日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

121 大日本帝国憲法の制定

前回は,国会開設の勅諭がでて「あと10年で国会ができるよ」ってことで,そんな10年間の中で「自由をよこせ」「権利をよこせ」といった民衆の動き,人々の動きが激化していきましたね。でも,国会開設の時期がいよいよ近づいていくると,みんなまとまって政府に要求を通していこうや!といった時代のお話しました。あと10年で国会ができるということで,前回は民衆側の動きをみましたが,今回はあと10年で国会ができるということで政府側の動きをみていくことにしましょう。

 

憲法制定の準備

それは,国会の開設を前にして,いよいよ憲法を作ろうじゃないかという話になってきました。この憲法を作りましょうというときに,誰が憲法制定のリーダーに担ぎ上げられたかというと伊藤博文です。憲法を作りなさいといわれた伊藤博文は,「う〜ん,いきなりそういわれてもなぁ。じゃあまずは憲法の勉強をさせてください」ということで2年間憲法を学びにヨーロッパへ渡航します。じゃあ,どこの国に渡ったのかというと,それはドイツです。ドイツの憲法を手本に日本の憲法を作ろうとしたわけです。だったらなぜドイツの憲法がいいと思ったのかというと,君主権が強く設定していたからです。これから作ろうとする大日本帝国憲法天皇に主権があり,天皇に大きな権利を与えている天皇大権としていたからなのですね。こうしたドイツの憲法に学び,君主の権限がつよい憲法を作ろうとしたわけですね。なのでドイツ!ドイツといえばベルリン大学のグナイスト先生にドイツの憲法を学びます。そして,ウィーン大学のシュタイン先生にも付き,ドイツ流の憲法理論を学びます。

  • ルリン大学ーナイスト (「濁音」つながり)
  • ーン大学ーシタイン (「促音」つながり)

 それと並行して,国会を開くにあたりいろいろ準備をしていきます。

 

立憲政への準備

華族

まずは華族令(1884年ですね。華族というのは,華族・士族・平民の華族です。昔の大名や,お公家さん,その他明治維新に功績のあった人を華族に組み込んで,その華族に「公・侯・伯・子・男」の5つの爵位を与えました。もとは華族といえば昔の大名やお公家さんが華族だったのですが,こうした爵位をもうけたうえで積極的に明治維新の功労者にあたえていくことで華族層が広がりを見せました。のちに帝国議会では衆議院貴族院がおかれ,衆議院は民衆の代表(国税15円以上25歳以上の男子)が選ばれていくのですが,もう一方,今回の華族令に定められた人たちを中心とした貴族院が置かれます。ちなみに貴族院は選挙はありません,天皇に選んでもらいます。つまり,華族令は帝国議会貴族院設置を前提として,その準備段階の法令ということでつくられたのでした。

 

内閣制度

では,次の立憲政への準備として内閣制度(1885年)が制定されます。今まで私が(行政組織としての)政府,政府と呼んできたのは,実は太政官という組織のことを政府と呼んでいたのですが,今回はそんな内閣制度(1885年)を整備して,そんな太政官にかわる行政組織として内閣が創設されました。1868年に出された政体書以降は,太政官が復活し,建前上は太政大臣左大臣・右大臣,その下には参議らが政治を動かしていましたね。まぁ,途中で三院制になって正院・左院・右院となったりもしたのですが,近代国家を目指すという趣旨から,太政官制を廃止して,これから行政を担当するのは内閣ということになります。

 

そして,この内閣のリーダーは誰かというと,内閣総理大臣です。初代は,いま憲法の制定準備をしている伊藤博文です。なので,最初の内閣は伊藤博文内閣です。ここからは近現代を学習していくポイントとして,内閣ごとにまとめていくのがセオリーですので,天皇征夷大将軍と同じようにしっかりと歴代内閣総理大臣を覚えていきましょう。

 

覚え方

い・く・や・ま・い・ま・い・お・や・い・か・さ・か・さ

伊藤①・黒田・山県①・松方①・伊藤②・松方②・伊藤③・大隈①・山県②・伊藤④・桂①・西園寺①・桂②・西園寺②

 

 

天皇

それではつづいて,天皇の位置づけはどのようになったのかをみていきましょう。まずは宮内庁を内閣の外に出して,天皇の生活の部分を宮内庁が担当し,政治のリーダとしての天皇とを分けていくことになります(宮中・府中の別)。

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そして,この政治面での天皇を補佐するため,新しい役割が置かれます。それを内大臣といいます。政治のリーダーとしての天皇内大臣が補佐していくということになります。なお初代内大臣にはこれまで太政大臣をつとめていた三条実美が就任しました。っていうか,宮中・府中の別っていまいち意味わかりませんよね?たとえば,天皇陛下を頂点として,内閣総理大臣を選びます。内閣総理大臣は各大臣を選んで10人くらいで内閣をつくります。内閣というのは政治を行う行政機関いわゆる政府ですが,当時は政府の府という字をとって府中とよんでいました。もう一つ,天皇の下には宮内省といって皇室財政・皇室の諸事務を行う組織でして,そのトップが宮内大臣です。そして,もう一つは内大臣といって,天皇のご相談役にあずかる内大臣をトップにする組織があります。この宮内省内大臣府のことを宮中とよびます。大臣っていうのは本来は各省庁の長官を指す言葉であり,閣僚メンバーの一人であるのですが,この宮内大臣内大臣は大臣という字はついているものの,政府の中には一切関与しない大臣です。なぜか?それは,宮中というのはあくまでも天皇陛下私的機関ですよね?一方で府中は,政治を行う公的機関ですよね。よく公私混同はいけないっていう言葉がありますが,近代国家をめざすわけであり,これから立憲君主制をとっていくわけですから,天皇の個人的なことを公的なところに入れ込んではいけないっていう考えから宮中・府中の別が建前上採用されました。

 

地方制度改革

ドイツ人顧問のモッセの助言にもとづいて,山県有朋が主に地方制度を整えていきます。たとえば地方の資産家たちが地方の政治に携わるようになるのですが,市制・町村制や1890年には府県制・郡制などのルールが公布され,どういう人が地方自治に参加できるのか,どういう会議を行い,どういう地方自治の運営を行うのかといった内容を整えていきました。尚,府県会はこれに先立って,地方三新法の一つでもある1878年の府県会規則にもとづき,自由民権運動の次期に順次開設されました。

 

憲法制定作業

さて,それでは初代内閣総理大臣伊藤博文のもと,いよいよ新しい憲法を作っていきましょう!という段階に入ります。責任者はもちろん伊藤博文です。じゃあ実際に憲法の草案を作成した人は誰かというと,やはりドイツの憲法がお手本ですのでドイツ人の顧問でエスレルさんのもと,実際の憲法を書いていったのが井上毅(こわし)伊東巳代治(みよじ)金子堅太郎です。そして,この3人が作った憲法をいいかどうか審議したのが枢密院(すうみついん)といって,1888年に置かれた天皇の諮問機関です。この条文は憲法にふさわしいか,こういった権限を誰に渡すのか,あるいはどういう国の仕組みを整えるのか,などを審議しました。諮問機関というのは天皇と一緒に図っていくという機関ですね。

 

日本国憲法の発布

さぁ,そういうことで大日本帝国憲法がいよいよ発布されます。初代の総理大臣は伊藤博文でしたが,この大日本帝国憲法が発布されたときの内閣は黒田清隆内閣ですのでご注意ください。

天皇について

まず内容としてたくさん挙げられているのは,主権者としての天皇です。この時点では,天皇が国民に与える形での憲法であって,このことを欽定憲法といいます。あくまでも定めたのは私(天皇)ですよっていう意味ですね。そういうことなので,主権は天皇にあり,その位置づけは神聖不可侵とされました。つまり,誰も侵すことのできない権利ということですね。天皇は日本という国の統治権のすべてを握る総攬者(すべてをにぎる人)とされました。さらに天皇は,文官や武官の官僚を任命したり,外国と同盟を結んだり,条約を締結したり,軍隊の指揮権をもにぎる広大な天皇大権をもち,法律に代わる緊急勅令なんかも出すことができたのでした。天皇大権というのは,議会の協力や審議を得ずに,天皇だけで決定できる権限のことをいいます。たとえば,文武官吏の任免権や,軍の統帥権,宣戦・講和や条約締結などの外交については天皇大権が認められました。また緊急勅令とは,法律が定められていたとしてもその法的拘束力を超えた命令を出すことができるもので,あの二・二六事件のときなどにも出されています。そうして,陸海軍を率いる統帥権をもち,内閣からも独立したものでした。まぁ,実際には陸軍大臣海軍大臣はいたのですが,究極の日本の軍隊全体のトップがこの天皇であるということが憲法に記されたのでした。また,天皇大権のところでも紹介はしたのですが,条約の締結宣戦布告などの権利を持つということです。だから,大日本帝国憲法天皇について多くの文言が割かれているなってことがわかるかと思います。

 

議会について

議会は,天皇の協賛機関天皇を助ける,サポートする機関)であり,この議会は衆議院貴族院からなっています。

 

国民について

主権が天皇であるならば,国民はどういう位置づけかというと,国民は天皇の家臣としての位置づけであり,法律の範囲内であれば自由が認められるということになります。

 

今回は国会開設の勅諭から,10年間の間の政府側の動きについて覧ていきました。伊藤博文がドイツから憲法を持ち帰って,憲法をおもに3人の人物とともに憲法をつくったのでした。そして大日本帝国憲法が完成し,その内容についてみていくと主に天皇のことについて大部分のことが割かれている欽定憲法だということをみていきました。今回は以上です。