114 殖産興業
今まで、例えば地租改正であるだとか、軍隊の制度を整えるだとか、身分制度を整えるだとか、どんどんと近代化を図ってきたわけですが、今回もその近代化を図る一環として、明治新政府は「富国強兵」、つまり国を富ませて戦争に国にするには産業を増やし起こして行く必要があると考えたのでした。これを殖産興業といいますが、今回はそのお話をしていきたいと思います。まずは先立つものといえばお金ですね。
貨幣制度
ということで,ここでは貨幣制度についても紹介しておきます。明治維新後すぐに太政官制がとられていたので、1868年から翌年にかけて明治政府が最初に発行した紙幣で,金札ともいわれた太政官札や民部省札というお札が刷られていたのです。当時,新政府は戊辰戦争を終えたばかりで戦費もかさみ財政難でした。そこで政権を握ったのだから,足らずはお金を発行して補おうと考えたのです。ただし,これらは不換紙幣といって金や銀などの価値あるものと交換することができないものでした。例えば、あなたが千円と書いた紙をコンビニに持っていて、この千円でおにぎり3つくださいっていったところで、相手にされませんよね。ただ、銀行がその千円と書かれた紙をうちの銀行にもってきてくれれば、いつでも金1gと交換してあげますよってなったら、単に紙きれに書かれた千円でも、千円としての価値を認めましょうというのと同じことになるのです。
この太政官札や民部省札は不換紙幣ですので、お金の信用がいまいち無い,いい加減なお金ということで、渋沢栄一という人が中心となって貨幣制度が整えられて行くことになります。まずは新貨条例(1871年)によって、これまで両・分・朱という4進法のお金の単位だったものを、円・銭・厘へと10進法のお金の単位へと統一されます。これは金本位制がたてまえでありましたが,実際は貿易では銀づかいが主流だったこともあり,金銀複本位制となりました。
つづいて,貨幣の単位を統一した次には銀行を作ろう!ってことで国立銀行が設立されました。銀行というのは何かというと,この時代はいわゆる殖産興業の時代でしたので,「企業をつくれ!」「工場を作れ!」ということになるのですが,ただし工場を作るにはお金が必要なので,企業(民業)にお金を貸したのが銀行だったわけですね。要するに民間企業にお金を投資するのが銀行だったのですね。その銀行を作りましょうってことで,銀行をつくるにはいろいろとマニュアルが必要でしたので,そのマニュアルが国立銀行条例(1872年)だったのです。作ったのは実業界の父ともいわれた渋沢栄一でして,アメリカのナショナル・バンクという銀行をお手本にしてつくられたのです。ちなみに,ここでいう国立というのは国公立大学なんかとは違って、国法に基づいて設立された銀行のことですので,あくまで民営銀行なんですね。それで,さきほどのマニュアルには,正貨兌換義務にもどづいて兌換銀行券を発行するということが示されていました。で,第一国立銀行をはじめ民営銀行が4行設立されました。4行です,4行!ていうか,4行しか設立されなかったんですね…。なぜか?というと,正貨兌換が義務付けられていたからなんですね。要するに,金を保有していなければお金は発行しちゃダメ!っていうルールが国立銀行条例にありました。そこで渋沢栄一は,国立銀行条例の改正(1876年)を行いまして,正貨兌換を義務づけないようにしましたので,最終的に153行が設立されました。この条例では,不換銀行券を発行してもいいよ!ってことだったので,じゃあ私も!うちも!僕も!っことで153行まで上ったのでした。ただ,好きずきにお金をジャブジャブと発行してしまったために,インフレが惹起されてしまったのでした。インフレっていうのは,物価高になるってことなんですが,貨幣価値とモノの価値っていうのはシーソーみたいなもので,モノの価値が高くなるってことは貨幣の価値が低くなるんですよね。そもそも貨幣の価値が低くなる時ってどういうときかっていうと,貨幣が世の中にありあまりすぎてレア感がない状態です。今回は,お金がジャブジャブ発行されて,世の中にありあまりすぎたために貨幣の価値が下がり,それと連動してモノの価値が高くなってしまったのでした。これをインフレーションといいます。
さて,国立銀行条例が改正された1876年って何がありましたか?1876年,武士からすると若干つらい制度が執り行われましたね。そう!廃刀令でしたね。それともう一つ!そうそう!秩禄処分というのがありましたね。あの秩禄処分の際に支給されたものがありましたね?そうそうそう!金禄公債でしたね。退職金もらえる証明書でした。大名は現在でいうところの数億という退職金を手にしたのでした。すると,元大名は,その退職金を元手に何をはじめたかというと,お金を貸し出すようになったのです。つまり,元大名は国立銀行を設立したのです。というわけで,多額の金禄公債があるので,信用があるわけです。その信用によって銀行業で生計を立てていったのですね。
近代産業の育成
貨幣制度をととのえて,国立銀行をつくり,「富国強兵」をめざすためには殖産興業だ!ってことで,まずは中心となって行う旗振り役が必要なのですが、重工業部門において中心的な役割を担ったのが工部省(1870年)という省庁でした。初代工部卿には伊藤博文が就任します。この工部省のもと、いろんな事業が整理されたり、今まで幕府や藩がやっていた工場や鉱山などを買い取って管轄をし、富国強兵に役立てることをするわけですね。一方で,軽工業部門をになったのが,内務省(1873)でして,初代内務卿には大久保利通が就任しています。大久保利通は岩倉使節団から帰ってきて,内地優先だということで征韓論を抑え込み,幼馴染みでもあった西郷隆盛を下野に追いこんで,最終的には大久保は明治政権の中核を担う独裁者っぽく振る舞っていくのですが,内務省は軽工業部門であるとともに地方行政や警察行政も管轄するといったように,内政全般を統括するようになっていきます。ここを牙城に大久保は独裁政権を担っていくことになるのです。そういう中で,内務省が中心となって内国勧業博覧会(1877年)が東京の上野公園で開催されます。1877年というと「西郷をやっつけろ!」といいながら西南戦争で戦っていたときですよね。その裏では,万国博覧会の国内バージョンを実施して,発明品などをお互いに見せ合いっこして,お互いに刺激を受けあって,殖産興業を盛り上げていこう!といった趣旨で開催されました。とくに,ここでは水力で動かして綿糸を紡ぎ出すガラ紡という機械を発明した臥雲辰致が入選したことはテストでもよくでますので抑えておきましょう。
官営事業
このように国が中心となって行う事業のことを官営事業といったりますが、実は旧幕府や諸藩の産業施設を接収して,再統合して国有化していきます。たとえば、幕府時代に重要な収入源となっていた佐渡鉱山や生野銀山、あるいは高島炭鉱や三池炭鉱も国有化されていきました。また、東京砲兵工廠・大阪砲兵工廠や,長崎造船所・横須賀造船所なども工部省の手によって新設されていきます。ところで,大阪砲兵工廠っていうのは意外なところにあったのです。どこかというと,大阪城なんです。いまは大阪城公園なのですが,公園一帯はかつては大阪砲兵工廠だったんですね。
大阪城の変遷
【石山本願寺】
【大坂城】
⬇ 豊臣秀吉
大阪砲兵工廠・・・空襲で焼失
官営模範工場の設立
産業の発達を進めて行くために、明治政府はまずは模範となるような工場を立てていくわけですが、有名なのが群馬県の富岡製糸場(1872年)です。ここではフランスの技術が導入されるのですが、蚕から生糸を作るのが製糸業です。生糸といえば幕末以降,外貨獲得No.1産業でした。輸出No.1産業でした。綿から綿糸を作り出すことを紡績というのですが、製糸というのは生糸を作る工場を群馬県につくるわけです。このときフランスからお雇い外国人ブリューナも来日しています。現在、この富岡製糸場は世界遺産となっています。私がかつていった時には寂れて観光地にはなっていなかったのですが、今では観光地されていますね。ちなみに,ここでかつて働いていた女工さんですが,士族の子女が集められたんです。当時最新鋭の製糸工場で糸を手作業でくみ取る女工さんが,いつしか先生となり地方の製糸工場へ指導に赴くといった歴史があります。
農業牧畜の技術工場
さらに、農業技術の工場が図られます。有名なのがあの東大農学部の源流となった駒場農学校や、畜産技術を研究するために三田育種場が設立されました。また、北海道が開発されていきます。北海道という名で登場するのはこれが初となるのですが、それまでは蝦夷地としていた地を改称し、北海道とされたのです。これまで未開の土地であった北海道に開拓使がおかれ、開拓されていくのでした。
まず、屯田兵制度(1874年)を紹介しましょう。兵隊を北海道に向けて、日頃は農地を開拓させ、そして何かが起こった時、たとえばロシアが攻め込んできたときにはこの屯田兵が兵士として戦うような制度のことを屯田兵制度といいます。たしか四民平等のところでも、特権が奪われた士族の働き口を作ってあげるために士族授産の意味合いから屯田兵として派遣されたという話を紹介しましたね。そして、有名なのが札幌農学校(1876年)が開校されます。今の北海道大学の前身ですね。そして、アメリカ人のクラークをまねき、その技術を伝えてもらいました。たった教鞭をとったのは半年間だけだったのですが、クラークが帰国するときに「Boys be ambitious!(少年よ大志を抱け)」といった非常に有名な言葉を残していますね。ちなみに,クラークはキリスト教信者だったのですが,この札幌でキリスト教団体をつくり,その団体の中には内村鑑三がいました。内村鑑三は,キリスト教人道主義的立場から日露戦争に反対したり,教育勅語という天皇制の勅語に拝礼しなかったために処罰されたりさまざまな物議を醸しだした人もいました。
政商
後々、これは弊害がでてくるのですが、明治政府は、バリバリと儲けてほしい特定の商人に特権を与えるのですが、その政府から特権を与えられた民間の事業家のことを政商といいます。政商はのちに、政府と結びついて賄賂を送ったり、金や権力にまみれて行くのですが、例えば三菱や三井などが政商に当たります。
交通・運輸
工場が整備されたとなると、次に交通を発達させていかなければなりません。まず鉄道ですが、初めて敷かれたのは新橋〜横浜間ですね。横浜といえば国内の貿易港として第1位ですからね。センターとかでは、新橋の箇所を品川とかに変えて正誤判定させる問題がありますので正確に覚えておきましょう。
通信
モールス信号とかってあまり身近ではありませんが、トン・ツー・トン・トン・ツーといった長い電気信号と短い電気信号を組み合わせて使うことで、文字がわりに通信することができるようになりました。いわゆる暗号みたいなもので通信をするのですが、そうすると電線を敷けばどんなに遠いところでも一瞬にして信号を送ることができるわけですよね。この電信線が東京から横浜間にまず敷かれて、2年も経つと長崎から上海にまで何と海を越えて中国大陸で起きたことも一瞬に伝わってくるようになったのでした。
郵便
つぎに郵便制度です。郵便制度を唱えた前島密(ひそか)という人物によって開始されました。郵便制度を考え出した最初の人っていうことで、切手の、それも1円切手の肖像画にも採用されている人です。
海運業
海運を始めたひとは、土佐の岩崎弥太郎という人物です。幕末の激動期を生き抜いた人物で、今の三菱という会社を設立した祖でもあります。
殖産興業の推進
さて、工場をつくり交通・運輸が整備されました。ますます近代化を進めようと、殖産興業は推進されます。
今回は以上です。