日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

100 鎖国の動揺

この時代、海外との接触が増えてきたということが挙げられます。江戸幕府は、鎖国をしていましたね。できるだけ鎖国を維持して行きたかったのに対して、世界はこれを許してくれなくなります。ヨーロッパでは産業革命が起きています。たくさんの機械を使って大量生産に成功し、それらをどこに売りつければいいか、あるいは材料をどこから手に入れればいいか、そこでヨーロッパ諸国は世界中に植民地を広げて、材料を安く仕入れ、作ったものを売りつけるといった帝国主義の時代にもう突入しているわけですね。ですから、日本だけが鎖国をしようと思っても、よそからどんどんやってくるということから鎖国体制は動揺を見せ始めるのでした。

 

とくに日本にとっては、列強とよばれる国の中でも一番近いロシアの進出への対応というところを中心にみていくとわかりやすいのではないかと思います。ロシアが進出してくるなら、まずは北海道であろうと、そうしたら北海道をロシアが来る前に押さえておく必要があるだろうということで、幕府は蝦夷地支配を強化することに乗り出します。では、海外との接触が増えてきた田沼時代からお話を進めていきたいと思います。

 

田沼時代

とはいえ田沼時代では、人々は海外との接触ということにあまり気を使っていませんでした。鎖国がずっと続くと思っていたわけですね。そこに工藤平助という人物が現れて「蝦夷風説考」という書物を書きました。赤蝦夷とはロシア人のことなので、ロシアの存在をほとんどの日本人は意識をしていないが、実は蝦夷地のすぐ近くにあって、そのロシアに対して備えないといけないんじゃないのっていう議論が巻き起こるかなという期待をもって書かれた地理書です。そして、林子平という人物が「三国通覧図説」で、日本の近隣の朝鮮あるいは琉球、そして蝦夷地に関する地理書を書きました。ロシアも蝦夷地の人たちと交易をしている、商売をはじめている、これはうかうかしているとロシア人がどっと入って来るので、まだまだ道の島だった蝦夷地を探検して、何がどういう風にあるのかということを知っておいて、ロシアよりも先に手をつけておこうと考えたのでした。そこで幕府は最上徳内を派遣して、蝦夷地および千島列島を探検させました。この辺りが田沼時代のお話です。

 

寛政の改革

さきほど登場した林子平ですが、再び本を出します。「海国兵談」といって、日本という国は海に囲まれているから、たとえ長崎に入り口を限定したところで、どこでも外国の船がやって来る可能性があるので、長崎だけではなく日本全体の海岸をしっかり守るべきじゃないの?って説いたわけですね。もっともなのですが、幕府はこれを幕政の批判として弾圧しました。弾圧をするということは、逆にちょっと痛いところをつかれたって幕府にも思い当たるフシがあるわけですね。なので、この「海国兵談」発禁になり、同じ林子平の書いた「三国通覧図説」も発行禁止になるわけです。林子平そのものも弾圧されるのですが、のちに幕府は林子平の考えを取り入れて沿岸の備えをすることになります。

 

さて、そしてやってきたのがロシアのラックスマンという人です。北海道の根室に来航します。日本近海で商売していたのですが、船が流されてロシアに漂着してしまった大黒屋光太夫という人物がいたのですが、ロシアの人たちは誰も助けてくれなかったんですね。日本に送り返してくれなかった。ちょっと忘れられた存在にもなってしまった大黒屋光太夫は、どうしても日本に帰りたいと決意し、ロシア全土を横断してペテルブルグというところにいる女王エカチェリーナ2世に面会を求めて、ようやく日本に帰ることが許されるといったなかなか興味深い人です。井上靖の「おろしや国酔夢譚」という小説がありますので、ぜひ受験が終わったら読んでみてください。このラックスマンという人は光太夫がロシアから送り返される時に一緒に来た送還使です。女王様からもう一つ命令があって、日本とロシアとの間でお商売ができるようにと通商要求をしてきました。

 

このラックスマンさん、根室に来て一回追い返されています。なぜなら、根室っていうのは別に長崎でもなんでもないし、幕府は外国との窓口は長崎と決めているので「長崎に来いよ。長崎にこなければ交渉はできない。」と言われたんですね。「じゃあ、長崎に行きます。いいですか?」というのですが、その頃はちょうど寛政の改革時代ですので、松平定信は「うむ、長崎だったらいいだろう。」といって一旦追い返したのでした。

 

大御所時代

松平定信失脚後の大御所時代に入ると、まずは近藤重蔵、続いて最上徳内択捉島の探検に派遣されます。探検先では、きっとこの先ロシアがやって来るだろうということを見越して、先に「大日本恵登呂府」の標柱を立てたのでした。最上徳内近藤重蔵、どちらが先に択捉島に行ったのかということが大学受験では結構問われたりします。覚え方としては、最初は蝦夷地探検を行ったのは最上徳内ですから、初は上徳内。最初は徳内。そして、今度は択捉島まで行って探検したのは、度は藤重蔵。今度は重蔵。「最初は徳内。今度は重蔵」と覚えておけばいいと思います。

 

幕府が東蝦夷地を直轄化します。直轄化するってことは松前藩に任せずに、幕府が直接に支配をするということですね。なぜならさっきも言ったように、アイヌの人たちが直接現地の人たちと交易を始めてしまって、幕府が直々に目を光らせていかないといつかロシアのものになってしまうと危機感を抱いたのでした。そして、地図といったら伊能忠敬ですね。この伊能忠敬が測量をします。やはり、先に地図を作っておくことでロシアに対して有利に立とうとしました。例によって正確な地図をつくって「どうだ、これは日本のものだぞ」とアピールしました。

 

そして、ロシアのレザノフが長崎に来航します。あのラックスマンの時代よりも12年後になっているわけですね。ただラックスマンはなぜ相手にしてもらえなかったのでしたっけ?そうですね、根室にいっちゃったからでした。幕府の正式な窓口は長崎だから出直して来いっていわれたこともあり、後日長崎にきました。長崎にきたんだから相手してくれるんだろ?ということで通称を要求したラックスマン。ところが、幕府はラックスマンの通称要求を拒否しました。これによってロシアとの関係がやや悪化してしまうわけですね。さて、このロシアと幕府の関係が悪化しているのをみて、東蝦夷地を直轄化したほかに、西蝦夷地も直轄化しました。蝦夷地全土を直轄化するってことは、幕府が支配を強化したっていうことで、ロシアがやってこれないようにするっていうことでもあります。さらに、北海道にあった唯一の藩であった松前藩っていう藩もなくして、北海道全体を松前奉行支配下に置きます。北海道全体を幕府が直接派遣した役人の支配下におくっていうことになります。

 

つづいて、今度はイギリスと接触をします。イギリスのフェートン号という船が長崎に侵入した事件をフェートン号事件といいます。イギリスと敵対していたオランダの船をフェートン号が「おいこらー待てやぁ」と追いかけていくのですが、長崎に逃げ込んだオランダの船を長崎の港まで入り込んでオランダ商館のメンバーを人質にし、「やいやい幕府どもめ!燃料や水をよこせ〜食料をよこせ〜」といいながら奪取するといった、もうちょっとやりたい放題ですよね。イギリスとの接触というよりかは、イギリスが押し売りのようにやってきたといった事件がありました。これがフェートン号事件です。

 

さて、それでは北の方に目線を移しましょう。間宮林蔵が今度は北海道の北にある樺太を探検します。蝦夷地を抑えようとした幕府は、その北のことも知っておく必要があると考えたのでした。樺太っていうのがイマイチ謎だったんですよね。とくに樺太の北側あたりが謎でした。ロシアが直接陸伝いでやってくるのか、それとも間に海があるのかをはっきりしなかったのですが、この間宮林蔵樺太探検によって海峡を発見しました。この海峡のことを間宮海峡といいます。

 

次に、接触系の事件としてゴローウニン事件があげられます。ロシアも同じようにこの辺りの地理を知っておきたいので、国後島にゴローウニンという人をよこして、ゴローウニンは測量しようとしたわけですね。このゴローウニンが、日本の警備兵に捕らえられたわけですね。日本の警備兵にとっつかまって日本に身柄を拘束されている状態です。すると今度は翌年、日本人がロシアに抑留されるのです。その日本人が高田屋嘉兵衛です。だからロシア人も日本に拘束され、日本人もロシアに拘束されるというこで、これは両者ともに国へ帰りたいわけですので、交換しようじゃないかということで、それぞれ送り返されることになります。ロシアは嘉兵衛を送還し、日本もゴローウニンを釈放するってことになります。この高田屋嘉兵衛あたりも司馬遼太郎の小説で「菜の花の木」っていう作品がありますので、これもまた受験が終わったらぜひ読んでみてください。

 

このようにロシアも日本もわりと紳士的なやりとりをしたので事件は解決します。今までロシアに対して日本は警戒心しかなかったのですが、紳士的に交渉すれば向こうも分かってくれるじゃないかということがわかって、ロシアとの緊張がいったん緩和します。松前藩も藩として復活をしていくのですが、この後のことをみていくことにしましょう。このように外国の船がバンバンやってくるようになるのですが、大きな事件にはならなかったもののイギリスやアメリカの船がしょっちゅう見かけられるようになります。商売をしないか?ということで通称要求がイギリスからもロシアからもいろいろやってくるんですね。しかし、日本の国の基本的なスタイルは鎖国ですので、大御所時代のわりと代表的な命令として、異国船打払令を幕府は出します。別名、無二念打払令ともいいます。幕府は撃退を命じるわけです。これがシーボルト事件です。オランダ商館の医者でドイツ人のシーボルトが、国外に持ち出し禁止の日本の地図を持ち出そうとしてしまい、これで国外追放にあうのでした。そして、もう一つ接触系の出来事を触れるならば、モリソン号事件です。今度の接触相手はアメリカです。命令としては異国船打払令が効いていますから、のちに浦賀に来航したアメリカ船のモリソン号を攻撃して追っ払いました。このモリソン号は何のためにやってきたのかというと、通商要求っていうのも一つあるのですが、主な目的としては高田屋嘉兵衛のように日本人の漂流民が難破して流されたので日本に送り届けてやろうと、わりと善意でやってきたのに大砲でどかーんって打たれて、結局帰国を強いられることになるわけです。この状況を異国船打払令で砲撃したということで、渡辺崋山という人の「慎機論」であったり、高野長英の「戊戌夢物語」であったりで、知識人たちはこのモリソン号事件の幕府の対応を批判します。幕府はやはり日本は鎖国でいくのだってことで渡辺崋山高野長英を処分します。(蛮社の獄)しかし、この異国船打払令も少し改めないといけないようになってきます。

 

時代としては大御所時代と天保の改革の間あたりになるのですが、アヘン戦争が起こります。中国の清がイギリスに敗北します。このニュースを日本人も後日知ることになり、それまでは異国船打払令をだしていたのですが、清がイギリスに敗北したことによってヨーロッパの国ってそんなに強いの?清より強いってマジかよ?ってことで、異国船打払令を改めて、天保の薪水給与令をだすことになります。燃料や水を与えてやんわりと追い返すことを考えるわけです。

 

今回は以上です。