 

新田開発

商人らの力も貸してくれよってことで商人資本を利用していくようになります。テストでよく問われる神田としては,紫雲寺潟神田などが有名です。

吉宗は,以上のようにコメの収入を安定させたいという政策のもとで改革をしていったので,吉宗のことを「米将軍」「米公方」といいます。

 

まだコメ関係のお話は続くのですが,大阪堂島の米市場を公認します。これは米価の上昇を図りました。たとえば,大名・旗本・幕府は農民からのコメをお金にかえることで欲しいものが手に入れられたわけですよね。しかし,コメを高く購入してもらわないことには,現金収入が減ってしまうことになるので,そこで「米市場として公認してあげるからさ,どうか米価の上昇についてはよろしく頼むよ」といったことで米価の上昇を図っていくのでした。

 

甘藷の栽培

甘藷(かんしょ)そしてサトウキビ・朝鮮人参の栽培なども行いました。たとえば,朝鮮人参なんかは輸出してお金を得るために栽培されたものです。また,甘藷というのはさつまいものことで,青木昆陽という人が普及に一役かったのでした。さつまいもは口にすれば栄養価の高い食べ物ですし,凶作の中で定免法に基づいて年貢を収めると手元に残るコメはもうないといった場合でも,コメの代わりにさつまいもを食して飢饉を乗り切ったのでした。

 

実学の奨励

学問の中でも実生活で役に立つ学問をどんどん奨励していきました。そこで漢訳洋書の輸入緩和に踏み切りました。たとえば,漢文に訳してある西洋の本にも高い技術が載っているので,輸入はOKにしたのですね。そして,青木昆陽野呂頑丈らは西洋の学問である蘭学を研究して,いろんな技術やその他いいものがあればどんどん採用しようとしたのでした。

 

江戸の都市政策

明暦の大火という大火事があって,今度あったらどうしようかと考えたところ,ちょっとした広場があれば延焼を防ぐことができるので火除地であったり,幅をわざと広くして延焼を防いだ広小路を設置しました。そして,町火消といって町人自身が火を消すグループをおきました。このことをいろは47組といいます。たとえば,い組とか,ろ組とか,ほ組とかがあって,担当エリアを任された威勢のいい連中が,周りの建物などを壊して火の延焼を防いでいったのでした。ちなみに,へ組,ら組はありません。そして,ひ組。これはなんとなくわかりますよね?いまから火を消そうとしているのに,火組はちょっとしっくりこないですもんね。以上,この辺りは余談です。

 

そしてもう一つ有名な政策として,評定所に庶民の意見を集めるための目安箱を設置しました。たとえば,この目安箱によって名も知れない町人の意見かもしれないけど,いいアイデアは採用していくんですよね。今の東京ドームのあたりに貧民対象の医療施設である小石川養生所を設置したり,その付近で薬草を栽培したりして,貧民の疫病を解消しようとしました。

 

法令整備

公事方御定書という法令を制定しています。これは何かと言うと,裁判や刑罰の基準を規定するわけですね。たとえば10両以上盗めば死刑ですよ,10両未満であれば入れ墨を入れて叩く刑罰がまっていますよ,といったように予め基準を作っておけばそれに沿って裁判をすればいいわけですから,結果的に裁判コストを削減することができたのでした。

 

御三卿の設置

振り返ってみると,家継が亡くなったことで自分は紀州から将軍としてやってきたわけですよね。ですので,そういうことを見越してもうちょっと将軍家の分家を作っておこうということで,田安家・一橋家を創設しました。ちなみに,この吉宗のおかげて一橋家から15代将軍・慶喜がでてくるわけですから,それなりの貢献をしたことになりますね。次の9代・家重はのときに,清水家が加わって,あわせて御三卿となりました。

 

今回は,吉宗の政策についてまとめてみました。今回はかなり分量が多かったと思うのですが,この吉宗の政策は中身まで細かく大学受験で問われてくる箇所でもありますので,しっかりとインプットをお願いします。今回は以上です。