日本史オンライン講義録

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107 安政の大獄と公武合体

さて,前回はちょっとイレギュラーな回となってしまいましたが,ひとまずこれまで幕府の政権担当者ごとに話をすすめてきましたね。ペリーが来航したときのちょっと運の悪かった老中が①阿部正弘,そして幕府と朝廷との板挟みにあってしまった②堀田正睦,そして不平等条約を結んだのが③井伊直弼でしたね。そして,井伊直弼不平等条約を結んだおかげ,日本にとってもいろいろな変化が訪れます。開国の影響っていうのが結構あったんですよね。さぁ,では今回はというと,前々回後回しにしていた③井伊直弼の政治についてみていきたいと思います。

 

井伊直弼の時代

前々回,咸臨丸で勝海舟が新見正興と一緒にアメリカへ条約批准へ出向いたって話をしましたが,それに続く話だと思って下さい。で,状況としては日米修好通商条約と少し前後するのですが,将軍の跡継ぎを誰にするのかっていう問題が浮上してきます。将軍の跡継ぎっていったら将軍の子だろうって当然思うわけですが,13代将軍・徳川家定はというと,子どもがいなかったのですね。じゃぁ,次の将軍誰なんだい?っていうことで,対立が起きるわけです。ではその対立軸をみていきましょう。

 

将軍継嗣問題

まずは,一橋派といわれるグループです。この一橋派というのは,将軍候補に一橋慶喜を推します。慶喜っていう字面で気づいた人も多いのではないかと思いますが,のちに15代将軍になる人です。そして,この一橋慶喜を推した人物はというと,中心になったのが水戸藩徳川斉昭です。実は,息子が一橋慶喜にあたるわけですね。徳川斉昭の子,一橋家をついでいるということになりますね。また,松平慶永。この人は坂本龍馬のスポンサー的存在になるような人で,越前藩出身です。最後に島津斉彬ですね,薩摩藩です。とにかく日本全体が非常事態に陥っているときこそ能力のある人が連合して幕府を変えていかなければならないと考えるわ一派なわけです。

一方で,南紀派といわれるグループは,将軍候補として紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推します。この徳川慶福を推す中心人物といえば,何と行っても井伊直弼ですね。で,主張としては,いままでの幕府をかえずに,譜代大名で要職を独占し,幕府幕府運営を維持していこうするものです。一橋慶喜徳川慶福かという対立軸なのですが,この後の幕府をどのように運営するのかをテーマに対立していきます。今までの藩を変えるんだ!有能な人が幕府を運営していくんだ!とするのが一橋派であるのに対し,いやいや幕府は変えない。これまで通り譜代大名で要職を独占していくんだとするのが南紀派ということですね。さて,結果はどうなったのかというと,井伊直弼大老の立場を利用して強引に押し切って14代将軍を徳川慶福に決定し,将軍代替わりのタイミングで名前を徳川家茂と改名します。余談ではありますが,家茂はとても甘いものが大好きで,虫歯が20本くらいあったといわれています。虫歯ってなんか体調を壊しますよね。歯医者さんなんてのも当時はなかったので,虫歯がさまざまな病気を呼び,徳川家茂はわずか21歳で亡くなってしまいました。13歳で将軍に担がれ,21歳でなくなるといった徳川家茂なのでした。

 

安政の大獄

さぁ井伊直弼ですが,自分にさからった奴らをそのまま野放しにしておくわけにはいきませんよね。これが有名な事件,安政の大獄です。我々に逆らった,あるいは幕府を変えいようと画策した奴らにはきついお仕置きだ!っていうことで,1858年に大老井伊直弼による反対派の処罰が行われます。一橋慶喜徳川斉昭松平慶永の3人は隠居や近親が命じられるわけですね。この大名クラスでさせ隠居・謹慎ってなるわけなので,それよりももっと身分の低い人たちはもっともっとひどい目に合わされるわけですね。たとえば。松平慶永の下で暗躍した越前藩の橋本左内や,日本をかえようとした人たちを育てた吉田松陰は死罪を命じられてしまいます。

 

桜田門外の変

このように井伊直弼は反対派を処罰しまくっているわけですよね。そうすると,同士を殺されたり,あるいは徳川斉昭やそれらの大名の隠居や謹慎に家来ということで同じように職を奪われてしまって,浪人となってしまった人たちが井伊直弼に恨みを持つわけです。同士を殺され,主君は隠居・謹慎,おかげでオレたちは無職になっちまったぜって嘆く水戸浪士たちが,雪の降る江戸城桜田門井伊直弼を待ち構え,暗殺をしてしまう事件がおきました。これを桜田門外の変といいます。

 

安藤信正の時代

では,井伊直弼の死後,どうなったのかに迫りましょう。井伊直弼の後に政権を担当した人は,老中・安藤信正です。この安藤信正が主張したことは,幕府側からの公武合体の推進です。井伊直弼がわりと強引にいろいろなことを決めていきましたよね,たとえば外国と通商条約を結んだりしたわけですが,大の外国嫌いだった孝明天皇が,日本が外国と通商条約を結ぶなんてもってのほかだ!ということで井伊直弼を毛嫌いします。その井伊直弼孝明天皇の反対を押し切って強引に通商条約を結んだわけですので,孝明天皇からすれば井伊直弼に対してきっと腹をたてていたことでしょう。そこで,安藤信正井伊直弼が殺害されたその反省から,公武合体で将軍と天皇が仲良く手をとりあったら政権が安定するんじゃないの?ってことを考えるわけです。

 

和宮降嫁で公武合体

この公武合体,その見は,朝廷(公)と幕府(武)の融和で,混乱を乗りきろうします。そこで,世の中を安定させるために,孝明天皇の妹で和宮徳川家茂のもとへ嫁がせようとします。「異国と手を済むんだ幕府なんかに,自分の妹を嫁にやるなんてとんでもない!」というわけなのですが,これは朝廷側でも幕府側でもそれを求める声が多かったので,しぶしぶ妹を江戸に送らざるをえないことになります。可愛そうなのは,和宮はすでに有栖川熾仁(ありすがわたるひと)親王と結婚が決まっていたのですが,引っ剥がされて家茂に嫁ぐことになります。ただ将軍家茂も井伊直弼に担がれて将軍になった人物ですし,和宮も自分の意思とは関係なく嫁がされたっていうところがありましたので,似た境遇であった2人の間には共通する何かがあったのでしょうか,意外とこの2人の仲というのは睦まじかったようです。

 

坂下門外の変

ただ,この安藤信正は,坂下門外の変という事件で,尊皇攘夷派によって襲撃を受けて失脚してしまいます。尊王攘夷派っていうのは,外国人を排除したいっていう攘夷の考えと,ことさら孝明天皇は外国嫌いで,孝明天皇の意向を無視した幕府はけしからんとする尊王の考えが結びついたのが尊攘攘夷です。だから,天皇の意思を尊重しなさいよ,この尊王思想と攘夷思想が結びついて尊皇攘夷であると,このグループからすれば公武合体を推進する安藤信正はけしからんっていうことで襲撃を受けてしまいます。

 

今までの担当者からすれば,どこかチグハグですよね。阿部正弘のときにペリーがやってきて和親条約を結ばされる,そして堀田正睦は条約勅許が得られず失脚してします,井伊直弼は通商条約を結んだはいいものの,将軍の後継者問題に端を発する安政の大獄をやっちゃったから暗殺されてしまう,そして安藤信正公武合体を推進するもかえって襲撃される・・・といったようにどいつもこいつもうまく世の中を安定させることができません。こういった情勢の中で登場するのが薩摩長州という2つの雄藩がこの幕末で活躍をし始めます。