日本史オンライン講義録

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094 社会の変容

これまで享保の改革と田沼時代を見てきましたが,今回はその裏側で動きを見せた社会の変化についてみていきたいと思います。

 

幕府・藩の財政悪化

社会の変化というと,とにかく幕府の財政が悪化していきます。それもそのはず,欲しいものは商人がお金で売っているのに対して,幕府や藩というのは依然として収入を農民からのコメに頼っているわけですよね。幕府として備えなきゃいけないものがある,揃えなきゃいけないものがある,必要なものは商人にカネではなくコメを払って賄わなければいけないわけですね。農民も欲しいものは商人からカネを払って買うようになってしまうのですが,でもコメの出処は農家であることにかわりはありません。コメっていうのは毎年毎年安定してとれるわけではないですよね,たとえば日照りが続いたり,逆に長雨が続いたり,毎年変動するコメっていう農作物に藩も農民も頼っているがために,あるとき飢饉なんかが訪れたらたちまち経済が立ち行かなくなるのです。

 

で,幕府や藩はこれに対して,家臣の給料を減らしたり,年貢を増やしたりして農民の生活がさらに悪化していきます。とくに,年貢が定免法になって豊作のときも凶作のときもたとえばコメ3俵出せってなると,豊作のときはまだしも凶作のときはきついわけですね。そうすると農民も生きていかなくてはならないので,富農に土地を売って養ってもらえば,年貢の心配はなくなりますね。まぁ,富農に一生こき使われることにはなるのですが。なので,土地を売り払ってしまって何がしかのお金を受けとり,富農のもとで小作人になっていく農民が増えていったのでした。

 

農村の変化

ある年に飢饉になってそれでも年貢を払えと言われる,止むと得ず富農に土地を売って小作人になる。こうなると,富農はどんどん土地を買い占めてさらに豊かになっていき,一方で土地を手放してしまった農民はもう二度と土地は帰ってこないので,まずしいままといったように格差が広がるようになります。困窮した農民から買い取った富農のことを地主といいます。江戸時代の最初で話をしましたが,土地の売買は禁止されていました。ですので,表向きは困窮した百姓からあくまでも質にとって預かっているだけで,また百姓が買い戻せるくらいのお金ができれば土地は返却するというスタイルをとっているのです。しかし,実際のところは百姓が復活するということはなく,譲り受けたら富農のものになるのでした。

 

百姓の階層分化

まずは地主手作といって地主の土地で召使いのような隷属農民を利用して土地経営を行っていました。さきほど生活に困窮した百姓から土地を買い取りましたが,今度はその買い取った土地を百姓に貸してあげるから,そのかわり土地を貸したレンタル料を百姓は払えよってことでこのレンタル料のことを小作料といいます。そうすると,地主はますます豊かになり,小作人はますますまずしくなっていくということになりますね。世の常といえば世の常なのですが,地主は成長し,村役人を兼ねて豪農となる一方,小百姓や小作人は困窮がすすみ,彼らの不満が村方騒動へと発展していくことになります。ですので,この村方騒動というのは,富農VS貧農といった農民同士の争いとなるのでした。

 

百姓一揆

農民同士の村の中での争いを村方騒動というのに対して,今度は百姓全体の不満が幕府や藩に向かう,これを百姓一揆といいます。百姓らが要求を掲げ,直接行動をおこすものです。で,百姓一揆が頻発する前,江戸時代の初期では,幕府や藩がどのような形で不満を爆発させたかというと,一揆という形をとらずに戦国時代からの土豪がいたので彼らを中心に蜂起しました。あるいは,一村規模での逃散が一般的でした。それが江戸時代中期になってくると,百姓一揆の形を取るように成りました。

代表越訴型一揆

このあたりからでてきたのが,村の代表者が村民を代表して領主に直訴する代表越訴型一揆です。代表的な越訴型一揆としては,下総の佐倉惣五郎や上野の磔茂左衛門(はりつけもざえもん)が有名です。ただ幕府や藩は,代表越訴型一揆に対して,命がけで訴えにきたものに対してもちろん処刑にはするものの,それと引き換えに要求は聞き入れるといったことも結構あったようです。

百姓一揆

これは17世紀末あたりから多く行われるようになったのが百姓一揆です。広く農民が参加し,集団の力で領主の強訴するタイプのことです。代表を決めてしまうととっ捕まって殺されてしまうので,逆に首謀者であるかをわからなくするために傘連判状(からかされんばんじょう)を使ってみんなで強く訴えていこうとしたのでした。これが大規模になって藩全体での全藩一揆になることもありました。

世直し一揆

そして,江戸時代も末期になると,世直し一揆が行われるようになりました。おれたちの生活が苦しい理由は,世の中が悪いからだ。幕府を倒して新しい世の中を作ろう!とした社会改革の要求を伴う一揆です。

 

飢饉

で,なんでこのような一揆をせざるをなくなったかというと,それは大規模な飢饉が怒ったからです。こうした飢饉が起きてしまうとたちまち生活が厳しくなってきます。農民がコメを生み出せなくなる,そうすると幕府や藩も収入が途絶えてしまいます。しかし,商人から買いたいものはたくさんある。そんなわけで,それがジレンマとなってしまい経済がガタガタになってしまう,世の中はカネ社会なのに,収入源をコメにもとめているから,そのコメがとれなくなったら,農民→藩→幕府の順に生活が困窮していくのでした。

享保の飢饉

おもに西日本で起こりました。だいたい徳川吉宗享保の改革あたりの頃です。そして,将軍のお膝元江戸での打ちこわしを招きます。

天明の飢饉

これはかなりの大規模かつ深刻な飢饉だったようで,とくに浅間山の噴火によって巻き上がった火山灰が日光を遮ったことによって,冷害を招きます。主に東日本,東北で被害がでました。

天保の飢饉

この飢饉は,全国的に発展し,各地で打ちこわしが発生しました。幕府や藩も苦しいが,この苦しさを回避するためには農民からコメを取り立てないといけない。しかしその農民が飢饉でコメがとれていない,そうなると農民は一揆にでて訴えるしかないわけですね。

 

都市

家持の町人が減少して,零細な暮らしをする民衆が増加していきます。なので,農村と同じようにこの町人たちも,豊かな町人に借金をして,でもその借金がなかなか返せないってことになると,どんどん零細化していくことになります,一方,豊かな町人は,貸したお金の利子で暮らしていけるようになり,格差がますます拡大していくのでした。ですので,こうした町人や農民が,豊かな富商や金融業者,米問屋などに対して打ちこわしを行う,たとえば飢饉がおきたときなどにおいては零細な暮らしをする民衆と農村で小作人や零細な農民というのは気持ちの上ではかなりつながっているわけですよね,農村においても都市でも豊かな人と貧しい人に分かれるわけで,貧しいグループが一緒になって飢饉のときに「あそこに米がいっぱいあるじゃないか」ということで豊かグループを襲うということが頻発したのでした。