日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

125 条約改正

日本も欧米列強と対峙していくために,グローバルスタンダードにのっとって憲法がつくられ,国会も開かれようになりましたね。今回はその中でも条約改正についてのテーマでお話したいと思います。というのも,日本は幕末に不平等な条約結ばされたのを覚えているでしょうか。これから国際社会で台頭にお付き合いしていくためにも,まずは条約を改正して不平等な条件をリセットしていかなければなりません。

 

条約改正の推移

まずは,1858年の安政の五カ国条約を思い出してください。日米修好通商条約を皮切りに,アメリカ・オランダ・イギリス・フランス・ロシアなどと条約を結んでしまうのですが,その内容が領事裁判権を承認してしまっていたり,関税自主権が欠如していたり,片務的最恵待遇を認めるなど,非常に不利益を被っていたわけです。

 

たとえば,外国人の犯罪が起こった場合に,領事裁判権を承認しているので,その外国人を日本側で裁判できなかったんですね。たとえばその国の領事がやってきてその国の法律でさばいていくので,場合によっては全然罪に問えない,日本側で裁判できないという非常に国権が犯される不利益を被ることがあったわけですね。

 

さて,もう一つ関税自主権の欠如です。本来ならば国境を超えて入ってくる外国製品に対しては関税を自由に上乗せすることで国内製品を価格競争から守ることができたのですが,自主権がないもんですから。安い綿製品がどんどん入ってきたために,江戸時代から育んできた日本の綿産業が衰退してしまいましたね。さらに,片務的最恵国待遇は,アメリカが最初に結んできたその後にやってきたイギリスやロシアがアメリカのよりも優れた内容の条件を日本が結んだ場合は,自動的にアメリカにも適用せよっていう内容でした。これをとにかく解消していかなければいつまでもたっても日本は欧米と対等と言えないわけです。

 

そこで,不平等な条約改正に尽力した外務卿(外務大臣)の名前を順番に覚えてもらいたいと思います。

覚え方

 岩    寺   の井戸水 大好き, 青木君は 陸    上部

倉具視 島宗則 上馨 隈重信 青木周蔵 奥宗光 村寿太郎

入試問題などでもこの順番を覚えていること前提で問題を出してくる大学もあるので,頑張って覚えてださい。それとちょっと隠し味があるのですが,この岩倉具視は,岩倉遣欧使節団でヨーロッパへ行くのですが,そこではあまり相手されなくて交渉には失敗します。

 

寺島宗則

本格的に交渉が始まるのは寺島宗則からなんですね。この頃ちょうど殖産興業・文明開化の時代ですよね 。日本は「早く強くなりたい!だから産業を起こさないとダメだ」ってことで,そのためにはやっぱり関税自主権の回復を主眼に置いて交渉をしていきます。やはり安いものがどんどん入ってきて,日本の産業をつぶされると困りますから,ここはまず殖産興業の視点からも関税自主権を最初に回復していくべきだということになるわけですよね。ですからまず寺島外交は関税自主権の回復がまず主眼としてスタートしていくわけです。

 

井上馨大隈重信青木周蔵陸奥宗光

ところがですね,実は途中から寺島さん失敗してたんです。やっぱり,まずは国権が大事だ!裁判で不利益被る方がやっぱり国としても格好悪い!ってということから,井上馨外務大臣のときから,関税よりもさっきに領事裁判権の撤廃が主眼となります。ここから井上から陸奥までは,領事裁判権の撤廃が主眼に交渉していきます。

 

小村寿太郎

関税自主権の回復については,まず領事裁判権を撤廃してから,最終的に小村寿太郎外務大臣のところで完全回復ということになります。

 

大隈重信の改正交渉

大局的な流れを抑えた上で,少し細かく迫って行きたいと思います。井上馨外務大臣の条約改正交渉が失敗に終わり, 今度は大隈重信外務大臣に就任します。ちょうど黒田内閣のときとなります。黒田内閣といえば1888年大日本帝国憲法が制定されたのですが,そのときの外務大臣大隈重信ということを前提にお話を進めていきます。実は,大隈重信という人は民権派にいた人ではありますが,外国人に対しても物怖じせずにガンガン言える人で外交手腕もありました。

 

さて,その懸案の外交についてなのですが,井上外交は結構長きに渡って続きました。ですので,ここでご破算にするというやり方よりも,踏襲する方針をとります。ただし,井上外交には反対派も多くいたことから,大隈は秘密主義でことを進めていくことになります。内容としては,井上外交の踏襲ですから,やはり外国人判事任用というスタイルはかわりません。下級裁判所についてはもう外国人の判事を置くのはやめよう!ただし,大審院(今の最高裁)については外国人判事を任用するという方針でした。しかし,最高裁とはいえ司法権に外国人が介入するというのには変わりはないんですよね。これを国別に水面下で交渉していたのですが,なんとイギリスのロンドンタイムス新聞社にすっぱ抜かれてしまうんです。これが日本の新聞社も翻訳して国内に発表したもんですから,「これは憲法違反じゃないか!国権を犯すものである!」と非難を浴び,玄洋社来島恒喜にダイナマイトで襲撃され大隈重信は負傷してしまいます。これをきっかけに大隈さんは外務大臣を辞任してしまいます。さて,来島恒喜青年ですが,この後「国権を犯す大隈重信は死に値するので死んでもらう。しかし,大隈重信外務大臣であり,天皇陛下の下僕である。天皇陛下にはあい申し訳ないことをした。」といいながら,皇居の方角を向いて深く拝礼し,持っていた短刀で自害したというエピソードがあります。昔の国民は熱かったんですね。

 

青木周蔵の改正交渉 

青木周蔵は,山県有朋①内閣のときの外務大臣でした。実は,このころから少し様子が変わってきます。

いままで条約改正には頑強であまり好意的ではなかったイギリス1890年から交渉を始めることになります。 理由はというと,ロシアの東方進出です。というのも,ロシアがなんとシベリア鉄道の着工をはじめたのです。アジアに多くの利権を持っているイギリスからすると,暴れん坊のロシアが南下してくることを大変厄介ですので,ここで地理的条件から防波堤の役割になる日本を利用してやろうと判断し,日英通商航海条約を締結し,相互対等を原則に領事裁判権の撤廃などを目標とした改正交渉が始まりました。

 

さて,山県有朋①内閣のときといえば第1議会のときの首相であり藩閥政府VS民党と激しいバトルをしていたことでしたね。そこで施政方針演説で「主権線(日本領)・利益線(朝鮮)を守らなければならない。主権線を守るためにも,まずは利益線をしっかり確保していきましょう」と主張しましたよね。実は,さきほどもお話したように,暴れん坊ロシアがシベリア鉄道を引っ張って東アジアまで南下してこようとしていました。東アジアの終着点は「ウラジオストク駅」といって日本語の意味に直せば「東方侵略駅」です。つまり,東アジアを侵略しにいくで!っていうことですよね。つまり明らかに極東へ進出してくるタイミングだったので,山県有朋も利益線をしっかり守っていこうとしたのでした。そこで,アジアに利権をもっているイギリスも焦りを感じ,日本とタッグを組むことでロシアを追い返そうと考えたのですね。タッグを組むわけですから,対等でなければなりません。はい,ということで領事裁判権も撤廃してもいいかな?って態度に変わっていったのです。日本からすれば,ロシアが東アジアに進出してくれたおかげで,条約改正の弾みになったと解釈してもいいでしょう。

 

ところが,ここで想定外の事件が起こってしまいます。大津事件です。ロシアの皇太子ニコライが来日した際に,琵琶湖湖畔の大津を人力車にのって遊覧中に,巡査の津田三蔵にいきなりサーベルで切りつけられるといった傷害事件が起こってしまいました。命に別状はなかったのですが,大きな外交問題へと発展し,イギリスとの条約改正交渉も頓挫してしまったため,責任をとって青木周蔵は辞職するという運びになります。

 

 

 小村寿太郎の交渉

 日露戦争を経験した日本は辛くも勝利をし,第二次桂太郎内閣のときの小村寿太郎外務大臣によって,日米通商航海条約(1911年)が結ばれます。実は,これは改正なんですね。さきほど青木外相のところでもお話しましたが,イギリスと日英通商航海条約を結んだあとに,アメリカとも同類の日米通商航海条約が結ばれるのですが,それを改正したのが1911年だったのです。 この年なんですが,1912年の7月に明治天皇崩御しまして,大正時代へと入っていくのですが,その1年前なんです。まさに新しい時代へ入る一歩手前で長年の条約改正交渉が達成できたということです。

安政の五カ国条約が結ばれたのが1858年でしたから,それから53年間。つまり,半世紀もかかってしまったわけですが,明治時代の大偉業を達成したのが小村寿太郎だったんですね。