日本史オンライン講義録

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116 明治初期の外交

前回までは,明治維新ということをお話しました。強い国を作ろう!そのためには富国強兵,殖産興業だ!ということでしたね。それと並行して,中央集権国家を作っていた明治政府が,対外戦争で清を打ち破るまでの経緯についてみていくわけですが,その皮切りとして明治初期の外交状況について少し紹介をします。

 

明治維新でいろいろと国の仕組みを近代化していきましたね。たとえば藩をなくして県を置こうだとか,徴兵制にしてみようとか,税のとり方はこう変えていこうなど。しかし,明治政府と日本国民の共通した気がかりが一つ残っていました。これをクリアしないと不安で不安でたまらない気がかりなことです。それは何かというと,不平等条約の改正です。この不平等条約を改正しない限りは,いつか日本が植民地化されるかもしれない,そういう心配もあるわけですね。おちおち安心して国造りもできません。なのでなんとしてもこの不平等条約を改正しなければならないっていう悲願が日本にあったわけです。そこで,早速岩倉使節団が結成され,欧米に派遣されることになります。

 

岩倉使節団の派遣(1871〜73年)

代表の大使は,岩倉具視ですね。そして,副使に大久保利通木戸孝允伊藤博文ら使者だけでも50名規模,そこに留学生らも含めると総勢100人以上の大使節団でありました。そして,大久保・木戸・伊藤といえばこのあ

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たりはエース級の政治家ですね。条約改正というのが悲願なわけですので,エース級を派遣してなんとか条約改正交渉に着手しようとしました。この使節団には使者のほかに留学生らもたくさん参加したのですが,その中でも女子留学生として5人派遣されています。まだまだ幼さの残る津田梅子や,山川捨松らなどが有名です。津田梅子に関して言えば,10歳で渡米をして19歳で帰国をし,近代日本に欠かせないものは語学力だということで女子英学塾を設立した人でもあります。今の津田塾大学の前身ですね。

 

この人たちがでかけてしまうと,国に残って留守を預かる政治家も必要ですよね。それが,西郷隆盛板垣退助らが留守政府として残された改革をどんどんと進めていきます。とはいえ,どちらかというとエースはやはり使節団のメンバーですね。大久保・木戸・伊藤は,やはり政治力があり語学力もあるので使節団として最適な人材です。たしかに西郷や板垣も1軍ではあるのですが,先発ローテーションでいえば4番手,5番手といったところでしょうか。使節団メンバーに比べるとちょっと政治力も外交力も落ちると言った感じです。この岩倉使節団と留守政府の間で仲違いが起きるのですが,それはのちほど扱いたいと思います。

 

さて,この岩倉使節団1871年からスタートするのですが,実は条約改正の予備交渉が1872年からOKとなったので,その下準備として「これから条約改正交渉をしてください」といったのですが,外交儀礼,外交ルールもよく分かっていなかったことから,天皇の親書を持っていくのを忘れたりなど,なかなか外国も相手にしてくれませんでした。それもそのはず,不平等条約で不利な側が有利な側に「すいませ〜ん,過去の条約を取り消しにしましょう!」っていったところで,有利な側が「はぁ?何いってんの?そんなのダメに決まってんじゃん」って一蹴されるのが関の山ですよね。だから,日本にまだまだ実力もないのにさっきのチャラにしてくださいよっていったところで,それは相手にしてもらえません。予備交渉には失敗をし,交渉のテーブルにもつくことはできませんでした。かといって何もしないまま帰国するのはもったいないということで,欧米諸国の政治や産業の視察を行うことに目的を変更したのでした。そうすると,「やっぱり欧米は文化的にも最先端だなぁ,日本も内政の充実や近代化によりまずは実力をしっかりと付けないと,外国には相手にしてもらえないんだな」ということを知ったのです。具体的には,憲法をもった法律で定められた国づくりをしていかないと,憲法も持ってないのか?と欧米では相手にされませんもんね。

 

留守政府の動き(1871年11月〜1873年5月)

さて,このように岩倉使節団が今,欧米に旅立っている中で,留守をまかされたのがいわゆる留守政府でして,かわりに政治やアジアの外交を担当することになります。ここからは,主に留守政府の外交の様子をみていきたいと思います。

清国との関係

留守政府は,まず清国と条約を結び国交を結びます。あれ?江戸時代から清とは交易があったんじゃないの?って思った人もいることでしょう。しかし,江戸時代はあくまでも商人どうしの交易であって,国と国とのオフィシャルな国交はありませんでした。そこで,日本の伊達宗城が,清国の李鴻章との間で日清修好条規1871年を締結します。これは,相互に領事裁判権治外法権を認めた対等な条約といえます。そして,清と国交を開いてみるとこういうことが次に問題になってきました。それはなにかというと,東アジアには中国があり,日本があるわけですが,そうするとちょっと領有があいまいな2つのエリアがあるわけです。それが1つが琉球です。この琉球はどっちかというと日本との関係が深く,とくに薩摩藩の島津によって支配されていました。しかし,琉球の王様は清国の皇帝にも服属していて,琉球は両属のような形をとっていました。そして,もう1つが台湾です。台湾もどちらかというと清国の一部としての見方が強かったのですが,日本はできたら自分たちのものにしたいと思っていたのでした。そこで,留守政府は,台湾や琉球あたりの国境をバシッと画定させようと思っていたのでした。

 

琉球との関係

それではまず琉球との関係をみていくことにしましょう。琉球の王様というのは,江戸幕府の将軍にも,清国の皇帝にも,使節を送って「貴方様の家来ですよ」っていうふうに振る舞っていたので,見た目は清と日本の両属となっていました。しかし,実際はじゃあ誰が支配していたのかというと,それは薩摩藩の影響が一番強かったとされています。そこで,留守政府は,遅ればせながら琉球王国琉球藩という形で名付けることにしました。そして,この琉球藩のリーダーには,琉球王国の国王であった尚泰(しょうたい)藩王としました。まぁ,この藩王っていうのも唐突すぎてちょっと訳がわからん職名ではあるのですが…。こういうふうに藩と名付けておいて,次の仕掛けはその藩を廃止し,強制的に沖縄県を設置しました。このような軍事的威圧のことを琉球処分といいます。まぁ,この尚泰さんも琉球という一国のあるじなわけで,なんとかこれまで切り盛りしていった功労者であるので,いきなり「日本の一部だよ!」っていわれると非常に抵抗もあったと思うのですが,そこで脅しをかける,圧力をかけることによって琉球藩を廃止し,沖縄県を置くといった廃藩置県をおくればせながら行ったのでした。

 

それでは,じゃあ琉球藩を設置し,廃止した上で沖縄県としたよ,この琉球は日本のものだよ!って主張したところで,清国は当然のことながら領有を主張してくることは目に見えていますよね。そのあたりを上手くやってのけたのが,次に紹介する台湾との関係です。

 

台湾との関係

このような状況のところに,おりしも台湾の人が琉球漂流民を殺害するという事件がおこりました。まぁ,琉球の人が嵐にあったか転覆したのか定かではありませんが,なにしろ沖縄から流されてきた琉球民を,台湾人が殺害するという琉球漂流民殺害事件(1871年がおこりました。この事件を受けて,留守政府はどのような対応をとったのでしょうか。それは,「台湾っていうのはもともとあんたら清国のものなんだろ?あんたら清国に服属している台湾の人たちに,おれたち日本の国である琉球の漂流民が殺されたんだよ。だから,責任をとって賠償金を払えよ」とふっかけます。すると清国はこういうわけですね。「そんなこと知らない。清国としては賠償金は払わない!」と言います。それに対して留守政府はここぞとばかりに「あ!そうなの?じゃあ台湾はあんたらの国にものじゃないってことだよね。じゃあ,台湾はオレたち日本の国ってことにしていいんだね?」ってネチネチといいながら,留守政府の西郷従道を中心として台湾出兵(1874年)を行います。1873年には何が出されましたか?そう!徴兵令が出ましたよね。つまり,台湾出兵の備えが前年から着々と進められていたってことです。そして,台湾に兵をだすわけですが,清国としてもここで大きな戦争にはしたくないので,あわてて「わかった!わかった!賠償金は払うから!」っていう言葉を思わず放ってしまいます。そしたら留守政府はすかさずこういうわけです,「いいんだね?賠償金を払うってことは,琉球民はあんたら清国の国民ではなく,日本の国民ということを認めることになるけど,それでいいんだね?だって,殺害された琉球民があんたら清の国民だったら別に賠償金はそもそも払わなくてもいいわけじゃないか。そこをあえて賠償金払うってことは,もうあんたらは琉球民を日本国民だって認めているようなもんだよ」ってまたネチネチと言い放ったのでした。結局,清からは賠償金をゲットし,この琉球漂流民殺害事件で,台湾の問題と琉球の問題を同時に一挙に解決したということになりますね。外交手腕が岩倉使節団よりも劣るとはいえ,ここらへんはなかなか外交的にもうまく立ち回れた留守政府といえるでしょう。

 

朝鮮との関係

さぁ,日本は朝鮮に使節を派遣して,「はじめまして!私達,明治政府です。今後お付き合いをはじめましょう」ってことで接触をこころみるのですが,朝鮮はとりあえず無視を決め込みます。まぁ,朝鮮は清の属国のような形でしたので,「親分の清にお伺いをたてない限りは我々も交渉のテーブルにはつきませんよ」というふうに初めは無視していました。明治政府は「なんですか?お付き合いをしようっていっているのにシカトするんですか?!」といって,国交樹立の交渉に応じない朝鮮相手に討ち取ろうという考えがおこります。この考えのことを征韓論っていいます。で,この征韓論を主張したのは,留守を預かっていた西郷隆盛板垣退助らです。そこに,なんとあの岩倉使節団が日本へ帰ってきました。(厳密にいうと,琉球処分とか台湾問題は岩倉使節団の帰国後に起こるのですが,ここでは流れを掴むことを重視して少し順番を入れ替えて説明をしています。)条約改正予備交渉には失敗したものの,欧米のいろんなものを見聞きして帰国した岩倉使節団が「ただいま〜!元気にしてた?ところで留守の間,どうだった?」って留守政府にきくわけですね。すると,西郷隆盛板垣退助がものすごい剣幕で鼻息を荒くして「どうだったじゃないっすよぉ!もう朝鮮半島に攻め込みましょうや!」っていうわけですね。岩倉使節団としては「いやいやいや,ちょっと待って待って待って!まずは理由をきかせてくれ」と返します。はい,ここで征韓論が起こるのです。

 

征韓論

明治維新が終わってすぐで,まだまだ国内が落ち着いてもいないのに,そんな早まったことをするなや,西郷さん!」と岩倉使節団はいいます。そして,留守を任されていた西郷や板垣は「オレたちもいろいろあって,別に戦争したいわけじゃないんだけど,でも朝鮮に攻め込むことが今は必要だと考えているんだ」と必死に訴えるわけですね。こうして,岩倉使節団と留守政府の間でとっくみあいにならんばかりに大論争が起きたのでした。まぁ,朝鮮半島に兵を出そうする征韓論は潰されるのですが,西郷や板垣らは「オレたちも必死で頑張ってきたのに,わかってくれないんなら,それじゃあオレたちはもうここらで政府を辞めさせてもらいますわ」といいながら,征韓派は政府を下野しました。この一連の出来事のことを明治六年の政変(1873年といいます。

 

ただ,岩倉使節団も「まぁ確かに朝鮮が国交樹立に応じないことは褒められたものではないよな」とし,「それなら別に攻め込まなくても脅して利益を得ていけばいいじゃないか」ということである作戦をたてました。それは何かというと,ソウルの近辺まで測量調査という名目で船(雲揚号)で乗り付けていって,ある意味挑発をして,朝鮮から手を出させるような小競り合いを起こさせて,『日本はそのつもりはないのにあんたらがケンカをふっかけてきたんだろ?』っていうようにもっていった江華島事件(1875年)が勃発しました。そして,あたかもペリーが日本に開国させたかように,日本は朝鮮を開国させ,日朝修好条規(1875年)という不平等条約を結ばせます。

 

朝鮮がシカトしたので,征韓論がおこり,このタイミングで岩倉使節団が帰国をし,征韓論争がおきますが,征韓論を潰された征韓派は政府を降り,次の世の中の引き金となっていきます。これを明治六年の政変(1873年といいます。こちらから攻め取らなくても,挑発をして小競り合いを向こうの方から起こさせて,最後に利益を引き出せばいいじゃないかとする岩倉使節団の頭脳プレーが炸裂した出来事でもありました。

 

ロシアとの関係

千島や樺太っていうのは,日本人やロシア人が混在して,権利も日本とロシアでごちゃまぜ状態だったので,ここらで千島・樺太交換条約(1875年)を結んで,国境をシンプルに画定することになりました。これまで両国雑居であった樺太の権利は,すべてロシアのものとし,千島列島については日本のものとしたのでした。

 

小笠原諸島の領有

さらに日本列島の南をみると,これまで誰のものでもなかったのですが,小笠原諸島を「これをきっかけに日本のものとしてもいいですか?」って言った所,とくにアメリカからもイギリスからも反論がなかったので,小笠原諸島も日本の領有となったのでした。このように,国境線を次々と画定していったのでした

 

今回は以上です。