日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

105 ペリーの来航

ここからいよいよ幕末となります。戦国時代と並ぶくらい歴史ファンにとっては地の騒ぐ時代ですね。こんなに胸の熱くなる時代であるのに,どうして教科書っていうのは淡々と書かれてあって,淡々と進んでいくのだろう?と思う受験生も多いことかと思います。しかし,教科書というのはあくまでも客観的に史実に基づいてできるだけコンパクトにかつ重要事項は逃さないように記述されていて,だからこそ文科省教科書検定にも合格した書籍であります。それが教科書の良さでもあります。例えば,教科書で,歴史が坂本龍馬の目線で書かれてあったとすると,それはそれで胸熱くなるのですが,でも公平な目線で歴史を探るということに欠けてしまいますし,そういった客観的でないものは教科書としては認められないことになっているので,歴史のロマンを教科書に頼るということはちょっと諦めてください。その分,私が教科書の内容をできるだけ翻訳して胸おどる授業を心がけたいと思いますので,ここから近現代の世界をいっしょに見ていくことにしましょう。

 

幕末・明治維新の時代

幕末っていうのは,江戸っていうのが泰平だったのですが,そこにアイツがやってきて泰平の世の中を動揺させるのです。では,今日はアイツについてみていきましょう。アイツというのは誰だかわかりましたか?そうですね,ペリーです。しかし,ペリーが来たよっていう前の世の中っていうのはどんなものだったのでしょう。

 

ペリー来航前

ペリー来航前というのは,結構威勢が良かったんですよね。ペリーが来るまでは,異国船打払令(無二念打払令)で,外国船が来たら二念なく打ち払えという威勢のいい命令を出していたわけです。ただですね,日本は鎖国をしていたとはいえ,完全に外国との扉を閉ざしていたかというとそうではなく,中国との限定貿易がされていました。そんな貿易のやりとりから,海外の様子なんかも情報が入ってきてたんですよね。そんな情報の中に「あの清がついに負けたんだって?しかも,その清を打ち負かしたのはイギリスという国だそうな。そして,イギリスっていうのは植民地をどんどんと拡大してきていてたそうな。」ってな感じですね。清がイギリスに負けたのはアヘン戦争という戦争です。このアヘン戦争によってイギリスが勝利し,南京条約香港を獲得します。この噂を流れ聞いた幕府は,「清を打ち負かしたイギリスっていう国は恐ろしい国だ。怒らせてはならぬな。」と考え,水や食料を与えて丁重にお引取り願うという趣旨の薪水給与令を出して,しだいに異国船打払令から態度を改めるようになります。これを天保の薪水給与令といいます。幕府が望む望まないに関わらず,諸外国がコンコン,コンコンと鎖国の扉をノックしはじめるわけです。そのうちの一つがオランダで,オランダ国王のウィルム2世が,アメリカはビッドルという人物が開国の勧告をしてきます。鎖国 て時代遅れなことやるな,開国して我々と通商せよってことですね。当時のヨーロッパというのは,産業革命に成功し,たくさんのものを生産できるようになったわけですね。たとえば,綿織物であるとか,工業製品などをどんどんと作り出すようになりますが,たくさん作っても買い手がいなければやがては倒産してしまいますよね。ですので,「うちの国の製品を買いませんか?商売をしませんか?」とその買い手(売り先)を見つけて商売を要求していくのでした。

 

 

老中阿部正弘の時代

今まで歴史の流れを抑えるコツとして,例えば室町時代であれば足利尊氏足利義詮足利義満・・・,江戸時代であれば徳川家康徳川秀忠徳川家光・・・といったように将軍の名前からその時何が起こったのかをみてきましたが,幕末からはしばらく老中や大老といった幕府の政権担当者の人物ごとに抑えていくことになります。その中で,老中阿部正弘の時代をみていくことにしましょう。

 

ペリー来航

ただ,ここではまだまだちょっと要求したり勧告したりとソフト路線なのですが,このあとガツンとハードにやってきたのがペリーです。今までは,国を開きませんかって程度だったのが,いきなりガツンと来たんですね。そんなペリーですが,どこにやってきたのかというと三浦半島浦賀に来航します。今までちょいちょい来ていた,ペリーは軍艦4艚の船を従えてやってきました。ペリーの外交がうまいところは,アメリカのフィルモア大統領の国書(お手紙)を渡した上で「こっちには軍艦もありますし,開国した方がいいと思いますよぉ」と言った上で,その後すかさず「また来年来るからさ。考えておいてよ。」と一旦アメリカへ帰るんですよね。そしたら,もう幕府としたら「どうしたらいい?どうしたらいい?どうしたらいいんだ?」ってぐるぐる頭で考えて動揺を始めるわけなんですよね。

プチャーチン来航

そして,ペリーに続き,ロシア人もやってきます。プチャーチンです。ロシア使節として長崎にやってきます。ロシアは急速に拡大していって日本海まで到達していますので,アメリカよりもまず我々ロシアと先に国境を決めて,それからお付き合いしましょう,ということでまずは開国と国境の画定を幕府に要求してきました。そして,ペリーが一年後に来るからちょっと考えておけといわれたタイムリミットが近づいてくるのでした。幕府も,このまま追っ払ったほうがいいか,開国した方がいいか,いろいろ考えたんですね。幕府には今までやったことのない大名たちに意見を聞くってこともやってりました。大名も「そんなペリーみたいなやつがきたら断固打ち払うべし!どんどんやっつけちゃおうぜ!・・・って思うけど。うーん,やっぱり実力はないし,どうしたらいいんでしょうかね。」っていうのが大半だったようです。そして,一年の月日があっという間にやってきました。

ペリー再来航

阿部正弘さん,可愛そうですね。老中になった時代に,ペリーなんかがやってくるわけですから。そんな阿部正弘は,結局1854年日米和親条約を結ぶことになりました。

① 食料,燃料の提供

② 難破船乗組員の救助

下田・箱館の開港

アメリカへの一方的な最恵国待遇

①〜③だけみると,国家間でのお付き合いをしていく上でごくごく当たり前の項目であって,両者ともに不平等な点はありません。しかし,アメリカはここからちょっと変化球を混ぜ込んで投げてきます。④はというと,アメリカは一番乗りで日本とお付き合いをした国であるから,今後他の国とお付き合いをして条約を結んでも,アメリカより恵まれた内容でないとダメ!もし,他の国とアメリカ以上の高待遇な条件を結んだ場合は,アメリカも自動的にその条件と同じ内容を適用しますよっていうのがアメリカへの一方的な最恵国待遇です。ただ,やはり不平等条約というほどではなく,国と国とのお付き合いを初めましょう的な内容といえるでしょう。

 

アメリカと日本が和親条約を結んで,国と国とのお付き合いを初めたそうな,そういった噂を聞きつけたいろいろな国が,ペリーよりも日本と接触していたわけですので,「うちの国とも条約を結べ」「おれの国とも条約締結を」といった感じで,たとえばロシア・イギリス・オランダとも幕府はなし崩し的に和親条約を結んでいくことになります。そして,とくにこのロシアは,日本と日露和親条約を結ぶわけなのですが,これはロシアと日本がわりと近い位置関係にありますので,和親条約を結ぶときにお互いの勢力範囲を決めて置かなければ,あとからトラブルのたねになります。このように,国と国とかわりと近い国同士で条約を締結するときには,国境の確定をやるのが原則です。そこで,幕府は,千島列島の択捉島以南を日本領をし,樺太は両国雑居としました。そして,この日露和親条約の中で,長崎も開港することになりました。

 

幕府の転換(安政の改革)

それにしても阿部正弘にとっては「なんでオレのときにペリーくるのよぉ」ってな感じで本当にタイミングが悪かったですよね。でも一生懸命やらなければならないわけです。当然,よそからすごい軍艦にのってやってきたわけですよね。でも阿部正弘は,政治のあり方をかえなきゃいけないなっていうことで安政の改革を行った人物としても有名です。ペリーに軍艦でやってこられたことを想定すると,やっぱり幕府も追い払う術をもたなければならないということを考えるようになります。そこで,フジテレビのある場所としても有名な「お台場」に大砲台を築造します。人工的な四角形の島があって,そこに台場を築造し,台場に大砲を据え付けて,江戸湾深くにはいってきた外国船を打ち払うための砲台をつくったのでした。

 

さて続いてですが,ペリーには軍艦でやって れたわけですので,長崎に海軍の兵隊さんを育成するための海軍伝習所を設置するわけです。そして,270年もの平和な時代が続いたばかりに,旗本・御家人らもはっきり言って平和ボケしています。そんな旗本・御家人を鍛えるために講武所蕃書調所など西洋の書物をよんで,西洋の技術をとりいれなければならないということで蕃書調所を設置します。

 

大名の参画

このように,外国人がやってきて商売をやれと迫ってくる非常事態の最中は,能力のある人が指揮を取るべきだということで,水戸藩主の徳川斉昭らが幕政に参加するようになりました。徳川斉昭なんかはわりと毒にもなるし薬にもなるし,といった存在で力はあるんだけども,力をあまり持たせてしまうのもよくないのではないか?という議論もなされたり,しかしやっぱり非常事態のときこそ能力のある人が権力を握るべきだということで,政治にどんどんと参加していくようになります。以上,ここまでが阿部正弘の時代です。

 

老中・堀田正睦の時代

この人も阿部さんと並ぶくらいの苦労人なのですが,その苦労の様子をみていきましょう。まずこの堀田さんの時代に,アメリカの初代領事・ハリスがやってきます。ハリスは,非常に手腕があり,わりと強引に交渉をもっていくような人で,堀田さんからすればわりと厄介な人だったようです。そして要求されたのが通商条約締結です。国と国とが付き合いましょうね,っていう挨拶みたいなものなのですが,次第に「商売やろうぜ!」といった感じになってきます。

 

その背景としては,アロー戦争でイギリスとフランスが清を破り,清の植民地化へ取り掛かるわけですね。ハリスはこういうわけですね,「日本さんよ。イギリスやフランスと付き合っていれば,いずれはこんなことになるよ。それより,今アメリカと関係を深めたほうがいいんじゃないの?」って言ってくるわけですね。そうすると幕府も考えるわけで,ハリスさんに通商条約を締結しようといわれれて,幕府としてももうこれはやむ無しかなって思うんですが,そこで堀田正睦アメリカと条約を結ぶことでいいかどうかを天皇に許可を求めに行こうと考えたわけです。天皇って政治的権力はないんじゃないの?って思うかも知れないのですが,もともと幕府っていうのは,リーダーが征夷大将軍に任じられた人が,外国の国を追っ払うために一時的に雇われた臨時政府みたいなものなんですよね。もしも,朝廷に歯向かう,あるいは外国から敵がやってきたときに打ち払うっていうのが,もともと征夷大将軍の権限であるとすれば,やっぱり建前上は天皇陛下の許可が必要なんじゃないの?っていうふうに堀田さんは考えたし,その外国の敵をやっつけるための幕府が外国の圧力に屈してしまうっていうのは建前上よくないんじゃないの?ってことで,そこで天皇にわざわざお伺いを建てた方がトラブルも防げると思ったのですね。でも,孝明天皇は大の外国嫌いでして,「絶対にダメだ!」と言われたのでした。ですので,幕府の人たちがアメリカと条約を結ぶのは仕方ない,結ぶしかないっていう一方で,天皇は絶対ダメ!とったように,堀田正睦は,幕府と朝廷の間に板挟みになって葛藤した状態です。とっても苦労した人物ですね。

 

大老井伊直弼の時代

そうこうしているうちに,大老井伊直弼の時代です。さぁ,井伊直弼はみなさんもご存知のように,1858年に日米修好通商条約の締結をします。これが,無勅許で(孝明天皇の許しなしで)強引に条約を結んでしまうわけなんですよね。ここで,その外国嫌いの孝明天皇がいるにも関わらず,その天皇をないがしろにして条約を結んだ,だから天皇を敬うっていう気持ちと外国を敬うっていう気持ちが一つに結びつくわけですね。井伊直弼は許せないってことで,尊皇攘夷の動きが高まってくるのがこの時代です。

日米通商条約

では,日米通商条約の内容をみていきます。

① 横浜(はじめは神奈川)・長崎・新潟・兵庫の開港

② 大坂・江戸の開市

居留地を開港場に儲ける

④ 日本に滞在するアメリカ国民の領事裁判権

⑤  関税は協定関税とする(関税自主権の欠如)

まずは横浜です。下田箱田に加えてアメリカに対しても新潟を開くし,兵庫も開港していくわけです。で,横浜っていうのははじめは神奈川という交通の要所だったのですが,それよりも横浜のほうが都合がいいだろうということで横浜に港が開かれることになります。そして,江戸大坂で商売をできるようにしましょうということで市を開きます。そして,開港場に居留地を設けました。アメリカの国民はその領事がさばく,たとえばアメリカ国民が日本で事件を犯したとしても,日本の法律ではなくアメリカの法律で裁かれるといった不平等な条約です。法律には解釈がつきものですが,これだとその法律の解釈がどうしてもアメリカ人に甘くなりますよね。なので,アメリカ人が日本にやってくると,そのアメリカ人には日本の法律がきかない,一人植民地状態が出来上がるのと同じ状態です。最後に,関税自主権の欠如です。関税というのは,よその国の安い商品をブロックし,国内産業を保護する,その一番の防波堤が関税なのですが,その関税を自分たちだけでは守れないということになっていきます。うまくこの協定を結べればいいのですが,相手は国際社会で百戦錬磨のアメリカですから,日本にとっては分が悪い,これも不平等な条約といえるでしょう。

安政の五カ国条約

井伊直弼は同様の条約を,オランダ・イギリス・フランス・ロシアと結んでいきました。

条約の批准

批准というのは,たとえば条約が日本で結ばれたとします。すると,締結した条約を相手国にも持っていてもう一度みてもらって再度締結をすることをいいます。この条約批准のために,新見正興という人が渡米します。これに同行したのが,咸臨丸の船長・勝海舟です。両者は,アメリカの姿を目の当たりにするのでした。