日本史オンライン講義録

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120 民権運動の激化

前々回,前回では自由民権運動がはじまり,松方財政というお話をしました。今回は,その流れを頭に残したまま民権運動の激化についてみていきたいと思います。前々回のお話で,明治十四年の政変の結果,国会開設の勅諭というものが出されました。汚職事件によって政府が世間から攻撃を浴びせられ,ついに政府は折れて10年後に国会を開設するという約束をしましたね。勅諭というのは天皇のお言葉っていう意味ですから,天皇直々に国会を作るよってことを宣言したわけですね。だから,人々にとってはあと10年待てば国会ができ,自分たちの意見が国に伝えられるわけですね。まぁ,10年待てばいいのですが,そこらへんが待ちきれない。なぜかというと,我々の生活は苦しいし不満がある,だからその思いを爆発させていくというのが民権運動の激化の背景です。

 

民権運動の激化の要因

生活苦そして不満が重なり,10年も待ちきれない!そうした思いが民権運動を激化させるということで,じゃあ具体的にみていくことにしましょう。

①松方財政

お金の信用を高めるために,いい加減なお金を一旦回収して,信用の高いお金をチビチビと発行するということを松方財政では行いましたね。しかし,農村の困窮を招きました。なぜなら,お金で税を払うのに松方財政っていうのは要するにお金の流通量を絞ったわけです。農村はお金が手に入りにくくなり,でも地租はそのまま2.5%だったために苦しい思いを強いられました。これが政府攻撃へとつながっていきます。そこで,集会条例が改正され,政府は政党の地方支部を禁止してしまいます。東京に置かれた本部は対象ではなく,地方支部をシャットアウト,つまり地方の農村の不満は聞かないよっていう意味ですよね。民権運動の激化の要因の1つが松方財政,税をお金で払わなければならないのに政府がお金の流通量をしぼったがために農民が苦しい思いをし,結果的に貧農層による民権運動が激しくなっていったのでした。

 

自由党立憲改進党の対立

さて,国会開設の勅諭がでた時に政党を作ってもよろしいってなったので,自由党立憲改進党などの政党が成立しましたが,この内,板垣退助が政府から留学資金をもらっっていたことが発覚しました。板垣退助自由党の党首であるわけですが,対する立憲改進党大隈重信は当然批判をするわけですね。そうすると,この争いは泥仕合の様相を呈していきます。今度は板垣が,大隈重信と三菱の癒着関係をあばいて,「賄賂みたいなものを受けているんじゃないのか?献金をうけてるんじゃないのか?黒い関係があるんじゃないのか?」と大隈重信を批判していきます。このように,板垣退助はこっそり政府に丸め込まれようとされていることがわかったし,大隈重信は三菱と癒着して黒い関係にあるという噂が立つし,もうその政党に所属している人たちからすると,党首たちのネチネチとした泥仕合をみせられるわけですよね。当然「オレたちの党首は一体何をやってんだよ」「オレたちを差し置いて党首だけ政府からお金をもらっているなんてズルいぞ!」って感じになりますよね。政党のメンバーとしては「オレたちは自分たちの主張をしたいのに,党首たちはくだらない泥試合をしている。そんな党首達を横目に,オレたちはオレたちの正しいとおもう活動をこれからもしていくんだ!」ということで民権派による民権運動が激化へとつながっていきます。

 

激化事件

このように土地を失った貧農層と情けない党首を持ってしまうことになった民権派(とくに自由党の急進派)がタッグを組んで民権運動の激化事件といわれる事件に発展していきます。代表的な事件を3つ挙げてみましょう。

ふく きた カバさん 鼻血ブー

↓       ↓     ↓

福島    加波山   秩父

 事件(82)    事件(84.9)  事件(84.10)

 
福島事件(1882年)

中央から派遣されたお役人である県令の三島通庸(みちつね)という薩摩出身の人がいたのですが,松方財政で困窮している福島県民に対して道路工事を強制したんですよ。それに憤った自由党員であり県会議長でもあった河野広中が貧農らとタッグを組んで「ちょっと待ってくださいよ!彼らの意見も聞いてあげてくださいよ!」と暴動を起こすのですが,結局のところ弾圧されるといった事件が起こりました。

 

加波山事件(1884年9月)

はい,ここで再び登場するのが三島通庸です。三島通庸は実は福島県令とともに栃木県令も兼任していました。そんな栃木県と茨城県の県境付近にある加波山という山で,なんと自由党員がダイナマイトを抱えて立てこもり三島通庸らをやっつけてしまえ,といったこれもまた過激事件が起きました。結局のところ失敗するのですが…。それにしても三島通庸自由党の敵みたいな役人なんですね。さぁ,そんな事件のすぐあとに,自由党は制御がもう不能だということで,一旦解党してしまいます(自由党解党)。同時に大隈重信立憲改進党を離党するなんていう少しギクシャクした時期がちょうどこのころです。

 

秩父事件(1884年11月)

埼玉県秩父というところがあるのですが,起きた事件が秩父事件です。秩父困民党といって埼玉県秩父地方で貧しくなっていった貧農たちで構成される,別名借金党の人たちが自らこしらえてしまった借金の減免を求めて自由党左派とともに1万人規模で蜂起します。政府はこれに対してなんと軍隊までをも投入してなんとか鎮圧するといった相当大規模な激化事件となったのです。この秩父困民党というのは,農村は農村でも蚕を飼う養蚕家が中心です。つまり,松方財政でお金の出処が絞られているので,生糸を作っても売ってもなかなかお金が手に入らないといった状況でした。松方デフレの影響を受けて起こった一番大規模な激化事件がこの秩父事件といえるでしょう。

 

大阪事件

さらにちょっと変わった事件も起きるんです。それは大阪事件です。この事件は松方財政とは関係ないのですが,日本では何をやっても弾圧されてしまうので,大井憲太郎景山英子(ひでこ)という2人の人物が朝鮮でクーデターを起こします。

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実は朝鮮でも民権運動というか改革運動があったんですね。そこで日本と組んで朝鮮を民主化しようという動き(甲申事変)があったのですが,これをうまく利用しようとしたのが大井と景山でして「朝鮮も変わっていったんだから日本も変われよ!日本の自由民権運動家よ今こそ決起せよ!」と煽ろうするために朝鮮へ渡ろうとしました。大阪から武器を揃えて朝鮮へ渡ろうとしたちょうどそのときにお金が底をついてしまったので,お金の工面をするために大阪でカツアゲみたいなことをしていたところを逮捕されて,事情聴取の中で朝鮮民主化計画が発覚しそのまま投獄されたのでした。景山英子はのちに「妾の半生涯」という自叙伝の中で,大井憲太郎との関係なんかにも言及しています。

 

このように代表的な激化事件を3つ挙げたのですが,他にも群馬事件(群馬)や,高田事件(新潟),加波山事件(茨城)などの激化事件が知られています。

 

民権運動の再結集

このように政府と自由民権派が揉め揉めしている間に,国会開設の時期が近づいてきました。そうすると,いろいろな運動をやって激化させた結果,「潰されるよりはこれはもうあと数年を待ったほうが早いな」「ここは民権派が心を一つにして協力していこうぜ」ってみんな感じ始めるわけなんですよね。そこで,次第に自由民権運動激化から結集へと様子が変化していきます。

 

大同団結運動(1886年)

そこでまず,後藤象二郎星亨らが「みんな団結してスクラム組み直そう!」ということで大同団結を提唱します。一口に自由民権運動といっても,農民がいいたい主張と,士族がいいたい主張,商人が伝えたい主張など,社会の各階層や置かれている立場によって主張はそれぞれ異なっていましたよね。しかし,もう国会開設が目の前に迫ってきているので,さまざまな運動を結集し,そういったいろんな意見の違いはあろうけども,国会開設にむけて意見をまとめようと考えるわけです。

 

三大事件建白運動(1887年)

それから,大同団結運動と同時に,三大事件建白運動が広がります。大同団結運動スクラムを組み直した上で,政府攻撃のために3つの事柄について指摘して攻撃し,運動の求心力に使用としたのです。この3点に絞って政府に要求を伝えていきましょうとする,まず1つは地租軽減,次に言論や集会の自由,そして3つめが外交失策の挽回です。これはなにかというと,当時,井上馨が条約改正交渉をやっていたのですが,これがうまくいっておらず不平等条約が依然として結ばれたままでしたので,その不平等条約を改正せよ!ということです。

覚え方:ガイコツ集会する地層

外交失策の挽回:外相 井上馨

②言論や集会の自由

地租軽減 

 この3つをあげつらえて,政府の攻撃力および民権派の求心力を高めて,団結を強めていったのでした。

 

 

保安条例

社会のいろいろな階層が,いろいろな不満を持っているが,ここは国会開設の時期が近いので,3点にしぼって強く政府に要求していくために団結をしましょう,ということですね。するとこの民権派の圧力は非常に強いものがありましたので,ここは政府もたまりかねて,保安条例を出します。このままでは民権派が東京に集まって大きな暴動が起こるのではないかと不安視し,集まった民権派を東京から追放することでなんとか急場をしのごうとしたのが保安条例です。追放された民権派の中には,中江兆民という民権派の理論的指導者や,のちには憲政の神様とうたわれた尾崎行雄,そして星亨など570名あまりが東京から追放されるというかなり暴力的な条例が出されたのでした。

明治の弾圧系の法律・条例シリーズ

新聞紙条例・讒謗律:漸次立憲政体樹立の詔

集会条例:大同団結運動

保安条例:三大事件建白事件

 

さて,星亨とともに大同団結運動を唱えた後藤象二郎はどうなったのかというと,星亨が追放されたあと,後藤象二郎は黒田内閣の逓信大臣となっています。民権派がいつのまにか政府のメンバーになっているという奇怪な現象ですね。「おれ,民権運動をやっていたけど,黒田に入閣しないか?と誘われたから,じゃあ,オレ政府へ入るわぁ」となったものだから,骨抜きになった民権運動はここで空中分解することになります。国会開設の時期が近づき,民権運動がまとまった。大同団結し,三大事件建白運動を起こしたが,政府はそこに保安条例で弾圧を加えた,さらに民権運動の中心的存在であった後藤が政府に取り込まれたため民権運動はこれにて終焉。という大まかな流れを理解してもらえればと思います。

 

では,最後にまとめの表を載せておきます。ポイントとしては,政府側の動きつまり弾圧条例を軸にしていくと良いでしょう。

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テストでは,こんな正誤問題がよく出されます。

(誤)国会期成同盟ができると,政府が保安条例をもって弾圧をした

(正)国会期成同盟ができると,政府が集会条例をもって弾圧をした

とか,

(誤)三大事件建白運動がおこると,政府は集会条例を制定した。

(正)三大事件建白運動ができると,政府は保安条例を制定した。

などです。