日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

110 戊辰戦争

今回は、幕末と明治維新の間に起こった戊辰戦争について迫ってみたいと思います。前回は、土佐藩によって「幕府を朝廷にお返ししてはどうか?」という勧めを慶喜に上申し、「大政奉還をしてもこれまで通り諸大名のリーダーとして最大の影響を持ち続けることができる」と判断し、慶喜大政奉還を行いましたね。ところが、薩摩や長州を始めとする藩は、大政奉還後、徳川家を無力化したいと思うわけですね。ここに、徳川家の思惑と薩長の思惑が絡んでくることになります。

 

坂本龍馬はこの争いを回避したいと思っていたのですが、すでにこのときには何者かによって暗殺されてしまったため、時代はついに恐れていた内戦へと突入することになります。

 

武力討幕の実行

薩長としては、慶喜を倒してしまいと思っているのですが、さすがに大義名分がなければ戦は起こせません。そこで、薩摩の働きかけによって出された討幕の密勅といって天皇の秘密命令を入手して、旧幕府勢力と戦えるようになりました。

 

王政復古の大号令

そして、もう一つは王政復古の大号令です。徳川家は大政奉還後も最大の勢力として力を持ち続けたい、新しい政府のリーダーはオレたち徳川家だと思っていたところに、王政復古の大号令というものがかまされるのでした。これからは徳川家ではなく、天皇が実際に政治を行う親政を宣言したのでした。

 

そして、これまでの将軍・摂政・関白などを廃止して新たに、三職を設置しました。

総裁有栖川宮熾仁親王

議定:皇族・公家・大名たち

参与 :公家・藩士

このように新しい政治のしくみを作りました。徳川家も最大勢力でいたい、オレ中心とした政治がこれからも続くだろうって思っていたところ、「いや、ちがう。新しい政治のしくみは三職でやるんだ。」と言われたもんだから、慶喜からすれば「えぇ!?オレじゃないの!?」という風にかなりのダメージを受けることになりました。

 

小御所会議

王政復古の大号令が出されたその夜、小御所会議が開かれました。徳川慶喜辞官納地を求めました。辞官というのは、天皇からいただいた官職を辞めなさい、そして朝廷の一員としてのポジションも降りなさいという意味ですね。そして、納地というのは、徳川家の領地を放棄しなさい、という意味です。薩摩や長州を始めとする薩長同盟側は、徳川家をも無力化したい、そのために討幕の密勅を得て、そして徳川家には政治的権力を一切持たせないよ、そして領地は放棄しろといわれるわけです。旗本八万騎といわれるように徳川家はその領地の中に何万もの武士を養っているわけですよ。これを放棄しろっていわれているわけですから、徳川家にとっては非常に打撃となるわけですね。

 

戊辰戦争

ここに、徳川家あるいは旧幕府の勢力が結集して薩長と戦っていくわけです。幕府にとっては、薩長をはじめとする新政府軍との戦争、これを戊辰戦争といいます。

 

まず京都で旧幕府軍と新政府軍,最初の衝突がおこりました。鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)です。そして、京都を追われた幕府は敗北を重ねながら東へ東へと転戦していくことになります。当然、将軍が住まっている江戸城にまで攻撃を加えようかというところまでいくのですが、この江戸城を攻めるとなると江戸の街が火の海になってしまう。そこで、新政府サイドからは西郷隆盛旧幕府軍サイドからは勝海舟との話し合いがもたれることになります。慶喜が「江戸城を明け渡さなければ戦争になる、戦争になれば江戸が火の海になってしまう、江戸が火の海になることは日本全体に大打撃となってしまうだろう」という論理から、結局は両者戦わずして誰も血を流すことなく江戸城が明け渡されることになったのです。これを江戸城無血開城(1868年4月)といいます。しかし、一部の旧幕臣有志たちで構成された彰義隊といわれるグループは抵抗して、東京・上野で新政府軍と戦うことにはなるのですが、大村益次郎の指揮のもと上野の山に追い詰めていって最終的にはアームストロング砲といわれる大砲を用いた新政府軍の攻撃に為す術もなく、彰義隊は壊滅してしまいます。

 さて一方で、徳川家に最後まで従っていたのが奥羽越列藩同盟(1868年)です。しかし、リーダー格であった会津藩の降伏によりもはや同盟は崩壊してしまいます。このとき、会津戦争(1868年8月)で,会津藩の少年たちで結成された白虎隊は、燃え盛る城下町を目にして、城が燃えていると認識をして、切腹をして死んでいくというドラマティックなエピソードでもあります。北海道の函館に上から見ると星型の形をした五稜郭というお城があるのですが、なぜ星型をしているかというと、星の先端に大砲が据え付けられてあって、この大砲がぐるっと旋回するので、死角なくターゲットを合わせることができる画期的な大砲でした。そんな次世代の考え方をもったお城、これが五稜郭なのですが、その五稜郭に最後まで立てこもったのが榎本武揚という旧幕臣です。北海道を独立させてでも最後まで抵抗しようとした榎本武揚五稜郭の戦い(1869年5月)で破れたことによって、約1年におよぶ戊辰戦争が集結するのでした。

 

今回は以上です。