日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

126 政党内閣への道(松方②・伊藤③・大隈①・山県②・伊藤④)

さて,総理大臣でいうと既に「いくやまいまい」の伊藤・黒田・山県・松方・伊藤②まで勉強しました。伊藤は新憲法の準備,黒田内閣は新憲法を発布,山県は第一議会,そして伊藤②では日清戦争までざっくり見てきました。で,今回は,この後の内閣「いくやまいい」の第二次松方正義内閣を扱いたいと思います。

 

そうすると,このあたりから政党内閣というものが登場してきます。これまでは,政府と議会は対立していたわけですね。この議員になるモチベーションは何かというと,例えば自由党であるだとか立憲改進党であるだとかは,薩長出身ではないので政府のメンバーになりきれず,だから国会議員になって藩閥政府に対して攻撃をすることで何とか保ってきたわけですが,ここから先は徐々に政府と議会(政党)が接近をしていって,今度は政党のリーダーが政府を構成していくような政党内閣へと変化していきます。ということで,ここでは政府と政党の歩み寄りについて少し詳しく見ていくことにしましょう。

 

政党と政府の接近

今まで対立をしていた政府と政党ですが,どちらにも接近するような要因がありました。では政党の側にはどのような要因があったのでしょうか?今まで政党が政府を攻撃をしてきましたが,ただせっかく選挙で選ばれて政治の世界に入ったのに,政府に文句をつけるだけで,政府ものらりくらりとかわしながら政治を進めていかれると面白くありませんよね。やっぱり「オレたちが政権を握って国を動かしていかなければ議員になった意味がない」って思うようになるわけです。ですので,政党は政府に文句をつけるだけではなく,政権を獲得するような動きをこれから見せていくことになりますよ。

 

政府も政府で,政党を無視して軍備拡張路線をやったところで,国民の協力が得られなければ地租の値上げとかもできるわけないですよね。そこで,「政党に協力してほしい!これからはお互いに協力してやっていこうじゃないか」ってことで,政党のリーダーの中には政府に接近して自分が国を動かしたいと思うようになっていくわけです。そこでこの両者は,日清戦争で勝利したことによって,急速に接近をしていきます。少し例えは悪いんですが,この頃の戦争っていうのはオリンピックみたいなもので,「お金をかけて軍備拡張をすれば,日本の軍隊も海外の軍隊に勝てるんだ」って思う国民も多かったわけです。そして,この戦勝ムードの中で政府と政党がお互いに接近し,国民が一つになっていくといったものでした。

 

 

第二次松方正義内閣(松隈内閣))

さて,日清戦争が終わって次の内閣が誕生します。その内閣とは,第2次松方正義内閣です。政党の方は,立憲改進党が拡大発展して,改称した進歩党が松方内閣②へと接近をしていくんですね。ちなみに外務大臣大隈重信です。ですので,松隈内閣と呼ばれたりもしました。このように政党のリーダーが政府のメンバーの一員として中に入り込み始めるイメージです。

伊藤内閣②・・・・・・自由党

松方内閣②・・・・・・・・・・・・・・・進歩党

 

第三次伊藤博文内閣

さて次の内閣は,もう3回目になりますが第三次伊藤博文内閣です。この内閣が行ったことは,ロシアが旅順・大連を租借したタイミングだったので,日本も急いで軍備拡張を図っていかなければならないということで地租増徴案とを国会へ提出しました。「地租を増やさせてくれないか?やぱり中国の次はロシアが敵になるだろうし,もうちょっと地租をあげさせてくれないか?」と画策するのですが,これに対しては地租の納税者側になってくる自由党・進歩党は今回はそろって否決をしていったのでした。ここで両者が合流をして,憲政党が成立をします。党首は国民から非常に人気のあった大隈重信です。

       伊藤内閣②・・・・・・自由党

       松方内閣②・・・・・・・・・・・・・・・進歩党

地租増徴←←←伊藤内閣③

 

ここまで少しまとめると,第2次伊藤内閣では,閣僚の中に自由党板垣退助を入れて自由党に協力してもらおうしました。そして,残りの議員を集めて,自由党と残りカスで軍備拡張予算を成立させました。続いて,第二次松方内閣では,外務大臣に進歩党の大隈重信に協力してもらい,進歩党と残りの議員を集めて軍備拡張予算を成立させました。で,第三次伊藤内閣では,閣僚大臣へのポストお招き作戦はさすがにうまくは行きませんでした。伊藤の「地租増徴案に協力してくれませんか?」という誘いに対して,自由党と進歩党は「いやいやいや!協力はできない」といった感じで拒否をして,さらに両者がタッグを組んで憲政党という巨大な政党を作ったのでした。これでは地租増徴は無理だなと判断をして,第三次伊藤内閣は総辞職します。そして去り際に天皇に対して「ここは一度,憲政党のリーダーである大隈さんに総理大臣をさせてみてはいかがでしょう?」と提案をし,1898年に第1次大隈重信内閣が誕生するのです。

 

地租増徴←←←伊藤内閣③ VS 自由党 + 進歩党

                  ⬇

       大隈内閣①  ←  憲政党 

 

大隈重信内閣(隈板内閣)

この内閣は,憲政党出身者が多く,内務大臣自由党板垣退助が就任します。ですので,隈板内閣と呼んだりします。そして,これが最初の政党内閣です。憲政党出身者で大臣を揃えていきます。ただ,素人軍団の集まりなんですよね。民権運動ばかりやっていた連中なので…。そこで文部大臣の尾崎行雄共和演説事件で辞任してしまいます。共和演説の共和って何かというと,簡単に言ったらアメリカの大統領制のことなんですね。で,この尾崎行雄がたまたま演説をしていたときに,金権政治を批判したたとえ話で「まぁ我が国は天皇制ではあるのですが,仮に,仮にですよ,仮に共和制つまりアメリカの大統領制を我が国がとったいたしましょう,そうなれば三井・三菱みたいな金持ちが大統領になるんじゃないですか?」ってな感じで金権政治(賄賂政治)を批判したのですね。ところが,例えばってつけたにもかかわらず「天皇制であるにも関わらず,共和制をとったら・・・みたいな発言は天皇陛下に対して無礼だ!」って攻撃されちゃったんです。大して悪い話ではないのですが,天皇陛下に対して失礼なことを言った責任をとって尾崎は辞任してしまいます。辞任したあと,旧自由党と旧進歩党のどっちから新しい文部大臣を選出するのかで揉めてしまい,憲政党が分裂しちゃうんです。たった4ヶ月でですよ・・・民権派の素人っぽさが出てしまいましたね。政党内閣って議院内閣制みたいな近代的なものが出来上がったのですが,何もしないまま終わってしまったのが大隈重信内閣でした。

 

 

       大隈内閣①  ←  憲政党 

                 ↙ ↘

       山県内閣②  憲政党   憲政本党

             (旧自由党) (旧進歩党)

第二次山県有朋内閣

ということで,分裂したあとは憲政党憲政本党に分裂するのですが,分裂したところで素人なわけですから,次の総理大臣にはいわゆる玄人である山県有朋が,第二次山県有朋内閣を組閣していきます。とはいえ政党に協力を仰がなければやっていけませんので,ここは分裂した片方の憲政党(旧自由党)に協力してもらい,地租を2.5%から3.3%に増徴していきます。そして,山県内閣の特徴でもあるのですが,文官任用令の改正と軍部大臣現役武官制を制定します。

 

文官任用令の改正(1899年)

かんたんにいうと,政党勢力の官僚機構への介入を防止しよう!あるいは,軍部に関する介入を防ごう!といったもので,政党嫌いな山県ならではの政策といっていいでしょう。少し詳しくみていきましょう。文官っていうのは国家公務員のことですが,山県は,文官は官僚としての特殊技能のないものは就任できないようにしたのです。例えば文部省という役所がありまして,その長官に文部大臣がいますね。その文部大臣は,実は総理大臣から任命されます。つまり,国家試験はいらないんですね。こういうことを自由任用(コネ採用)っていうんですが,一方で大臣の下にいる次官やその下にいる局長らも自由任用(コネ採用)だったんです。本来は出世した人がなれるのですが自由任用(コネ採用)だったのです。ここがちょっと問題になりました。というのも,大隈内閣①のときに尾崎行雄が文部大臣になりましたよね?そしたら尾崎からしたら自分の部下は顔なじみの人間になってもらいたいですよね?だから適当に自由任用で政党の人間を迎え入れたんですね。となると,文部省という官僚機構の中に,大隈内閣のときにガッツリと憲政党のメンバーが入ってきちゃったんですね。大臣は仕方ないとしても,次官や局長クラスまで憲政党のメンバーになってしまうと,官僚機構の中に政党の息が深くかかり過ぎているってことに気づきませんか?本来,文官(公務員)は国民全体の奉仕者であるにも関わらず,憲政党の色に染められてしまうと公平ではなくなりますよね。だから政党嫌いの山県からすれば,このシステムは良くないってことで,自由任用は辞めてしまい,公務員試験できっちり合格した人しか着任できないように改正をしたのでした。

 

軍部大臣現役武官制(1900年)

これは,陸・海大臣を現役の大将・中将に限るという制度です。どういうことかというと,内閣の各大臣って総理大臣が適当に選べるんでしたね。だから政党内閣ができてしまうと,各大臣とともに海軍大臣陸軍大臣も政党メンバーから選んでもOKなんです。でも,軍事知識のないド素人が陸軍大臣に任命されたらどうなりますか?「日露戦争が近づいていますが,大丈夫ですか?」って質問に対して「いやぁ,よくわかりません。私,戦争経験ないですし,そもそも政党員やってたんでね。軍事知識はないんですよ〜」なんて人が陸軍大臣なったら勝てる戦争も勝てませんよね。だから,軍人出身で政党嫌いの山県からすれば,陸軍大臣海軍大臣の牙城だけは死守しようとしました。いくら政党内閣ができたとしても,この2つのポストだけは軍部大臣現役武官制でいこうとしたのでした。要するに軍人の大将・中将というのは,現役の1軍登録の人しかなれませんよ,ましてやド素人の政党メンバーなんて問題外でっせっていうシステムなのです。つまり学校でいえば,運動部の顧問は,現役時代に選手経験のある先生しか顧問にはなれませんよーってことです。なぜなら,試合に勝たなければならないからですよね。それと一緒だと思ってもらえればいいです。

 

治安警察法(1900年)

その他にも治安警察法の制定(1900年)が挙げられます。当時の日本は産業革命が始まって資本主義が発達する中,貧しい労働者たちが理不尽に働かされていました。だから労働運動が激化していましたし,社会主義運動の高まりも見せていました。それを弾圧するために山県は治安警察法1900年に作ったのです。1900年ですから,1904年の日露戦争前にこういう弾圧をやっているんです。軍備拡張のための地租増徴している,軍事工場にも資金を突っ込んでいる,でもそこで「賃金あげろ!!」ってストライキが起こったら,軍艦つくれますか?大砲つくれますか?戦争に勝てますか?って話ですから,戦争を推進するためにも軍事工場でストライキが治安警察法を制定したって流れなのですね。ということで山県はあんまりいいことやっていない総理大臣だったんですね。

 

衆議院議員選挙法改正(1900年)

ちょっとだけいいことしてるのは,憲政党が協力してくれているので,その意向を汲んで,衆議院議員選挙法を改正し,直接国税15円以上から10円以上に引き下げて,ちょっと選挙権の拡大に努めたのでした。

 

第二次山県有朋内閣

憲政党の協力

地租増徴 2.5→3.3%

文官任用令を改正(1899)

軍部大臣現役部完成(1900)

治安警察法(1900)労働運動・社会主義運動の取り締まり

衆議院議員選挙改正(1900) 直接国税15円→10円へ

 

 

第4次伊藤博文内閣

 さて,続きをいきましょう。やがて伊藤博文が,自由党系の憲政党の議員をあつめて立憲政友会という政党をつくることになります。

大隈内閣①      ←  憲政党

              ↙ ↘

山県内閣②      憲政党   憲政本党

          (旧自由党) (旧進歩党)

             ↓

伊藤閣④     立憲政友会

1900年伊藤博文は旧自由党憲政党とタッグを組んで,立憲政友会を結成します。総裁は当然伊藤博文であり,この政党は強力な保守政党として誕生しました。しかし,薩長藩閥の伊藤が民権派の旧自由党とタッグを組んだことを強烈に批判した評論が「自由党を祭る文」でして,幸徳秋水が『万朝報』に発表しました。幸徳秋水っていうと,のちに日露戦争を前にして反戦・非戦を唱えます。「ああ,自由党死す!」つまり,もともと自由党が母体である憲政党と,薩長藩閥の伊藤と結婚したことに対して「なにやっとんねん!お前ら民権運動やってたんと違うんかい!その自由党が,なんで薩長藩閥と一緒になってるねん。薩長藩閥を倒すために作ったのが自由党やったんとちゃうんかい!お前らはいつの間に伊藤の犬に成り下がったんだ。ああ自民党,お悔やみ申し上げます」って感じでちょっと嫌味な感じもしますね。

 

さて,第4次伊藤博文内閣が立憲政友会メンバーを中心にできます。あまり評価はされていませんが立派な政党内閣ですね。しかし短命に終わります。というのも,貴族院の抵抗にあったのです。これにより早期退陣を余儀なくされてしまいました。

 

実は,立憲政友会という強力な保守政党ができたわけですから,議会運営はさぞかしうまくいったと思いますよね?えぇ,衆議院は確かにうまくいきました,衆議院はね。しかし,貴族院が邪魔をしたのです。当時,衆議院貴族院は対等な関係でしたから,衆議院で可決されたとしても,貴族院で否決されたらそこまでなのです。そこをうまく利用して貴族院立憲政友会を母体とした第4次伊藤博文内閣を潰しにかかったのです。誰がそんなことを画策したのでしょうね…。はい,裏で手を回していたのは山県有朋だったのです。こいつは,伊藤と同じ長州出身であるにも関わらず,かたや軍人で政党大嫌いな男なんです。一方で伊藤博文は,明治憲法をつくり初代内閣総理大臣にも就任した人で,立憲主義をとても大切に考えていた男だったのです。ですから,離合集散しながらも旧自由党立憲政友会とタッグを組んだりして,議会政治を円滑にしていくリベラルな性格の持ち主でした。ところが,政党嫌いの山県からすれば,これをやられると政党政治が発展しちゃうじゃないですか?山県はここをすごく嫌ったのです。そこで,友達が多くいた貴族院のメンバーにカネをばらまいて伊藤を潰しにかかったのです。だから衆議院で法案が成立しても,貴族院に邪魔されるわけなので,伊藤は「えぇえぇぇ・・・。またかよ,山県め!」と言いながら,これ以上の議会運営は難しいと判断をし,政権を投げ出してしまいます。ですから,第4次伊藤博文内閣は短命で終わってしまうのです。

 

桂園時代の到来

で,以降は桂園時代の到来です。つまり,日露戦争から戦後の10年間は桂太郎西園寺公望が交互に総理大臣に就任します。ですからそれぞれの名前の1文字をとって桂園時代といいます。山県有朋系の完了や貴族院勢力を母体とする軍人の桂太郎,一方で,公家出身で,けっこうリベラルで,伊藤博文の弟子である西園寺公望。一方,伊藤や山県はこの頃もう還暦を越えてきましたので,一歩引いた元老という非公式の立場で,政治に口出しをしていきます。非公式といえども,天皇を補佐する最高顧問として後継首相の決定までしています。元老のメンバーはというと,山県・松方・黒田・井上馨・伊藤あたりが大正時代半ばくらいまで力を握っていきます。

 

 

まとめ

1881 自由党       1882 立憲改進党

1884 (解党)

1890 立憲自由党

1891 自由党       1896 進歩党(大隈)

       ↘    ↙

      1898 憲政党(大隈・板垣)

       ↙    ↘

1898 憲政党       憲政本党(大隈)

       ↓

1900 立憲政友会(伊藤)

 

 

政党の推移はややこしいですが,頑張ってインプットしましょう。