096 宝暦・天明期文化②
前回は,国学・洋学についてのお話をしてきましたね。今回も,諸学問・教育についてみていきます。
尊王論
これは,儒学と国学が融合した考えのことをいいます。そもそも儒学というのは上下関係の秩序が世の中にもたらされるべきだって考え,そして国学っていうのは日本古来の精神学ぶ学問のことをいいました。これらが融合するってことですから,日本古来のことを研究していくと,やはり将軍権力っていうのは天皇によってもたらされた,あるいは天皇から権威が譲られている,だから天皇の方が将軍よりも上位に来るのだっていう考え方のことを尊王論といいます。
水戸学
これは水戸藩の「大日本史」を編纂していくうちに,尊王論にいきついたものです。竹内式部という人は国学者として,公家に尊皇論を説き処罰されました。この事件を宝暦事件といいます。また,山県大弐という人は兵学者として,江戸で幕府の腐敗とそして尊王論を説き処罰をされてしまいます。この事件のことを明和事件といいます。
のちに尊皇論は,高山彦九郎とか蒲生君平あるいは頼山陽といった人たちが尊王論を説いていきます。偉い立場の天皇から,国を治めることを委任されている将軍も,これまた偉いんだっていう考え方なんですね。幕府としても,天皇の方が上の立場だっていうこと事態はダメだとは言っていないんですね。ただし,天皇が『昔,権力を持っていたのは天皇だ。だから幕府が権力を持つことはいけない』という理論で幕府を否定し始めるとそれは幕府としても黙っておくわけにはいかないんですよ。だから尊王論者は,幕府に寄って処罰されたり,警戒されたりします。
生活から生まれた思想
これは尊王論とはまた違った思想になってくるのですが,石田梅岩という京都の町人が,庶民の倫理や道徳を説く心学をおこしました。心学とは,儒教道徳に仏教や神道の教えを加えていくっていうまぜこぜな思想です。でも日本ってそもそもまぜこぜ思想ですよね。たとえば親が子に言い聞かせる時に「先生のいうことはちゃんと聞きなさいよ!」っていうのは儒教的ですし,「そんなところで立ちションなんてしたら罰があたりますよ」っていうのは仏教的ですし,いろんな道徳をまぜこぜにして言い聞かせるシーンっていうのはよく見られます。これが心学の教えだと思ってもらっていいでしょう。この心学は,のちに弟子の手島堵庵,中沢道二が全国に広めていきました。さて,他にも八戸の医者で安藤昌益は,「自然真営道」という本を書いて,身分制度を批判します。これは,万人がすべてを耕作して生活する自然の世を理想としています。たとえば武士もなければ農民もない,自分たちが必要とするものは自分たちでまかなっていく自給自足が実現できれば,世の中から階級はなくなり理想とする世界になるはずだっていう日本版マルクスみたいな人が安藤昌益です。
儒学
では,いままでの儒学はどうなっていったのでしょうか。上下関係を重んじる朱子学オンリーの幕府に対して,疑問を感じ始める風潮があったのですが,そこで幕府は改めて儒学を武士に推し進め対抗していきます。
朱子学
たとえば,寛政の改革では朱子学をオフィシャルの学問として指定し,正学としました。また林家の私塾を幕府直営の昌平坂学問所としました。しかし,この時代までくると林家からなかなか優秀な人材がでなくなってきたので,柴野栗山や岡田寒泉そして尾藤二州を教官として朱子学を推し進めていきました。
折衷学派
朱子学に加えて,陽明学や古学の長所をとり折衷する折衷学派が登場します。
考証学派
また古典の研究により,確実な根拠を求める学派です。どちらかというと一字一句正確に読んで訳して解釈していきましょうという学派ですね。
教育の普及
この時代になってくると日本全国いろんな階層の人たちに教育が広がっていきました。
藩校・郷学
藩士の教育機関である藩校,あるいは庶民にかなり近い下級武士の教育機関である郷学がいろいろな藩で設立され地方の教育がひろがっていきました。
藩校
覚え方:会津ニシンの/米沢工場を/秋田の姪(めい)と/見とこーや!
日新館:会津藩
明徳館:秋田藩
明倫館:萩藩
郷学
→富永仲基・山片蟠桃らを輩出
私塾
古義堂:伊藤仁斎・堀川学派
その他
一般庶民の初等教育をになった寺子屋であったり,元禄文化で登場した貝原益軒の著作から女性のトピックを抜粋して「女大学」を教科書とする女子教育も登場しました。
以上,今回はさまざまな学問の続きをやっていきました。国学・洋学につづいて,尊王論とか生活の中から生まれた学問,そして幕府がおしすすめてきた儒学を改めて強く押し出す,もう一つは教育が普及して藩や庶民,私塾や,一般庶民,女性にも教育の機会が生まれていったのでした。