日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

124 朝鮮の動向と日清戦争

今回はその日清戦争の話をしたいと思います。まずは朝鮮の動向を抑えておかないと日清戦争は理解ができません。

 

朝鮮の状況

朝鮮半島には,朝鮮王朝という王朝がありました。朝鮮は李さんが抑えていましたので,李氏朝鮮ともいいます。その朝鮮を,宗主国として属国化していました。いわゆる親分子分の関係ですね。日本の狙いとしては,これから朝鮮半島を支配したいわけです。なので,これからいろんな条約や要望を朝鮮に飲ませていきたいわけですが,朝鮮は清の属国なので,いちいち清にお伺いを立てなければなりませんでした。日本としてはこれはもどかしい限りですよね。なので,日本は親分子分の関係を断ち切らせて,直接朝鮮とのやりとりをめざしたのです。つまり,朝鮮を独立させたかったというわけですね。

 

日清戦争

では,このような状況の下で,日本と清が直接戦う日清戦争について迫っていきたいと思います。この時代,朝鮮半島では大きな2つの動乱が起きます。

壬午軍乱

日本が朝鮮に入り込むことで,親日派と親清派の2つに分かれてしまいます。日本の幕末の開国和親派と尊王攘夷派に分かれたのと同じですね。まず,閔妃というオバハンがおりまして,この人は国王の奥さんなんですが,親日派なんですね。一方,大院君というのがおりまして,これは国王のお父さんに当たる人です。親清派です。で,この壬午軍乱というのは,大院君が軍隊の支持を得て反乱を起こし,朝鮮に入り込んできた日本の基地である日本公使館を襲撃するといった事件なのです。これをみた親の国である清国は大院君を拘留して,親日派閔妃に期待を寄せて閔妃政権を支援するという形をとります。一方,日本は公使館を焼き打ちにされたわけですから「なんちゅうことしてくれるねん!」ってことで1882年に済物浦条約を結ばせます。これによって日本の漢城駐留権をゲットすることになります。要するに,朝鮮支配の拠点になっていったということですね。

 

甲申事変

日本が朝鮮に乗り込んでいきました。もう一つの事件が甲申事変です。壬午軍乱の続編とでもいいましょうか。さて,壬午事変のあと親清派へと変わった閔妃はですね,朝鮮政府の中枢にある事大党(親清派)に属していきます。これに対して,独立党(親日派といって「日本とタッグを組んで近代化を図っていくべきだ」という考えをもっています。この両者の対立が激化していくわけですが,独立党の金玉均あるいは朴泳孝らが,当時の日本公使と結びましてクーデターを敢行します。つまり事大党をやっつけて政権を握ろうとしたわけです。しかし,いち早く動いた清国軍の介入により独立党は失敗します。そして日清の関係が悪化しますと,1885年に日本全権伊藤博文と清国全権の李鴻章が話し合って,天津条約を結びました。どうですか?ちょっとわかりにくいですよね。

 

甲申事変では,清国がバックについていた事大党と,日本がバックについていた独立党との対立でした。甲申事変をしかけたのは独立党でして,事大党をやっつけろ!っていうクーデターを起こしました。政権を握るかとも思われたのですが,いちはやく①清国が「こらぁ!仲間やっつけてくれてどうしてくれるねん!」ってことで,独立党は詰め寄られます。②怖くなった金玉均は逃げます。そこに③日本が朝鮮へ出兵してきます。そうすると,朝鮮半島で清国と日本がガチンコ対決することになりますね。これで日清戦争か!?と思われたのですが,ここでは戦争にはならなかったのです。なぜか?実は清国も大国ではありますが,日本と戦争している場合ではなかったのです。なぜなら,ある国と戦争していたのです。それはどこかというと,フランスです。1884年清仏戦争でフランスとベトナムの取り合い戦争をしていたのですね。そのタイミングを見計らって独立党が動いたのですが,意外と清国も迅速に動いてきたってわけですね。一方,日本は1884年にどういう状況にあったでしょうか?そう!日本は大変な経済状況にありました。デフレの影響によって民権運動の激化事件,とくに秩父事件が起こっていました。日本としてもハッキリ行って外国で戦争している場合じゃなかったんですね。そこで,「今はお互いに戦争やっている場合じゃないし,ここは仲良くしとこう」ってことで1885年天津条約が結ばれたんですね。何やらややこしい1884年〜85年ですね。

 

さて,ここは復習になるのですが,実はクーデターに失敗した金玉均を日本側が助けてあげよう!ってことで自由党の左派の人たちが朝鮮に渡ろうとして,結局日本でつかまってしまったあの人たちがいました。そうそう,景山英子とともに武器を集めて大阪港から朝鮮へ渡り,金玉均を支援しようとしたところを捕まったのが大井健太郎でした。

 

結論なのですが,このあと事大党が復活するんです。つまり,この事件をもってしても日本の勢力は挑戦において後退していくってことになります。ここでさすがに日本もこの状況をみて,「もうおせっかいはやめよう」ってことで近代化を図ろうとしない朝鮮に見切りをつけた福沢諭吉は「脱亜論」を主張します。同じアジアだったけども,オレたちはアジアとともにではなく,ヨーロッパとともにアジアの分割に加わるぞってことです。福沢諭吉は学問のすゝめで結構有名なおっさんですが,結構このような侵略肯定論も述べているってことを忘れないでくださいね。

 

防穀令事件

さて,そのあと1889年に防穀令事件が起こります。当時日本は産業革命期に入ってまして,すでに不平等条約をむすび朝鮮から安く米を買い占めていたんですね。そうすると朝鮮での米価が高騰しますね?そしたら,朝鮮人は米を買えなくなります。そこで,朝鮮政府は穀物を守れ!日本には米を売ったらダメ!としたことで両国で貿易摩擦が起こり,防穀令事件へと発展していったのでした。

 

日清戦争と三国干渉

甲午農民戦争

甲申事変から10年が経過すると,1894年には甲午農民戦争東学党の乱)が起こります。日本が朝鮮をこじあけたことによって,欧米も商売にでむいてきました。これで不利益を被った貧しい農民が「日本人出ていけ!欧米人出ていけ!」ということで暴動を起こしたわけですが,日本と清国が出兵をしてこれを鎮圧しました。そして,日本は清国に朝鮮の共同内政改革案を提出します。つまり,「もう日清戦争待ったなし!行くなら今でしょ!」って感じですね。要するに東学党の乱が起こっているタイミングで日本はイギリスとある条約を結びました。覚えてますか?そう!領事裁判権の撤廃を掲げてイギリスとの間で日英通商航海条約を締結したんですね。つまり,イギリスと言う国が日清戦争に対してGoサインを出したわけです。それで,ちょうど東学党の乱をきっかけに「おい清国よ!一緒に朝鮮の内政干渉せえへんか?」って喧嘩うるわけです。当然,自分の子どもに干渉してこられてOKする親なんていませんよね?で,拒否されたことを口実に日本は日清戦争を仕掛けたのです。

豊島沖海戦黄海海戦

大戦のきっかけとなったのは,豊島沖海戦があって清に宣戦布告します。これ順番が逆ですよね?そうなんですよ。殴る前に宣戦布告するところを,殴ったあとに宣戦布告しています。これから清に乗り込む途中で豊島沖で清国にばったり会ってしまったので,どうせ後からやる喧嘩やねんから,さき喧嘩しとこかって感じかな。その後,黄海海戦です。これは中国の北洋艦隊っていう主力艦隊があるのですが,それを破りまして日本の大勝利となります。余談ですが,日本軍の戦死者の9割が戦死じゃなくて,病死といわれています。なれない土地で水にあたったりマラリアにかかったりと風土病で死んでいったようですね。

 

下関条約

大勝利を経て,1894年に講和条約が下関で結ばれます。当時は,第二次伊藤博文内閣だったのですが,総理大臣自らが全権として出ていき,外務大臣陸奥宗光が,清国全権の李鴻章と交渉します。そして,日本側の獲得した条件が,①清国は朝鮮の独立を認めるました。今まで,朝鮮は清国の属国だったわけですが,それを日本が解き放ったわけですね。それから②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲,③賠償金2億両,④清国の開港(沙市・重慶・蘇州・杭州)さらに,下関条約とは別に,日清通商航海条約というものが翌年結ばれます。これは日清修好条規っていうかなり不平等な条約でしたが,それをリセットして平等な条約を結ばせたのでした。

 

三国干渉

さて,下関条約で多大な権益を譲渡されました。初めての賠償金もゲットして「戦争ってもうかるなー」と思っていたのもつかの間,1895年には三国干渉といって,ロシア・フランス・ドイツがやってきて「遼東半島かえしてやれや!」って日本に迫ってきたのです。返したれやって言うときながら,自分たちが欲しかっただけなんですけどね。日本も日清戦争が終わったばかりで,さらに相手は暴れん坊で有名なロシアとなるとここは腰がひけてもおかしくない,ということで遼東半島を全面的に放棄します。ここで日本は「臥薪嘗胆(薪の上で寝て,肝をなめる)だ!」っていうスローガンをかかげて,先の日清戦争の賠償金をすべて軍備拡張にささげていくんです。

そもそも,なんでフランスやドイツってロシアの背中を押しているんでしょうか?これは簡単ですよ。フランスはロシアにお金を貸していたわけですね,だから早く返してもらいたいからロシアを応援しますし,ドイツはロシアに東アジアを向いておいて欲しいってだけです。これが三国干渉です。ひどいもんですねぇ〜

 

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『トバエ』1887(明治20)年2月15日号、原題は「魚釣り遊び」です。朝鮮をめぐる日清の対立とロシアの野心を風刺画であり,ロシアは朝鮮を釣り上げようとしている日清の様子をうかがい、横取りを企んでいる。正誤問題では,よく日清戦争後に描かれたと引っ掛けてくるが,甲申事変で悪化した日清関係を打開するべく1885年に締結した天津条約が結ばれた,その後の世情を表したものである。

 

 

閔妃殺害事件

この三国干渉の動きは朝鮮半島にも大きな影響を与えました。実は三国干渉してきたロシアが朝鮮からすれば頼もしくみえるわけですよね。ここでロシアにくびして親露派に鞍替えしたのが中心人物だった閔妃です。このままでは朝鮮がロシアに取り込まれてしまうと思った日本は,当時の日本公使である三浦梧楼が,王宮に入って女とみるやいなや全員殺害するんです。ちょっとひどいですね。結局,これがあったために国王の高宗はロシアの公使館へ逃げ込んでしまうんです。で,親露派の大韓帝国になってしまうんです。朝鮮は一応独立しましたが,世界にそれを知らしめるために1897年に大韓帝国と名乗ったのです。いまは大韓民国ですけどね。ということで,日清戦争で清をやっつけて朝鮮を手に入れたのに,再びその朝鮮がロシアへ取り込まれてしまったので,ますます朝鮮における日本の勢力は後退の一途をたどる,まさに負の連鎖ですね。追いかければ追いかけるほど,逃げていってしまう男女の恋愛関係のもつれみたいな感じですね。ってことで,この次は日露戦争へと突入していきますよ。