日本史オンライン講義録

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122 法典の編纂/第一議会(伊藤・黒田・山県内閣)

もうすぐ日清戦争に突入してまいります。前回はどういったお話をしたかというと,大日本帝国憲法が制定されましたね。大日本帝国憲法は,天皇が臣民である国民に与える形での欽定憲法でしたね。あるいは,天皇には天皇大権といって強力な権利が与えられました。今回は,その憲法に基づくさまざまな法律,たとえば民法や刑法,そして前回は内閣制度が作られましたので,◯◯内閣,△△内閣といったように,これからは内閣総理大臣がいて内閣制度のもと日本の国が運営されていくということになりますので,まずはそんな内閣について紹介したいと思います。

 

諸法典の編纂

まずは憲法ができたら,次は法律ということで,さまざまな法律についてみていきましょう。いろんな法律を作るにあたって,まずは法律に明るい法学者をフランスから招きます。その人物は誰かというとボワソナードというお雇い外国人です。ボワソナードのアドバイスによって,刑法治罪法刑事訴訟法)が制定されました。もちろんこの時代の主権者は天皇ですので,天皇や皇族に対する罪は存在しているわけですね。たとえば反乱を企んだら罰する大逆罪や,天皇に失礼な言動を罰する不敬罪,あるいは内乱を企てたり,起こしたりすることを罰する内乱罪などです。

 

つづいて,人と人とのトラブルを裁く民法商法あるいは民事訴訟が制定されました。しかし,この民法を定めたときにボワソナードがフランスから持ち込んだ考え方が戸主権(父・長男の権利)が弱いものであったために政府は批判を受けます。 実は,ボアソナード民法が制定された1890年前後というのは,非常に天皇制が色濃くでた国家観が方針と打ち出されたのは分かりますか?たとえば1889年は明治憲法が,そして1890年教育勅語が出されましたね。ですから,この民主主義的で個人主義的なボアソナード民法っていうのは上下関係を重んじる現在の国情にあわないっていうことがみてとれます。日本の昔からのやり方だと父親や長男が強い権利をもってしかるべきであり,これが忠孝精神だということで批判を受けるわけです。こんなに戸主権の弱い法律を作ってしまったことで,たとえば穂積八束は「民法出でて忠孝滅ぶ」として,父や長男の権利が弱い権利を作ってしまったら今までの儒教的道徳思想でもある忠や孝が滅んでしまうのではないか,やはり長男や父親のいうことに家族は従うべきだ!と批判したのです。結局この批判によって,長男や父親の強い戸主権を認めたドイツ流の民法へと改正されることになります。

【法典の整備】

刑法(1880年)ー罪刑法定主義

治罪法(1880年)ー近代的刑事訴訟法

民法(1890年)ーフランス流で個人主義的=国情にそぐわない

 民法典論争「民法デテ忠孝滅ブ」穂積八束

修正民法(1896・98年)ードイツ流で家父長的な戸主権の強化

 

 

 

伊藤博文内閣

大日本帝国憲法を作る準備の一つとして内閣制度が1885年にできましたね。この内閣制度ができたときの内閣が第一次伊藤博文内閣です。伊藤内閣は,何をしたのかというと憲法の制定準備に取り掛かり,あるいは市制・町村制などの地方制度のしくみを整えました。

【地方制度の推移】

政体書(1868)

廃藩置県(1878)

 府・県→3府43県(1888)

     大区・小区制

三新法(1878)⬇

  郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則

府県会規則(各地の民会=府県会を制度化)

 議員の選挙権は地租5円以上納入の20歳以上

  →地主・豪農が選出

このようにして,当時意見を言いたかった豪農層にも選挙権が認められ,地方自治制度も確立していったのでした。さらに,憲法制定にあわせてどうせなら中央が統制しやすい自治システムを作ろうということで,山県有朋が主導し,ドイツのモッセが助言したことにより,市制・町村制(1888年が制定され,市会・町村会が開かれました。また,府県制・郡制(1890年)が制定されました。このように,地方にも意見を言う場が開かれるのですが,実は選挙システムは等級選挙といいまして,払っている地租の金額などに応じて選挙権がもてるしくみでしたので,地主なんかの名望家が発言力を高めていきました。つまり金持ちの,金持ちによる,金持ちのための地方自治といった感じになっていくんですね。

 

黒田清隆内閣

二代目の内閣総理大臣は誰かというと,黒田清隆です。この黒田清隆は,伊藤博文が準備を進めてきた大日本帝国憲法を公布したときの総理大臣です。ですので,この黒田内閣で最も抑えるべきは大日本帝国憲法と言えるでしょう。ここはよく伊藤博文内閣と混乱しがちなのですが,発布は黒田清隆内閣ですので注意をしてください。

 

大日本帝国憲法の中に,これから貴族院衆議院などの議会が開かれることが示されているわけですね。議会が開かれるってことは,いろんな意見が国民から寄せられるっていうことなのですが,この黒田首相は先回りをして「これから初の選挙が行われ,議会が開かれことになるが,政府は政党や議員の意見に左右されません!」とする超然主義演説が行ったのです。なぜかというと,自由民権運動がさかんだったこともあり,オレたちの意見を聞け!という議員がたくさん当選することは目に見えていますよね。そこで政府はそういった人たちの意見には左右されません!と先に釘を指しておきたかったのでしょう。議会は開くけど,あんたたちの意見には耳はかさないよ!といった感じですね。そうすると最初の選挙は果たしてどのような結果になったのでしょうか。

第一回総選挙(1890年7月)

まず第一回総選挙においては,選挙権は25歳以上の男で,直接国税15円以上を納める者でした(制限選挙)。ちなみに有権者は総人口の1.1%程度しかいませんでした。まさに金持ちによる金持ちのための政治ですよね。この第一回総選挙の結果なのですが,やはり「国会を開いて下さい!自由民権運動をやりました!」っていうのは,議会を作って欲しい,オレたちの意見を聞いてほしい!一言言いたい!から議会ができるわけですよね。ですので,選挙の結果,やはり当然といっちゃ当然なのですが政府を批判する立憲自由党立憲改進党などの民党(現在でいうところの野党)が多数当選することになり逆に,政府を擁護する吏党(現在でいうところの与党)は少数当選となります。

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結果は上の通りです。内閣側は,きたるべく政党の進出に対して,やはり超然主義を掲げ,いかに政党が強くてもそれに左右されないという姿勢を貫きました。さらに,日清戦争が近づいていますので,それにともなって軍備拡張予算を提示していきます。内閣は,政治をやるのはもとより,集めた税金の使いみち(国家予算)をどのように割り振っていくかをしっかり考えなければなりませんでした。ところが,選挙の結果,「民力休養・政費節減」をかかげる民党といわれる立憲自由党立憲改進党が300議席中171議席を獲得します。過半数の賛成があれば決議できるのですが,内閣側からすれば,お味方となる吏党は129議席しかありませんので,薩長藩閥政府がいくら頑張って作った法案であっても可決されにくい苦しい議会運営を強いられることになりますよね。このように薩長藩閥政府が窮地に立たされた状態で第1議会がはじまります。

 

初期議会の時代の内閣

さて,憲法ができて,念願の国会も開設されるに至りました。我が国初の国会が開かれるのですが,この国会のことを初期議会といいます。第1議会1890年から日清戦争が始まるまでの第6議会のことをさします。このあと詳しく紹介しますが,山県①内閣から松方①内閣を経て伊藤②内閣まで,初期議会の中で総理大臣が3回かわります。これらは薩長藩閥による政府ですが,これに対して民権運動をやっていた人たち(民党)が選挙で国会に多数当選して,藩閥政府とやりあいます。おおむね,藩閥政府は軍備拡張をふくむ国家予算案をつくるのですが,民党側は軍備削減だ!ということで非常にもめます。だから民権運動のときの対立が再び国会の場所を変えて繰り広げられるといったイメージでしょうか。こういうのが4年間ほど続きます。

 

山県有朋①内閣

総理大臣は3代目・山県有朋内閣のときに,初の議会が開かれました(第一議会)。

  • 初代総理・・・伊藤内閣
  • 憲法制定・・・黒田内閣
  • 議会開設・・・山県内閣

 当然,政府を批判したくてウズウズしている自由民権運動あがりの民党が政府と対立するわけですよね。さきの黒田首相は最初の演説で超然主義を唱えたのですが,山県有朋首相はどういう演説をしたかというと,

主権線(日本の国境)とともに利益線(朝鮮半島も守っていこう!」

としたのでした。日本の国境は当然守っていくが,今や帝国主義華やかナリ思想の世界なので,日本の国境だけでなく,朝鮮半島も日本にとってこれから利益となるエリアなので,これからは日本の勢力圏内としてしっかり守っていこうじゃありませんか!といった考えなんですよね。つまり山県首相は何を言いたかったのかというと,軍備を増強させていく必要があると主張したのですね。

 

軍備拡張 VS 政費削減・民力休養

そうすると,政府と対立していた民党は「いやいやいや!ちょっと待てや。日本は今まで激動の時代だった。十分重い税は今まで払ってきたわけだし,政府もカネばかり使わずにちょっと節約をすべきだ。」とする政費削減や,「ここらでちょっと一休みしませんか,国民は疲弊していますぞ」とする民力休養を主張します。それに対して,政府はどのように対応したのかというと,なんと自由党員を買収工作していったのでした。政府を最も激しく攻撃していた立憲自由党(土佐派)の人たちに買収をしかけて,お金でモノで釣って「ここは一つ,これで政府攻撃の手を緩めてくれませんかね」と接触したのでした。なんだ,もう最初の方からこんな汚いことやってたのかよって感じですよね。こんな仲間の裏切りをみた立憲自由党土佐派の中江兆民は「なんじゃこりゃ!何のための民権運動だったんじゃ!衆議院は無血虫の陳列場や!」といいながら,議員を辞職します。それにしても,土佐派の裏切り者ってどんな人たちがいたのでしょうね?はい,まずは立志社建白を行った片岡健吉でしょ,そして最も民主的な私擬憲法案「大日本国国憲按」をつくった植木枝盛など総勢30名ちかくが裏切りました。山県有朋にとってはこれが勝因となり,軍備拡張予算を可決します。裏切りというか,妥協といった方が良かったかもしれませんね。軍備拡張をしなければ戦争に負けてしまうかもしれません。国のことを案じて民権派議員もここは妥協したのです。

 

まぁ,このようなことで伊藤・黒田・山県と一気に進みました。次回はいよいよ日清戦争にいたる経緯についてお話をしてきたいと思います。今回は以上です。