日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

101 天保の改革

今週のお題「読書の秋」

さて,江戸の三大改革もいよいよラストです。享保の改革からスタートして,田沼政治,そして徳川家斉のときに寛政の改革として後半は大御所時代でしたね。一方で文化面では,田沼時代の文化が宝暦天明期の文化でした。そして,大御所時代あたりの文化を化政文化といいます。今回,天保の改革を終えたあとで化政文化を最後にやっていきたいと思います。

 

徳川家慶の時代

この寛政の改革・大御所時代ですが,11代将軍は子だくさん将軍の徳川家斉でしたが,この天保の改革の頃の将軍は,12代将軍・徳川家慶です。そして,将軍のもとで老中首座として政治の実権を握ったのが水野忠邦です。この水野忠邦が行った改革を,天保の改革といいます。では,天保の改革とはどういった改革だったのでしょうか。

 

やはり,この天保の改革も,享保の改革寛政の改革にならって,厳しい改革を理想とする復古主義的政策です。幕府をきちっと引き締めて質素倹約につとめて,もう一度幕府の財政を立て直すのだ!といったスタンスですね。ですので,改革のキーワードとしは「質素倹約」「風俗の引き締め」です。その前の大御所時代が,ゆるい時代だったのでここは一つ引き締めなければと考えたのでしょうね。では具体的な政策をみていくことにしましょう。

 

人返しの法

なぜ幕府が改革をしなければならないかというと,幕府が財政難に陥っているからなんですね。財政難に陥っている理由はなにかというと,幕府があるいは藩が運営していけるっていう状態は,農民が幕府に年貢としてコメをきちんと納めているから運営ができるわけですよね。このコメがきちんと納められていなければ,幕府の収入がなくなるっていうことになります。しかし,江戸時代中期から後期にかけて飢饉が頻発し,あるいは貨幣経済に飲み込まれた農民が「このままじゃ暮らしていけないよぉ」と言って土地を売っぱらって都市に出稼ぎにいくことになるわけですね。土地を売っぱらって出稼ぎにいくわけですから,当然幕府に入ってくる米の収入が減ってくるわけですよね。そうすると,幕府は米の収入源を失い,いよいよ財政難に陥ってくるわけですから,土地を売って都市へ出稼ぎにいくような農民がいたら,もう一度農村に戻して「あんた は田んぼを耕しなさい」っていう命令を出すわけです。これを人返しの法っていいます。いいですか?江戸に流入した貧民を強制的に帰郷させ,農村の再建をはかるのでした。この強制的にっていうキーワードが重要で,家斉の時代,松平定信も同じように貧民を農村に返していましたね。旧里帰農令でしたが,あのときは強制的ではありませんでした。帰郷に際しての必要なお金は出してやるからさ,農村に帰ってよぉ〜という感じでしたので,人返しの法とは少し趣旨が違ってきます。

 

株仲間の解散

江戸では,いろいろな物の値段が最近あがってきました。あまりに物価が上がっていくと,人々がモノを手に入れにくくなり,人々の不安や不満が蓄積して,いつしか打ちこわしに発展することがあります。だから,幕府は物価を安定させようと物価引き下げを行おうとするのですが,幕府はそこでこう考えたのでした。たとえば,江戸へ物資の流れを以下のように表現できます。北前船日本海の物資を集めながら関門海峡をUターンして,大坂へと運ぶわけですね。そして,大坂の二十四組問屋北前船から買い取ったものを江戸に送って,江戸の十組問屋が江戸に人々に販売するということになります。さて,そこで幕府は,「江戸の物価が上がっている原因は,株仲間(二十四組問屋や十組問屋)らがグルになって,値段を釣り上げているんだ。株仲間が私腹を肥やすために中間マージンを搾取しているに違いない。ということは,株仲間を解散させてしまえば,自由な競争が促されて物価が下がるに違いない!」と考えたのでした。しかし,本当のところは,江戸の人たちはモノを欲しがるのですが,北前船日本海からいろんな港町を巡って大坂へと入っていく途中で,「ちょっとオレにも分けてよ。」っていう藩がいくつかいたのです。たとえば,長州藩なんかはこの手をよく使うのですが,各地の産物を集めている北前船から直接買い付けて,各地で売りさばいて利益をゲットしていたのです。そうすると,北前船から大坂へと運ばれていくる物資の量は少なくなり,さらに大坂から江戸へと運ばれる物資の量もおのずと少なくなるわけですから,そんな物資に希少価値がついて販売されました。もちろん高値で売られていくわけですよね。ということは,株仲間が原因ではないということですから,そんな株仲間を解散させたとしても根本的な解決にはならず,この政策は効果がありませんでした。効果がなしどころか,物不足な中でもなんとか儲けようと株仲間がさらに頑張って競争が激化してしまったため,まったくの逆効果となってしまったのでした。

 

棄捐令

そして,寛政の改革でも話をしましたが,棄捐令ですね。札差に貸金を放棄させ,旗本・御家人を救済しました。

 

上知令(あげちれい)

江戸・大坂周辺の50万石を直轄地(幕府の領地)としました。幕府の領地があって,藩や旗本の領地があって,それらを召し上げて幕府の収入にするというものでした。江戸の近くには譜代大名の領地があって,それらを幕府のものとして召し上げようとしたのです。もちろん代わりの領地をあげるからさ!って幕府も言うのですが,そうはいっても先祖代々の土地であるわけですし,簡単には渡したくはないわけですね。また肝心要の譜代大名や旗本からも反発にあい,この天保の改革っていうのは立て続けに改革はしようとするのですが,いまいちうまく行かず裏目に出ることばかりなことがわかりますよね。こうした人々の不満が幕府の動揺により拍車をかけるのでした。

 

三方領知替え

いまの埼玉県に川越藩という藩がありました。この川越藩は非常に財政難に陥っていてとても困っていたのです。当時,将軍は家斉で,家斉の子を養子にもらった川越藩の藩主は,この親戚関係を利用して「お願いします,家斉様。うちの藩は苦しんで豊かな藩に人事異動を命令してください」というわけですね。すると家斉も「よし,わかった。じゃあお前は庄内藩へいけ」ということで庄内藩の転封しました。そして,庄内藩主は長岡藩へと玉突き人事で転封となり,長岡藩主は川越藩と移ったのでした。これを三方領知替えといいます。こういった命令を出すわけですが,庄内藩っていうのは日本の中でも最も大名と武士と農民の関係がうまくいっていた藩でもあり,非常に豊かな藩でもありました。川越藩主も,庄内藩へ移り住めると喜んでいたのですが,庄内藩内で反発が起きたのでした。「うちのお殿様が他所に行ってしまい,そのかわりに貧乏藩主がやってくるなんて溜まったもんじゃない!」ということで領地替えの撤回を老中に要求し,大規模な一揆に発展しました。そうすると家慶も「わかった。あなたたちの言うことはよくわかった。本来なら幕府の老中なんかに直訴したら死罪であるところだが,お前たちの気持ちはよくわかった,普通はけしからん大名に対して一揆をおこしたりするものだが,あなたたちは大名を引き止めるために一揆をおこすとはあっぱれなものだ。」ということで,この三方領知替えを撤回したのです。結果的に,一回幕府が出した転封という命令を撤回したわけですが,幕府というものが弱体化したと人々の目にも映った出来事でもあったのです。

 

朝廷・雄藩の浮上

高まる朝廷の権威

さきほどのように幕府がなかなかうまく行っていないところで,相対的に浮上してきたのが朝廷や雄藩といわれる人たちですね。幕府が,いまいちチグハグな感じですので,朝廷権威が急に高まったわけではないとはいえ,幕府に比べれば相対的に上昇しました。水戸学といって水戸の尊王論なのですが,これが尊王と攘夷(外国を打ち払え)という意見が結びついて,尊皇攘夷論に転換するのです。で,会沢安(あいざわやすし)という人が,「新論」という書物の中で,将軍よりも天皇が権威的にも上位とみるような考えを持ちました。これが,幕末へと影響を与えていくようになります。

 

雄藩の浮上

雄藩というのは「力のある藩」という意味ですが,そんな雄藩が幕末でも強い発言力を持つようになります。とくに西日本の大大名が多いことが特徴です。江戸から遠いっていうことも一つの理由ですね。

薩摩藩

そんな雄藩の一角をなすのが薩摩藩です。実は薩摩藩,雄藩といわれるそれまでは非常に借金で苦しんでいて,破産寸前の藩とまでいわれていました。そんなピンチのところに調所広郷(ずしょひろさと)という人が現れます。500万両という藩の借金を調所広郷はどうしたのかというと,返さないわけではないのですが,返すのをちょっと先延ばしにしたのです。どれだけ伸ばしたかって言うと,250年間の分割払いにしたのです。250年先ってなると,まだ平成30年現在でも返済は残っているってことになり,すでに江戸幕府もなくなって薩摩藩もなくなってしまったわけですから,事実上の借金棚上げとしたのでした。しかし,藩の財政を立て直すために黒砂糖の専売なども行ないました。そして,非常に賢いお殿様として知られるのが島津斉彬です。大河ドラマ西郷どん」でも登場していましたね。この島津斉彬は,鉄を溶かしていろんなものをつくるのですが,この鉄を溶かす炉である反射炉を導入しました。あるいは造船所,ガラス製造所の建設など,島津斉彬は国を護るインフラ整備と新事業の工場群を「集成館」と名づけて力を注いだのでした。

 

長州藩

2大雄藩でもある長州藩ですが,村田清風も借財の整理をしています。やはり長州藩も,借金があって,その額は薩摩藩ほどではないのですが140万両の借金がありました。この140万両を37年分割返済しようとしました。また,長州藩は,紙・蝋を専売にします。そして,越荷方(こしにがた)を設置します。村田清風は,西廻り航路から下関に入稿する北前船(廻船)から越荷を購入し,委託販売をすることで収益を得ていたのです。北から日本海側を南下して大坂へ物資を運ぶ北前船なのですが,日本海から瀬戸内海に入るところで必ず下関の沖合をとおるわけですが,この北前船と取引を行って大坂に入るべき物資を長州藩が先に抑て,これで一儲けをしようと考えたのです。そして,これが大当たりして利益をあげるようになり,軍事力を持つようになるのです。

 

肥前藩

佐賀藩のお殿様は先祖代々,鍋島家でして,このときは鍋島直正が藩主でした。江戸幕府と同じように暮らしていけない貧しい農民が出稼ぎにいったりするわけですので,土地を一旦藩が召し上げてみんなに配って,みんな百姓がやっていけるようにしたのが均田制です。そして,薩摩藩は黒砂糖,長州藩は紙や蝋を専売としていきましたが,肥前藩はというと,陶磁器の専売を行いました。反射炉を築造し,大砲を鋳造できるような鋳造所を設置します。で,このまま幕末にツッコミ,肥前藩はアームストロング砲という強力な大砲を藩でつくることに成功し,幕末で重宝されるのでした。

 

その他

土佐藩は,改革はのグループでおこぜによる財政再建を行いました。水戸藩は,水戸藩主の徳川斉昭の改革ですね。この改革は,保守派の抵抗によって挫折をするのですが,水戸藩も雄藩の一つとして発言力をつけていきます。そして,宇和島藩なのですが,宇和島藩は藩主の伊達宗城(むねなり)が改革に乗り出したり,近代化に乗り出したりします。そして,越前藩は,福井の大名で松平慶永が藩主として,藩の発言力を高めていくのでした。

 

幕府による近代化

地方の藩で近代化の改革が行われていたのをよそ目に,幕府はどうだったのでしょうか。幕府も,近代化の改革を行っていまして,たとえば江戸太郎左衛門伊豆韮山反射炉を築いたりしています。この反射炉は今でもきれいな状態で残っていて,是非一度みてもらえればと思います。かつては寂れていたこの韮山も,ユネスコ世界遺産として明治日本の産業帯遺産群が登録されてから大勢の人で賑わっています。

 

今回は以上です。