日本史オンライン講義録

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098 寛政の改革

まず今までやってきたのが前半パート、吉宗の享保の改革からはじまって、家茂・家治のころが田沼時代でした。文化でいえば、宝暦・天明期の文化にあたります。今回からは後半パートに入ります。将軍でいえば11代将軍・家斉、そして12代将軍・家慶です。家斉は、非常に長く将軍についており約50年にも及ぶ将軍在位期間でした。徳川将軍はおろか、歴代の征夷大将軍の中で最長記録といわれています。そんな家斉のパートは前半は寛政の改革、後半は大御所時代の2つに分けてみていきたいと思います。

 

11代将軍・家斉の時代

将軍は徳川家斉です。実際に幕府を運営していた政権担当者としては松平定信ですね。この徳川家斉、将軍になって、のっけからちょっと不安な出だしとなります。それが天明の打ちこわしですね。田沼時代のラストに東日本を中心とした天明の大飢饉がおきましたね。これをひきずった形で天明のうちこわしが起こったのでした。


さて、こうした中で徳川家斉の時代が始まるのですが、この時に幕府の老中首座になったのが松平定信という人物による改革がはじまります。この松平という名前ですが、将軍家の血筋を引いています。家系図をみれば一目瞭然なのですが、おじいちゃんは誰かというとあの徳川吉宗です。おじんちゃんのように改革をやるんだ!という意気込みで燃えていたのだと思います。そんな改革の内容についてみてきましょう。キーワードは「質素倹約」です。ぜいたくは禁止で、田沼時代で乱れた風紀を正す改革を行おうとしていきました。

 

農村復興

やはり、天明の飢饉あたりで農村が荒廃していましたので、まずは農村復興にとりかかります。なぜなら、基本的に幕府や藩というのは農民がつくったコメを税にしてそれをお金にかえて幕府を運営する形をとっていましたね。なので、農村からとれるコメを増やさなければ幕府は運営できないと考えたわけです。先の田沼は、だからカネ社会にしていけばいいじゃん!っていう考え方だったのですが、松平定信はやっぱりコメだと、コメがしっかり収穫できるような国に戻そうとしたのでした。ですので、農村の復興というのは、コメ社会の中で幕府の財政基盤である農村を立て直そうとしたのでした。

 

旧里帰農令

生活に困窮して農村では仕事がない陸奥あるいは北関東の農民らが、江戸に頻繁に出稼ぎに来るようになりました。こうなると農村での働き手がなくなってしまい、コメの取れ高も減ることになるので、「出稼ぎはするな!農村でまじめに米作りに励みなさい。」ということで出稼ぎを制限しました。そして、江戸にいる人たちには旧里帰農令といって、もとの里に帰りなさいよっていう命令を出しました。これは、農村から出稼ぎにきて、職に就けたらそのまま仕事をしてもよかろう、でも無職でぶらぶらしてるんだったら、ちょっとお金は支給してあげるからこれを元手に農村に帰って農業をしなさいよっていう趣旨で人を都市から農村へと戻そうとしたのでした。

 

囲米

農業に戻った人の中にも、やっぱり思うわけですね、「戻ったのはいいけど、飢饉がまた来ないか不安だ」と。飢饉が怖いから安心して農業はできないよっていう人のために囲米という制度を作り、各地には義倉や社倉という蔵を作らせ、飢饉に備えてコメや雑穀を蓄えさせたのでした。

 

都市政策

豪商を都市政策に関与させて改革を進めていきもしました。豪商たちに勘定所御用達という役割を与えて改革を進めていきます。さて、江戸は打ちこわしなんかもたくさんあって少し治安も悪くなっている、そこでこの治安の悪さを何とかせねばということで人別改めを強化して、身元を明らかにさせゴロツキやヤクザモノをきちんと取り締まろうとしたのでした。そして、そういった連中をとっ捕まえたままにしていても仕方がないので、石川島に人足寄場という施設を作り、ゴロツキやヤクザモノなどの無宿人に手に職をもたせ、たとえば大工であったり、細々とした桶を作らせると言ったり、そういった技術を身につけさせれば仕事にもまじめに取り組んでくれるだろうといった趣旨がそこにはありました。

 

七分積金

やっぱり都市でも飢饉は怖いわけですね、そこで七分積金といって町費節約分の7割を積み立てさせました。たとえば去年10万円使ったとして、今年は節約の結果9万円で済んだとします。そうすると節約分1万円の7割である7000円を積み立てさせることをいいます。

 

棄捐令

収入のもとになっているのはコメなので、コメの取れ高によってすごく収入が左右されてしまうので、旗本・御家人の生活がなかなか安定してきません。だから旗本・御家人は武士の生命線でもある刀を質に入れて、その代わりに竹でつくられた刀をさしたりしていました。それでなくても、借金をたくさんしていますので、この旗本・御家人の借金を帳消しにさせる棄捐令という命令を下して、武士にお金を貸していた札差に対しての貸し金を放棄させたのでした。

 

学問統制

学問や思想の統制をはかります。これは前の宝暦・天明期の文化のところでも紹介しましたが、幕府は朱子学を推し進めたいけども、国学や洋学などが流行ってきて、幕府が言っていることも100%正しいとは限らないんじゃないかな?と疑問を持ち始めたのでした。そこで幕府に批判や疑問を投げかけるような流れはここで断ち切っておこうとしました。それが寛政異学の禁です。朱子学を正学とし、聖堂学問所(昌平坂学問所朱子学以外の講義や研究を禁止しました。幕府は改めて朱子学が幕府のオフィシャル学問だよっていうことを示したのですね。前の宝暦天明期の文化のときも言いましたが、幕府の朱子学を教えるリーダーとしての林家に優れた人物がでなかったため、かわりに柴野栗山とか尾藤二洲そして岡田寒泉(のち古賀精里も)らを儒官に任命しました。彼らのことを寛政の三博士といいます。

 

さて、もう一つは風紀の乱れやぜいたくによってルーズな世の中にしないために、出版統制令を出しました。面白おかしく政治を批判する風刺であったり、ぜいたくをしたり、世の中を乱すようなもとになる芸術家を統制する命令をだすわけです。たとえば、洒落本で有名な山東京伝が弾圧を受けています。彼は50日間鎖で繋がれたといわれています。他にも黄表紙で有名な恋川春町、あるいは蔦屋重三郎なども処罰されています。そしてちょっと毛色の違うのが林子平ですね。林子平は「三国通覧図説」や、「海国兵談」を唱えて弾圧されています。なぜ弾圧されたのかというと、海防論といってたとえば、ロシアがどんどん南下してきて、このままでは外国が日本を攻めてきて江戸が狙われるかもしれないよって警告を出すわけですね。これはなかなか当たっているのですが、外国が攻めてくるから幕府は備えをしろっていうのは、政治批判にもなるし、あるいは鎖国っていうものの国是に反するとして、林子平は処罰されました。

 

尊号一件

このように次々と改革を行っていった松平定信なのですが、厳格すぎて社会の実情にはあわなかったこともあり,実は政治を担当している期間はそれほど長くはありませんでした。それが、尊号一件という将軍家斉と定信の関係が悪化する事件で結局は定信が失脚していくのでした。この事件は、天皇家と幕府がトラブったのでした。どのようにトラブったのかというと、御桃園天皇という118代の天皇がいるのですが、この後桃園天皇はなかなか子どもに恵まれず跡が途絶えてしまいました。そこで、親の親の兄弟の子供の子供で光格天皇がいうわけですね「うちのお父さん(閑院宮典仁親王)は天皇になったことはないんだけども、せめて太上天皇」の尊号を名乗らせてほしい」と要求するわけですね。しかし、松平定信はそれは「幕府が定めた禁中並公家諸法度に違反するから絶対ダメでございます!」って厳格に拒否するわけですね。これがきっかけで、天皇家と幕府の関係がちょっとずつギクシャクするようになってきます。

 

また,将軍の徳川家斉とも意見の相違がおこってきます。11代将軍の家斉が「うちの父ちゃんに大御所を名乗らせてあげたいんだけど?」というのですが,厳しい厳しい松平定信は「そりゃダメですよ。だって天皇家にダメっていった手前、ここで将軍にもなっていないあなたのお父さんに大御所を名乗らせるのはちょっと示しがつかないのではないですか」っていうわけですね。このことによって家斉と定信の仲も悪くなってしまい,定信は政治の中枢から失脚させられることになります。余談ですが、この光格天皇の子孫が今の天皇陛下の直接のご先祖様にあたります。

 

諸般の改革

ここまで幕府を中心にお話をしてきましたが、地方の藩の優秀な大名たちも盛んに改革をおこなっています。幕府とも共通するところはあるのですが、やはり農村を復興させて財政基盤を確率させる、あるいは特産物を生産させて収入アップをはかったり、そして教育を充実させたりしていきました。そういった名君たちの中にどういった人物がいるかというと、熊本藩細川重賢(しげかた)米沢藩上杉治憲(はるのり)秋田藩佐竹義和(よしまさ)などが有名です。

 

以上、松平定信は政権担当者から退きますが、家斉はこれから大御所時代で手腕を発揮します。今回は以上です。