日本史オンライン講義録

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099 大御所政治

前回、徳川家斉の時代がもうちょっと続きますよっていう話をしました。徳川家斉の時代を2つに分けるとするならば、まずは松平定信による寛政の改革でしたね。そして、後半はのちに徳川家斉が実権を握っていた大御所時代です。今回はその大御所時代の話をしようと思うのですが、この徳川家斉という人物はどういう人物なのかというと、現在わかっているだけでも53人の子どもがいたことで知られています。家斉自身が養子として将軍家に入ったこともあったので、やや権力の弱い部分を補うために、たくさん子どもを作って、各藩の大名のお嫁さんとして嫁がせていったり、あるいは大名を自分の息子として養子に入れたり、と必要に迫られた部分もあったかもしれませんが、そういう家斉自身も大奥を大切にしてそこにお金をかける人でもあったようです。そして、この松平定信というのは、質素倹約・風紀引き締めに力を入れた人でしたね。たとえば、風紀の乱れになるような本は出版してはいけません、とか節約をしなさい、とか朱子学しか勉強しちゃだめですよ!なんて、これもダメ、あれもダメと言ってきた人物ですから、徳川家斉と馬が合うわけはなく、尊号一件の話もあって、なかなかこの二人の仲は良くなかったようです。今回はこの徳川家斉についてみていくことにしますよ。

 

11代将軍・徳川家斉の時代(後半)

将軍在位中はまだ大御所とは言われないのですが、つぎの家慶に将軍の座を譲ったあとも4年間ほど実権を握り続けていたので大御所となる人物が政治を動かしていたということから、大御所時代といわれています。家斉は大奥にたくさんお金を使う人ですので、質素倹約からぜいたく放漫経済への転換となっていきます。この質素倹約というのは寛政の改革松平定信の方針を指しますよ。なので、政治的には放任というイメージを持つと良いのではないでしょうか。だから案外、文学・芸術といった文化が花開く時代で化政文化といったりします。しかし、問題は山積みです。国内政治においては、財政難そして治安が悪化し、いろんな農村から江戸に出稼ぎにやってくる、出稼ぎにやってきても職がなくフラフラして無宿人がはびこるといったように江戸の治安が悪化します。そんな最中、天保の飢饉という全国規模の飢饉が起きるわけですね。なのでなかなか問題は山積みです。一方で国外では、いよいよ欧米が接近してきます。外国とくにヨーロッパの国々なんかは植民地獲得競争に全力で邁進している時代で、日本もこの渦に巻き込まれていくことになります。この裏側でどういうことが起こったかというと、経済活動の活発化や庶民文化の発展そして農村の荒廃といった要素も挙げられます。なんで財政難で経済活動が活発化するかというと、世の中はすでにカネ社会に入っていて、お金を中心に物事が回る社会なのに、幕府や藩は収入をコメに頼っているので、表向き財政難に陥っているが、その裏では経済活動が活発になっているよということが言えるわけです。

 

治安対策

この徳川家斉がやったことといえば、政治的には基本的に放任なのですが、治安悪化ということについてはなんらかの対策はやっていますのでここを少しまとめていきましょう。まず、関東取締出役といって、関八州(関東一円)の犯罪者の取り締まりを強化する役職を設けました。そして近隣の村々を組織して、そのいくつかの村をまとめて寄場組合をつくらせて、治安維持やあまり治安の悪化につながるような風俗の取締を村を連合させて共同であたらせました。

 

幕府の動揺

この辺りの時代を通して、幕府は動揺していくわけですね。それはなぜかというと、飢饉や一揆や打ちこわしが頻発するからです。たとえば、全国的な飢饉である天保の飢饉が挙げられます。そして、一揆については、一つの村や二つの村単位ではなく、郡内騒動といって甲斐国で起きた1万人規模の農民による蜂起がおきたり、加茂一揆などの大規模な一揆が起きました。そうして、この混乱の中で大塩の乱が起こります。大阪から大塩平八郎が大坂で貧民救済を掲げて武装蜂起を起こします。この大塩平八郎という人物は、大坂町奉行所の与力でして、それを引退した後は家塾の洗心洞にて陽明学を教えるわけですね。陽明学というのは、行動が先に立つという儒学の一派ですので、このような飢饉がおきたり治安が悪化したりといった情勢をみると、貧民が全国的に苦しんでいることからここはひとつ何とかせねばということで武装蜂起を行うわけですね。乱という名前のつく出来事は江戸時代ではしばらく起きていませんでしたので、世間はさぞ驚いたことでしょう。そして、この大塩平八郎の蜂起が引き金となって、各地の貧しい人たちをまとめるリーダーが現れて、どんどん反乱が起きていきます。その代表が、生田万の乱ですね。この生田万という人物は国学者でして、越後で蜂起を起こしました。

 

今回は大御所時代を中心に幕府の動揺についてお話をしました。家斉は基本的には放任主義でしたが、その裏では文化が栄える、しかし治安は悪化する、そして飢饉もそれについで起きて、大規模な一揆武装蜂起など全国的な規模で産んだのでした。今回は以上です。