日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

128 日英同盟と日露戦争(桂①)

今回は日露戦争のお話です。日露戦争というのはは,歴史を教える者にとっては日本史世界史問わず,非常に重要なポイントでありエピソードにはことかかないわけですね。ゆえに,ついつい深みにハマってしまい時間が足りないという事態に陥ってしまいがちです。ですので,どうしてもアッサリやらざるを得ません。旅順の戦いであるとか,奉天海戦であるとか,日本海海戦であるとか,廣瀬中佐の旅順港閉塞作戦であるとか,いろんなことを喋りたくて喋りたくて仕方ないのですが,いろいろ割愛して以下のようにまとめてきたいと思います。まずは内閣ごとにもう一度おさらいをしておきましょう。

 

桂太郎①内閣

「いくやまいまいおやい」まできました。桂太郎内閣が成立させたのが1902年の日英同盟ですね。背景としては,ロシアが南下をしてきます。ロシアは寒い国ですので凍らない港を得るためにどんどん南下をしてきます。この南下の一場面として,前回お話した北清事変といって中国の実権を握っていた西太后義和団の乱を利用して,列強を追っ払おうとした事件がありましたが,そこにのっかってくる形でロシアが圧力を強め,中国北部(満州)を事実上占領していきました。南下によっていよいよロシアに迫まられる形となった韓国ですが,韓国の中でも日本寄りの人もいればロシア寄りの人もいたのですが,どちらかというとロシア寄りの人達よる政権ができ,こうしたことによっていよいよ日本海側への進出を図るわけですね。つまり日本に圧力を加えていってきました。

 

そこで,日本の対応としては,以下の通りです。

日露協商論(満韓交換論)

対露強硬論

日露協商論

日露協商といってロシアと日本の勢力範囲を決め,ロシアは満州に,日本は朝鮮半島にということで, 満州と韓国の勢力圏を決めてお互いに協調しようじゃないか,ロシアとは直接対決は避けるべきだとする考えを持っていたのが伊藤博文井上馨です。やっぱりロシアは強い,いまロシアとぶつかると負けてしまう,やっぱりロシアと日本が戦ったら日本はひとたまりもないというのが当時の一般的な見方でしたので,「あなたはここ,私はここ」という感じで,痛み分けをすることで直接対決を避けようとしました。実際,伊藤博文はロシアの皇帝に「お互い勢力範囲を決めて,戦争は避けませんか?」と打診をしていますが,シカトをされてしまい,それで伊藤・井上の日露協商論は失敗に終わります。むかしロシアの皇帝でニコライ2世という人が,日本を旅した時に切りつけられるといった日本に対してちょっと良くないイメージを持っているロシア皇帝だったということもうまいかなかった理由だと言えるでしょう。

 

対露強硬論

それとはまた別に,山県有朋桂太郎小村寿太郎らは模索するわけですね。「どうせロシアの狙いは凍らない港・不凍港なわけだから,日本海にロシアの軍艦を浮かべたいに違いない。こういう痛み分けでロシアがとどまるわけはない,いつかロシアとは利害で対立するのは目に見えているのだから,ここで戦って活路を見出していこうじゃないか!」といった主張のことを対露強硬論といいます。そして,その日本に手を伸ばしてきた国があるわけですね。それはどこかというとイギリスです。イギリスはロシアの南下を止めておきたい。このままだと清はロシアに食われてしまって,上海であるとか香港であるとかイギリスが植民地化したいと思っている一番おいしいエリアをロシアに持っていかれるわけですからね。イギリスは当時南アフリカ戦争というとっても苦しい戦いを強いられていて余力がありませんでした。なので,イギリスはインド方面や地中海方面においてはロシアの南下をクリミア戦争とかストップできる実力はあったのですが,日本海側まではとてもじゃないけど軍艦を派遣して戦争をする余裕はありませんでした。

 

イギリスがロシアの南下を止めるために,日本をいわば利用しようと,いわばうまく同盟を組んで協力しようということで,イギリスは日本に打診をしてくるわけですね。そこで,成立したのが日英同盟ですね。ロシアをあきらかに仮想敵国とする対露強硬論の発展型と思ってもらえればいいかと思います。日本にとっては強力な味方(イギリス)を得たので,これでいよいよ日露戦争に突入していくことになります。

 

国内世論

それでは,日露戦争に対する国民の意識はどうだったのでしょうか。日本国内の世論について迫ってみたいと思います。

非戦論・反戦

もちろん戦争はしないほうがいいとする非戦論,あるいは戦争反対とする反戦を唱える人たちがいました。それがキリスト教徒の内村鑑三ですね。その他にも幸徳秋水であるとか,堺利彦らの社会主義者であったりします。

 

開戦論

一方で,開戦論を唱えた代表的なものとして,対露同士会といった戦争に踏み切ろうとするグループがあげられます。国会議員や政界,財界なども含む大きなグループをつくって,天皇に「戦争をしましょう」といった意見書を出したり,あとは帝国大学の七博士が戦争をやろうといった論陣を張っていったのでした。

 

そして,『万朝報』という新聞があって,これは最初反戦を唱えていたのですが,しだいに開戦へと軸足を置くようになり,世論もどんどんと開戦論へと流れていったのでした。やはり日清戦争に勝利をしてわずか10年しかたっていないので,どこかしら戦勝ムードに乗っている感はあったことでしょう。そこで,いよいよ日露戦争が勃発するわけです。

 

日露戦争

冒頭にも申しましたように,やはり◯◯海戦,△△海戦といったように,とくに旅順の戦いでは乃木希典司令官が「203高地をめざして突撃!突撃!」と旗を振り,日本からは児玉源太郎という人がやってきて,「お前の軍をオレに預けろ!」みたいなドラマがたくさんあるのですが,この調子で続けていくといくらあっても時間が足りませんので,ここではまず陸戦ではどういった戦争があったかというところから話をしましょう。

 

まずは,両国相互に宣戦布告があって,旅順要塞の占領(1904年)から始まります。もともと持っていた遼東半島のさきっぽである旅順をまずは押さえないといけませんよね。このとき乃木希典司令官による肉弾戦がありました。ロシアに機関銃を一斉掃射されて,たくさんの死体が山積みになったといわれているのですが,旅順を何とか力押しで占領し,どんどん登っていって,最終的には奉天会戦(1905年)までです。これは日本軍25万人VSロシア軍32万人といった戦いで,圧倒的に日本軍が数的には不利だったのですが,ロシアは日本軍のおとり作戦にまんまと引っかかってしまい,なぜかロシア軍は撤退していったことにより,日本軍の勝利となりました。そして,何よりも日本海海戦(1905年)はパーフェクト勝利でした。日本の連合艦隊司令長官である東郷平八郎が,ロシア最大のバルティック艦隊を破りまして,海戦史上まれに見るパーフェクト勝利を手にしました。ちなみに,このことが『坂の上の雲』という小説にかかれてありますので,ぜひ読んでほしいと思います。

 

坂の上の雲 全6巻セット

坂の上の雲 全6巻セット

 

 

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日本海海戦で勝利をおさめた要因には,やはり前回やりました日英同盟の効力が発揮されています。ヨーロッパからアジア方面へむかうスエズ運河という運河があるのですが,イギリスは同盟国日本のためにスエズ運河を閉ざすわけです。なので,ロシアのメインの艦隊であるバルチック艦隊は,地中海からではなくアフリカを大回りして太平洋コースでまわらざるを得ないわけですね。そんな疲れ切ったバルチック艦隊を打ち破ったのが日本海海戦です。

 

日露戦争終結

日本は,ロシアという巨大な敵に対してギリギリの戦いをしていました。ロシアという巨人に立ち向かっていったわけですから,ほんとに首の皮一枚でつながっているような戦いの中で勝利を重ねていくような状況でした。まぁ,だから日露戦争は興味深いのですが,ただ日本はもう国力が尽きてしまったので,これ以上はもう兵隊を死なせるわけにはいかないし,みるみるうちに弾薬が消耗してしまっていたので,このまま戦争を続けていくわけにはいきません。

一方,ロシアもロシアで,”血の日曜日事件”をきっかけに,もうこれ以上の国民を苦しめる戦争はしないでくれ!といった第一次ロシア革命がおこり危機感がありました。なので,日本は日本で国力に限界を感じ,ロシアはロシアで遠く東のことわっているという余裕がなくなってきていたことは事実です。

 

ポーツマス条約(1910年)

そこにアメリカの大統領でセオドア・ローズヴェルトの仲介もあって,ポーツマスで講話会議が行われました。これが有名なポーツマス条約ということになります。アメリカの大統領がここで突然でてくるカラクリは何なのかというと,あの外交上手な小村寿太郎という人物がセオドア・ローズベルトに「もしものときには仲介してくださいね。」という交渉を水面下で行っていました。「日本はこれから戦争をやるのですが,勝ち切るということはおそらくできないでしょう。相手に目潰しを仕掛けておいて,相手がひるんだところで「今の日本の勝ちですよね」って言って下さい」とお願いをしていたのです。仲介者を予め立てておいて,「日本がラッキーパンチを数発当てたところで,日本の勝ちだ!と言ってくださいね」って筋書きがもともとあったという感じですね。

 

ということでポーツマス条約を教科書的にもう一度まとめるならばこうです。ポーツマス条約は日露戦争講和条約であり,日本全権は小村寿太郎でした。小村寿太郎は背が低くて,小柄で紙も薄かったのでハゲネズミといわれていたのですが,やはりあたまのキレと外交能力はピカイチだったこともあり,小村寿太郎がうまくセオドア・ローズベルトを動かして,日本がちょっと勝ちかなっていうタイミングのところでうまく講和に持ち込んだのでした。余談ですが,この講和を斡旋したことからローズベルトはノーベル平和章を受賞することになりました。ちなみにロシア全権は誰かというと,ヴィッテという人物です。世界史ではかなり頻出な人で,傾きかけたロシアをなんとかしようとした人です。

 

では,このヴィッテと小村寿太郎の話し合いによってどういったことが決まっていたのでしょうか。

韓国に対する日本の指導権,監督権の承認
② 清から旅順・大連を租借権
長春以南の鉄道と付属権の譲渡
北緯50度以南の樺太の割譲

 

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韓国はロシアにつくのか日本につくのかといった状況でしたね。そこでここは,①韓国は日本の勢力圏ですよっていうことをきっちりロシアに認めさせていったのでした。また②については,これまで旅順・大連の租借権はロシアがもっていたわけですので,ロシアが清から租借していた旅順・大連をそのまま日本に租借権を移行したということになります。さらに③については,清には長春という街があるのですが,この長春以南の鉄道(のちの南満州鉄道)であるだとか,石炭であるとか鉄山とか鉄鉱石あるいは沿線の土地であるとか,そういった鉄道に付着しているいろいろな権利をロシアから奪取していくことになります。最後に④についてですが,これは地図を見ればバッチリ乗っているのでわりと有名なのですが,北緯50度以南の樺太をビシッと割って南半分は日本のものとするということでロシアから割譲を受けました。

 

しかし,賠償金要求は拒否されました。ここがめちゃくちゃ大事です!賠償金はもらえなかった。日清戦争のときは莫大な賠償金を清からごっそりとることができたので,それに味をしめた日本は今回も賠償金をほしいわけですね。やっぱり国力を使い果たしてまでやった戦争ですので賠償金がほしいところだったのですが,拒否されてしまいます。小村寿太郎も,相場的にはやはり賠償金がとれるほどではないと踏んでいました。ロシアの軍隊にこそダメージを与えたけども,ロシアの国そのものたとえばモスクワとかペテルブルグといった都市については無傷だったこともあり,これはさすがに賠償金はとれるところまではロシアを追い込んではいないということで,このポーツマス条約上では賠償金はとれずに矛を収めたのでした。しかし,このポーツマス条約の内容に対して日本国民は反発をします。「日本政府!そんな弱腰でどうする!」いった感じで,各地で暴動が起き,中でも日比谷焼打事件が有名ですね。

 

今回は第一次桂太郎内閣でおきた日英同盟から日露戦争,そしてその後に結んだポーツマス条約について紹介をしました。かんたんにまとめると以下のとおりです。

日清戦争日露戦争の流れ

 

朝鮮問題勃発

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  ⬇ 壬午軍乱・甲申事変

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日清戦争下関条約

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  ⬇ 三国干渉ーロシアの南下

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日露戦争ポーツマス条約

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  ⬇ 韓国の支配権

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韓国併合

 

壬午軍乱や甲申事変で朝鮮と揉めます。朝鮮と揉めると必ず親である清国が出てきます。出てきたところで日清戦争が勃発します。勝利をして遼東半島などを割譲するも,ロシアなどの三国干渉により関係が悪化すると,いよいよ日露戦争へ突入。ロシアに勝利すると,賠償金は得られなかったものの,韓国の支配権から何から利権を獲得することに成功した日本だったのでした。

 

今回は以上です。