日本史オンライン講義録

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102 化政文化①

では江戸時代の後半,化政文化をみていくことにしましょう。実は,江戸時代には「文化」「文政」という年号がありました。将軍でいうとちょうど11代将軍・家斉のころの年代なのですが,この文化の「化」と文政の「政」の字をとって化政文化といいます。江戸中心の町人文化であり,わりと町人が元気な時代でもありました。では,どんな文化なのか大まかにみていきましょう。

 

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前回の元禄文化では,江戸時代前半におこった文化だというお話をしましたが,化政文化はというと,三大改革の動揺期に起こった江戸時代後期の文化ととらえてもらえればいいかと思います。そんな化政文化は,実に多様な文化が発展しました。

 

化政文化の特徴

まず,貨幣経済の進展が挙げられます。これは,前の元禄文化でもいえたことですが,より一層貨幣経済が進展します。そうすると,商工業者つまり町人が元気になります。これが何をもたらしたかというと,たとえば町人文芸が盛んになっていきます。町人を主人公にするような,そして町人たちが喜ぶような,自分達の姿が等身大で描かれているような町人文芸が浮世草子を皮切りにたくさんのジャンルへ発展していきます。そして,浮世絵。町人層らが喜ぶきれいなお姉さんの姿が描かれた絵であるだとか,当時相撲が流行っていましたから人気力士の躍動感ある絵など,庶民ニーズに沿って描かれるようになりました。やはり,貨幣経済ですからカネになる絵が売れるわけで,売れるから描くわけですね。また,狂歌川柳など庶民が親しむ言葉遊び,あとは歌舞伎がより一層発展していきました。

 

このように貨幣経済の発展が町人文芸を促し,さらに浮世絵・狂歌・川柳・歌舞伎などが発展したのですが,その一方で,都市下層民が増加します。これわかりますか?当時,貨幣経済が進展すると農村が階層分化を起こしました。かんたんにいうと金持ちの農民と貧乏な農民という分化です。貧乏な農民は,このままでは食っていけなくなるので都市へ出稼ぎにくる,そしてホームレスになったりする,下町長屋で暮らしたりする,このように都市下層民が増加,これもひとつの時代背景でしたね。それに加えて寛政の改革という非常に厳しい弾圧もあり,これらの厳しさがあきらめムード,退廃的ムードをまねきます。都市下層民は「もうやってられへんわ」とまずしい暮らしをしながら,でも,すさんだ雰囲気,退廃的ムードを紛らわせるために楽しいこと,明るいことを見出そうと享楽的な町人文芸や浮世絵,狂歌・川柳,歌舞伎などに楽しさをみつけるのでした。

 

化政文化とは,楽しいムードとすさんだムードが共存した中で生まれた文化といってもよいでしょう。それでは細かくジャンルごとにみていくことにしましょう。

 

学問

経世論

では学問からいきますよ。まずは,「経世論」といわれる封建社会である幕藩体制の改良・維持をときました。封建社会をどのように改良するかというと,幕府や藩の苦しいところというのはコメを経済の中心としていたからでしたね。コメっていうのはとれたりとれなかったりするわけなので,非常に不安定でした。ですので,実際はカネ社会になっているのだから,コメ以外の収入源を作ればいいのに幕府は「出稼ぎはだめだよ!まじめに農村でコメをつくりなさいよ!」ということで,米作りを奨励していたので,このあたりが苦しいところなんですよね。ですので,コメ社会からもうちょっと現実をみてカネ社会に目を向けるべきだ!とするのが封建社会の改良であって,その方が維持できるんじゃないの?っていう考えです。

 

 

たとえば,海保青陵(かいほせいりょう)などは,諸藩の財政を再建するための商業重視,そして専売制を説きました。代表的な著作としては,「稽古談(けいこだん)」が挙げられます。よろしいですか?藩の財政を維持するため,藩の体制を維持するためにはこれから商業を重視していくべきであり,その中でもとくにその藩で特産物っていうものに目をつけてそこに専売制をしけば藩の財政はうるおいますよっていう考えですね。

次に本多利明は,日本にやたらと最近通商を求めてくる西洋と交易をしよう,そして蝦夷地をしっかり開発すればある程度の収入になるのではないか?ということで富国策を「西域物語」「経世秘策」の中で説きました。

では3人目,佐藤信淵(のぶひろ)です。この人は,産業を国営化してその国が一丸となって作った商品を海外へ売り出していこうとする貿易振興を説きました。代表的書物として「経済要録」「農政本論」なのですが,このあたりが今まで出てきたいろんな本のタイトル名とごっちゃになってくるので丁寧に押さえておきましょう。

 

 

水戸学

水戸学というのは,外国勢力が日本にやってくるので,それらを打ち払うべきであり,打ち払うためには強いリーダーシップが必要である。そのリーダーシップを握るのは天皇・朝廷であるべきだとする尊王攘夷を説きました。水戸学はそれまで,わりと自然な尊王論を主張していました。日本の歴史を紐解くと,天皇から将軍へと権力が譲り渡されたけど,天皇はある程度敬うべきではありますよっていう尊王論でした。しかし。外国勢力が日本にやってきたのをきっかけとして,尊王論から尊皇攘夷論と少し過激になっていくというわけです。これが幕末の思想に大きな影響をあたえていくわけで,藤田幽谷・藤田東湖あるい「新論」を説いた会沢安が有名です。

 

国学

 国学は,平田篤胤という人が復古神道を大成し,尊皇攘夷論に影響を与えました。復古神道,つまり昔に戻る神道っていうことなのですが,歴史を紐解いてみれば,仏教にしろ儒学にしろ,仏教は聖徳太子のころにやってきた,儒教もあとからやってきた,やっぱり日本のルーツをたどっていけば,天皇家さらに遡れば天皇家のご先祖様である天照大神まで遡ることができるわけですよね。要するに仏教や儒教というのは外来の学問であり,そういった外からの影響を受ける前の神道に戻りましょうとする学問を復古神道といいます。

 

洋学

つづいて洋学を紹介します。高橋至時(よしとき)といって,西洋暦をもとに寛政暦を作成します。そして,高橋至時の息子で高橋景保(かげやす)を中心に,幕府による蛮所和解御用(ばんしょわげごよう)という洋書を翻訳する機関が設置されます。もう少し時代が進むとこれが蕃書調所と名前が変遷していきます。次に紹介するのが,伊能忠敬ですね。日本全国の海岸を実測して正確な地図を作成することに成功しました。この地図のことを「大日本沿海輿地全図」です。伊能忠敬は志半ばにして亡くなってしまうのですが,この後を高橋景保が受け継いで地図を完成させました。そして,志筑忠雄ですね。「暦象新書」といって万有引力や海外で説かれている地動説について紹介しています。続いて,西洋人もあげておきましょう。ドイツ人のお医者さんでオランダ商館で働いていたシーボルトですが,長崎に鳴滝塾という塾を開きました。 しかし,日本地図の国外持ち出しが発覚し国外追放されてしまいます(シーボルト事件)。ちなみにこのシーボルトに地図を渡したとされる人物が,さきほどの天文方・高橋景保でして処罰されてしまいます。また,純粋な洋学者ではないのですが,渡辺崋山の「慎機論」や高野長英の「戊戌夢物語」が有名です。この人達は,アメリカのモリソン号がやってきたときにその対応を批判したとして蛮社の獄で処罰をされます。あともうひとりだけ,佐久間象山をやっておきましょう。この人は幕末あたりによく出てくるのですが,弟子たちに開国論を説いた人で有名です。

 

教育(私塾)

まずは豊後に設置された咸宜園(かんぎえん)です。広瀬淡窓という人物の私塾です。続いて,大坂の適塾が,緒方洪庵(おがたこうあん)によって開かれました。学んだ人は決行ビッグネームが多く,福沢諭吉らが学びました。山口の萩には松下村塾では,吉田松陰が中心となって教え,高杉晋作らが学びました。この「ら」っていうのが意外と多くて幕末の志士達が吉田松陰に学んでいます。

 

まずは教科書レベルで紹介をしておきました。今回はここまでです。