日本史オンライン講義録

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113 地租改正

今回は明治維新のさまざまな改革の中でも、中学校で習った地租改正についてです。明治ができて藩を消しました。そして、前回は軍隊の制度、そして身分制度についてみていきました。

中央集権体制づくり

廃藩置県(1871)

四民平等【士農工商

壬申戸籍(1872)

徴兵令(1873)【国民皆兵】 →秩禄処分【出費削減】

かたむいた会社を立て直すには2つの方法があって,一つは出費削減,もう一つは収入増加です。明治政府は収入増加のために,税収を安定させようとします。今回はそんな経済政策について紹介をしていきます。

 

地租改正

さきにポイントを提示しておきましょう。

  • 江戸時代の年貢(米で納める)を改めて、お金で納めるようにする。
  • 基準を収穫高ではなく、地価で決める。
  • 対象は土地所有者とした。

このように、税制改革を行いました。これを実行するための準備がいくつかあるのでみていきましょう。

 

まず,今まで江戸時代で禁止していたことを緩和していきます。たとえば,田畑勝手作の許可(1871)を行い,農民に対して米以外のものも作ってよしとしました。例えば、綿とかゴマとか桑とかいった商品作物です。お金になるのであればやりなよって感じですね。そして,地租改正の大前提となったのが,田畑永代売買解禁(1872年)です。土地の値段をつけるということは、田畑をその基準の値段によって売買してもよしとしたのでした。これはやはり,士農工商がなくなりましたから,土地を持つ・持たない,売る・買うは自由にしようとなったわけです。今まで農民イコール土地っていう概念がありましたが,その既成概念を取っ払ったってことですね。いままで曖昧だった土地について、ここはあなたの土地ですよ、そこはあなたの土地ですよというように、改めて土地の所有権を確認するために地券を発行しましたのですね。近代に入って最初に発行されたこの地券のことを壬申地券(1872年)といいます。ちなみにテストでは,田畑永代売買が禁止されたのはいつか聞いてきますので注意しておいてください。田畑永代売買の禁は1643年,3代将軍・家光のときですので,229年ぶりに解禁されたということになりますね。

 

地租改正条例

さて、準備完了しましたので、いよいよ地租改正条例(1873年を公布します。江戸時代は石高といって、その土地から何石の米が取れるかで税を決めていたのですが、それを土地の値段に改めました。これによって曖昧さがなくなるわけですね。ここの土地が例えば100円だったら、納める税は3円といったようにバチっと決められて行くのでした。ということで課税税率は土地の値段の3%です。また、徴税方法ですが、これまで物納(米納)でしたが、地租改正ではその米を一旦売ってお金に変えた上で金納としたのでした。そして、納税者については、地券を持っている人つまり土地所有者が納税者とされました。地券には地価と税額が書かれていますので、政府の発行した地券の額面がそのまま政府の税収になるということになります。だから政府としても、いくら税が取れるかという計算があらかじめ見込めるわけです。

 

さて、今まで幕府は、四公六民とか五公五民といったように取高の40%〜50%が徴収されていたのですから、地租改正されて地価の3%になったんだから当然みんな喜びます…か?喜びませんか?単純に数字の部分だけみると40〜50%から3%になったので見かけ上は負担が軽減されたとも思えるのですが、これには数字のマジックというか数字のトリックが仕掛けられているのです。「随分安くなっただろ?」と明治政府はいうのですが、例えば江戸時代に600万円分の米が取れる田んぼがあったとします。そうすると、300万円分を税として納めなければなりませんでした。これはすごい重い税ですよね。それが明治になると3%になった、しかし何の3%かというと地価の3%です。そこで、「むむ?オレの土地って、一体地価はいくらなんだろ?」と気になりますよね。地価の決められ方というのは、政府がその土地の面積であったり、米の取高であったり、収穫代金であったりを独自の計算式に当てはめて算出するのですが、それによると「あんたの持っているこの土地は1億円だ」と算定されました。そうすると、1億円の3%はというと300万円になりますよね。では、この300万円はどこから捻出すればいいのでしょうか?「はい、その300万円はあんたのこの土地から年間600万円分の米が取れるでしょ?それを売りさばいてお金に変えたうちの300万円を納めてください」といわれるのでした。あれ?なんだか、江戸時代とあまり変わってないことに気づきませんか?江戸時代は収穫高の半分を税としてもっていかれましたが、明治時代になっても、だいたいその土地からは江戸時代と同じくらいの税が徴収できるように逆算して地価が決められていたってことなのです。地価の3%を計算したら、収穫高の半分くらいになるように設定されていたってことです。しかも、ガチッと土地の3%を毎年払いなさいって言われているわけだから、不作の年も豊作の年も同じように毎年3%払わなければなりませんでした。納税者からするとなかなか厳しいものでした。このような近代的な税制が確立されたのです。地主や自作農の土地所有権の確立ということですね。

 

ただし,問題もありました。地主と小作人の間で受け渡しされる小作料については依然として物納だったので,農村部ではまだまだ封建的でした。さらに,山林原野などにある自給肥料の供給地であった入会地は官有地,つまり国のものになってしまいました。すると農民たちは肥料を市場などに買いに行かないといけませんでした。これが大きな農家の負担となっていたのです。

 

地租改正反対一揆

しかし、この3%というのがなかなか厳しいもんだから、のちに地租改正反対一揆がおきます。とくにひどかったのが茨城の真壁騒動(1876年)や三重の伊勢暴動(1876年)が猛威をふるいました。農民が地租改正反対!3%は高すぎる!っていうことで、それから4年後に政府は譲歩して,3%から2.5%へと引き下げるのでした(1877年)。農民からすれば、「ええ!?っていうか、それなら最初から2.5%にしとけや」っていう感じですよね。なので、この地価の3%っていうのがいかにどんぶり勘定で、ちょっと高めに取っとけっていうのが見え見えですね。このことを「竹槍でどんと突き出す二分五厘」なんて表現をされるので押さえておきましょう。

 

今回は以上です。