日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

127 中国分割と東アジア情勢

いよいよ日露戦争への道ということでですね。あの三国干渉を経て,今度は来るべきロシアとの戦いでは「臥薪嘗胆」ということで立ち向かっていきました。

 

中国分割

一方,えらいことになった中国なのですが,まるでいじめの構図に似ています。今までは眠れる獅子として一目を置かれていた清国でしたが,日本相手に日清戦争にやぶれるやいなや「清って弱いやんけ!」とヨーロッパ諸国は次々と中国を侵略していったのでした。こういう行き過ぎた資本主義の状態のことを帝国主義っていうんでしたね。簡単にいえば植民地合戦ですよ。弱いと見るや否や,次々と中国のいろんな領土浸食していくわけです。まあもっぱら植民地化と言うよりも,租借といっていわゆるレンタルをしていくのです。

ロシア

例えばロシアは,1896年に東清鉄道敷設権を獲得し,1898年に遼東半島の旅順・大連を租借します。1895年の三国干渉の翌年に,「へい,中国!三国干渉で遼東半島戻ってきたね!よかったでしょ?誰のおかげ?そう!ロシアでしょ?だから,シベリア鉄道から南に降りてくる東清鉄道敷設権はいただくよ!」って感じですね。さらに旅順・大連を含んだ遼東半島もレンタル(租借)していくんです。もうめちゃめちゃですよね。まぁこれが欧米列強ですよ。

ドイツ・イギリス

それだけではありません!ドイツもです。「私達も三国干渉に関わっていましたらから,山東省の膠州湾を租借させてもらいますよ!」ですし,フランスも「私も三国干渉に関わっていましたから,漢字のかんたんな方の広州湾をレンタルさせてもらいますよ」ってな感じですね。このように三国干渉に関わった国が恩着せがましく中国の領地を厚かましくレンタルしていくんです。それで,それでですよ。全然関係ないイギリスまでもが「私たちはアヘン戦争以来,友達関係ですよねぇ!」っていいながら,威海衛・九竜半島を租借していくんです。いいですか?これが欧米列強ですよ。

覚え方

リ大変シア・順・大連

イツ語の講習は(イツ・膠州湾)

英会話で苦労する(イギリス・威海衛九竜半島)

(フランス)は州湾(つながり)

日本

日本なんて何をしているかっていうと,福建省の不割譲を中国に認めさせているんですよ。不割譲っていうのは「誰にもやるな!」ってことですね。「おい中国!福建省あるやろ?あそこ誰にもやるなよ!烏龍茶めっちゃ旨いところやねん。烏龍茶だれにもやるなよ!」日本ができるのはこれが精一杯なんですよ。

アメリ

そして,アメリカです。アメリカは,当時の大統領モンローが「どこの国にも干渉しない。だからうちの国にも干渉しないでね!」ってモンロー宣言をしていたんですね。だからこの中国分割には加わりませんでした。しかし,しかしですよ。みんながあまりにもガバって中国を食いにいったもんだから,アメリカも羨ましがって「みんなとりすぎ!ちゃんと僕の入る隙間もあけといてね!みんなずるいよ!」って国務長官ジョン=ヘイ門戸開放宣言をするんです。とりあえずアメリカは東南アジアのフィリピンを獲った上で,ここを拠点に中国本土へ乗り込んでいったのです。

 

東アジア情勢

さぁ,もう中国人からしたら「お前らいいかげんにしろ!もう中国から出ていってくれ!」ってなりますよね。「出ていってくれ!」って言った人たちが実際にいたんですよ。それは誰かと言うと義和団です。「扶清滅洋」のスローガンのもと,中国を守り西洋を滅ぼすために立ち上がった義和団という宗教団体が,北京の列国の公使館を滅ぼし,1899年に義和団事件が起こしたのです。この義和団の人たちは3年間空手の修行をしたらピストルの弾すら当たらないっていう触れ込みは広がるくらい強い空手家集団でもあるんですよ。これに押された清国政府に「義和団すごいやん!オレたちの清国軍隊も欧米へ出ていこうぜ!欧米列国に宣戦布告しようぜ!」ってことで,これが世にいう1901年の北清事変へと発展してしまうんです。

 

これで列国が出兵して鎮圧にかかるのですが,この中でも日本は一番遅れて(極東の憲兵ともいわれる)大量の兵を派遣して鎮圧に成功します。いいですか?中国分割→義和団事件→北清事変といった流れを理解してくださいね。そして,北清事変のあとに「おい!中国!賠償金払え!北京周辺に軍隊を置かせろ!」っことで1901年に北京議定書を結ばせます。これがきっかけで日本も北京に軍隊を常駐させることができるようになるのですが,この軍隊こそが何を隠そうあの日中戦争(1937年)を引き起こすことになるのです。それはさておき,この北清事変を鎮圧北京議定書を締結したのち,欧米列強はそれぞれの国へ帰っていくのですが,あのやんちゃくれなロシアだけは中国へ居座り続けました。なんとあの満州を占領しよったんです。もう何でもありですね。スキあらば奪ったれや!って感じです,ロシアは。

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満州ってのは遼東半島よりも上の中国東北部ですね。ここにロシアはドスーンとすわりこんでしまったんですね。各国は「おいおいロシアさん!北清事変はもう終わったんだから,早く帰りなさいな」って感じですが,そのロシアは「東清鉄道が心配デース,監視させてもらいマース」とかいろいろ理由をつけて満州に居座ったのですが,日本からしたらヤバいですよ。これから朝鮮を日本の領域に組み入れていこうとしているのに,ロシアが満州に居座られたら朝鮮に攻めてきますよ。朝鮮を攻められたら今度は日本本土がヤバいですよ。ということで,日本もここからは国防をかけた一戦で戦っていくしかないっていう流れになっていきます。北清事変後,ロシアが実行支配したことから,日本に日露戦争を決意させるきっかけとなったのでした。

 

日英同盟協約(1902)

ロシアの理不尽な満州占領によって,日本はロシアと戦うことを決意しました。その決意の現れがこの日英同盟協約(1902)だったのです。このときの内閣は桂太郎①内閣,そして外務大臣小村寿太郎でした。イギリス・日本の一方が他国と交戦したときは,厳正中立の立場をとり,ほかの第三国が参戦してきたときは同盟国を助けるといった内容でした。具体的にいうと,ロシアが日本と戦った場合,イギリスはロシアに味方はしないですよ。もしロシアと日本が戦っているときに,フランスがロシアの助けに入ったら,イギリスは動きますよ!ってことですね。これは立派な軍事同盟であり,「ロシアと戦うぞ!」っていう日本側の意思表明でもあったのです。ただ,日英同盟というのは近代日本史を見る上でも非常に重要な同盟なのです。というのもイギリスというのは当時の国際ランキングナンバー1なんですよね。日本なんかは日清戦争終わった段階で,ようやくベスト10入りした程度なんです。1位のイギリスが10位の日本と同盟は普通は組まないですよ。しかも,イギリスは「名誉ある孤立」という言葉があるように,どこの国ともタッグを組まないことで有名でした。それほどプライドが高かったんですよね。そのプライドを崩して,こともあろうことか極東の小国であった日本と同盟を結んだっていうのは,それほど日本の実力をイギリスは認めていたってことなんですね。あの青木周蔵のときに結ばれた日英通商航海条約でも,世界のどの国よりも先に条約改正をしてくれましたしね。日本も大国イギリスがバックについてくれたってことは多額のお金を借りることができました。日英同盟が金貸し同盟とまではいえないですが,他の列国からみても「あのイギリスが同盟を結んだの?しかも日本と?」ってことで一目を置かれる同盟だったんですね。日本の国際的地位が非常に高まったといえるでしょう。

 

ところで,一方で日露協商論(満韓交換論)というのもあったことを忘れてはいけません。これは,元老の伊藤博文やあの井上馨が水面下で動いてまして,満韓交換つまり満州はロシアに,韓国は日本にっていう考え方です。日露協商という条約によって,それぞれの領域を決めようといったものです。これが満韓交換論いわゆる日露協商論です。しかし,これは結局実を結びませんでした。とき首相であった桂太郎と特に強硬派であった外務大臣小村寿太郎は「伊藤くん!君は甘いよ!そんな条約結んだところで,あの理不尽なロシアが条約を守ると思うか?ロシアはそんなものすぐに反故にして,すぐに韓国に入ってくるに違いない。だからここは国防をかけてロシアとは一戦を交えるしかないんだ!」って主張し,それが日英同盟協約(1902)という形で結実したのでした。

 

国内世論

一方で,国内はというと主戦論非戦論に分かれていました。我々は平和教育をうけてきた世代ですから,戦争はよくない!って考え方がすーっと入ってきますが,当時の日本はそうでもなかった。

主戦論

列強の理不尽な仕打ち,とくにロシアの理不尽な三国干渉には臥薪嘗胆をスローガンにするほどの思いをしてきましたね。それゆえ重たい税金をかけた上で,すべて軍事費につぎ込んでいきましたし,国民にはかなりの耐久生活を強いてきました。ですのでここは戦わずしてどうする!?ということで,東京帝国大学の七博士であった戸水寛人を中心とする先生集団や,近衛篤麿らによる対露同志会が国民を扇動していきました。国民もそれに乗っていったのです。まさに明治維新から始まって,みんなで国を守ろうとする気持ちが結集するタイミングの戦争が日露戦争だったんですね。

非戦論

キリスト教人道主義的立場から内村鑑三が「戦争はいかん!」と主張,そして,幸徳秋水堺利彦社会主義者反戦を主張します。社会主義は,競争大嫌いですよね。みんな平等,均等に分け合いっ子してたら取り合いの争いなど起こるはずがないっていう考え方でした。そういった社会主義の考え方から非戦を唱えていました。とくに,この3人が活躍した新聞が万朝報です。しかし,反戦論ばかりでは新聞の売り上げが伸びなかったこともあり,途中から主戦論へと転向していきます。ですので,この3人は万朝報を辞めまして,幸徳秋水堺利彦平民社(1903)という新聞社を作って,『平民新聞』を発行しました。ここには内村鑑三は絡んでませんので気をつけてください。

 

さて,非戦論でおさえておきたいのがこの女史です。それは,日露戦争で戦う弟の無事を思って歌った反戦詩で有名な与謝野晶子ですね。ロマン主義の『明星』という雑誌で「君死にたまふことなかれ」の一句があまりにも有名です。他にも,お百度詣でという詩で夫の無事をいのった大塚楠緒子も有名です。ただ,彼女たちの詩は当時は賞賛されません。当時は主戦論が主体ですから,戦地に行く夫や弟を思う詩は兵隊さんの後ろ髪を引くようなものであり士気に影響する。こういった詩は国賊であるとまで批判を受けたのでした。