日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

129 桂園時代・日露戦争後の国際関係(韓国併合)

今まで明治政府を主に動かしていたのが,山県有朋とか伊藤博文などでしたが,彼らは第一線から退いたあとも元老として首相を選任していきます。この山県系にあたる桂太郎,そして伊藤系の西園寺公望で交互に首相を歴任します。ちなみに,第1世代が西郷,坂本,木戸だとすると,第2世代が山県,伊藤,そして第3世代が桂・西園寺というイメージを持ってもらえればいいかと思います。

 

第1次西園寺公望内閣

それでは第3世代あたりの政権の様子を見ていきたいと思います。とはいっても第一次桂太郎の内閣の話はすでに日英同盟から日露戦争の流れはお話ししたので,第一次西園寺公望内閣からいきましょう。さて,第1次西園寺公望内閣の政策というわけではないのですが,ちょうどこの時期に南満州鉄道株式会社関東都督府の設置がされました。つまり,日露戦争後の国力増強策ですね。

 

鉄道国有法1906年の公布はちょっと頑張って覚えましょう。当時私鉄が17社ととても多かったのですが,輸送を円滑化するために買収し国の鉄道にするわけですね 。日本全国でいろんなところでいろんな会社が私鉄どんどん広げていくわけですが,そうすると日本は私鉄だらけになってしまうので,この大私鉄を全部買収をしていて一つにつなげる方が効率がいい高まるという狙いがありました。

 

そして,日本社会党が承認されます(1906年)。社会主義は当時否定されていました。本来ならばすぐに潰されるところだったのですが,西園寺さんはわりとリベラルな考えを持った政治家でしたので,日本社会党が合法化されます。しかし,やはりちょっと危険だということで翌年には解散させられますが。

 

あともう一つ,帝国国防方針(1907年)です。これは西園寺内閣が決めたわけではないのですが,当時日露戦争後,勝って兜の緒をしめよ,備えあれば患いなし,さらなる軍備増強は必要である!ということで,軍部が決定した方針です。

明治四十年の恐慌などがありまして,西園寺内閣は総辞職します。

 

第2次桂太郎内閣 

そして,第2次桂太郎内閣のときには,まず戊申詔書(1908年)というの文書を発布します。これは国民の引き締めと皇室の尊重を説いたものです。どういうイメージで説かれたのかというと,別に浮かれているというわけではないのですが,日露戦争の勝利によって国民は「日本勝った!また勝った!」などの節回しが流行するほど戦勝ムードに浸っていたわけですので,「日本は列強の一員となったんだからイギリスやフランス・ドイツなどとか肩を並べる国になったのだ。国民は引き締めてあとは皇室を尊重してここらで一度兜の緒を締めよ!」というような雰囲気でこの戦勝ムードの引き締めを図ったのでした。

 

それと合わせる形で地方改良運動(1909年)がありました。これは地方政治を司る内務省が中心となって,各地方自治体の産業を進行し,その町村の財政再建を図ろうとし,新しい町村に再編成,税収増を図りました。国力増強というのは,地方の隅々まで力強くならないと,本当に強くなれません。たとえば地方が貧乏だと,地方から税金をとれないですよね?だから,地方の地場産業をしっかり鍛えて,各町村が豊かになって日本の隅々まで豊かになれば,税金は徴収でき,軍備増強ができるっていうのが狙いですね。

 

また,大逆事件(1910年)という社会主義者の大弾圧事件が起こったのもこのときです。そして韓国併合(1910年)で,朝鮮半島は日本の政府が支配する地域となりました。

 

さて,当時の労働者の環境はひどいものでした。国力増強といっているにも関わらず,未来の日本兵となる未成年を馬車馬のごとく働かせてしまえば,国力増強などできませんよね。そこで,15人以上の工場には工場法(1911年)を適用して,労働条件を改善(12歳未満の労働禁止,年少者や女子の労働は12時間以内,深夜労働の禁止など)しようとします。しかし,これは不徹底に終わってしまいます。なぜか?この時代は資本主義で動いているので,どうしてもカネ儲け優先になってしまうんですよねぇ。カネ儲けにブレーキをかける工場法ですので,日本の産業革命を担っていた製糸・紡績業の資本家から大反対に合ってしまいます。カネ儲けする人間はとことん利権が欲しいですからね。ですので,工場法は1911年に制定されますが,施行は1916年でして,大隈重信内閣のときまで延期されます。制定されたタイミングと施行されたタイミングが違う場合は要注意ですよー。

 

一方で,日米通商航海条約が改正(1911年)されて,条約改正が達成されたのも第2次桂太郎内閣のときでした。

 

第2次西園寺公望内閣

さて,ここで明治天皇崩御します。新元号大正になります。ですので,大正時代についてはまた後ほどお話をしようと思います。

 

 

 

日露戦争後の国際関係

ここからは,少し話題を変えて日露戦争後の国際関係についてみていきましょう。いよいよ朝鮮半島の植民地化が進んでいきます。なぜなら朝鮮半島については,まず日清戦争で清国と朝鮮半島との親分子分関係を切り離し,日露戦争では「そこ俺の!俺の!」っていった形で,一番利害がかち合うはずのロシアに「今,朝鮮は日本の勢力圏です」って認めさせているわけですので,誰も口を挟めない状況になっていますよね。列強諸国も例えばロシアはもちろんポーツマス条約で韓国に対して日本の支配権を認めていくっていう話になっていましたし,イギリスは日英同盟を改定することによって朝鮮は日本の勢力圏ですっていうことをきちんとを明記するようになりました。そして,アメリカとは桂・タフト協定で,アメリカが手を伸ばしたフィリピンを「確かにアメリカのですよ!」「朝鮮は日本のものですよ!」ってお互い認め合います。このように。日清・日露戦争の勝利で誰も口をはさめなくなっている。そしてロシア・イギリス・アメリカからも朝鮮半島は日本のんだよって後押しを得たことで日本はこれ から大手を振って韓国の植民地化に乗り出すということになります。

 

日露戦争の勃発と韓国進出

まず日露戦争勃発と同時に韓国の支配をしていきます。日露戦争は日本とロシアの戦いなのですが,戦場は中国東北部いわゆる満州なんですよね。だから日本からすれば,朝鮮は非常に大切な前線基地なのです。さらに,済物浦条約ですでにソウルに軍隊を置いてもいいってことになっていたので,日本も韓国に対しては軍事的な威圧,軍事的な緊張を背景にけっこう理不尽な内容を押し付けていくことになります。まずその皮切りとして,「おい!韓国,日本に自由な軍事行動を認めよ!そして,韓国の軍事基地の提供をしろ!」という内容の日韓議定書(1904年)を結ばせます。

 

つづいて矢継ぎ早に第一次日韓協約(1904年)では,韓国政府に「おい!韓国,おまえの国は遅れた国である。遅れた国が金勘定などできるまい。かわりに日本が財政のアドバイスをしてやるから財政顧問を置かせろ!」「おい,韓国!おまえの国は遅れた国である。悪い国と付き合ったらとんでもないことになるぞ。かわりに日本が外交のアドバイスをしてやるから外交顧問を置かせろ!」といった内容でした。日本もなかなか勝手な言い分をしたもんですね(笑)

 

 

韓国の保護国

さて,日露戦争が終わるやいなや,日本は韓国と条約を結びます。第二次日韓協約では,韓国の外交権を奪いました。国際社会のお付き合いのときに,韓国は他の国とお付き合いはできず,日本に成り代わってしか外交をできなくしたのでした。こういうことを保護国化といい植民地化の一歩手前の状態です。そして,外交権を奪ったところで,韓国のソウルに統監府を設置します。この初代統監伊藤博文が就任します。

 

このようにこれから韓国を保護国化していくわけですが,日本がこういう目立った動きをすると必ずストップをかけてくるのが欧米列強諸国です。とくにロシアとかね。ですので,日本は事前にアメリカやイギリス,ロシアとは調整を図ってスムーズにことを運ぶ準備をしています。

アメリカに対しては「おたくもフィリピン植民地にしてはりますやん!日本はそのことガタガタ言いませんから,日本が韓国を保護国化していくこともガタガタ言わんといてな」って感じですね。

イギリスに対しては「おたくとは友達やんな!友達の仲なんやから,日本が韓国を保護国化していくこともガタガタ言わんといてな。あ,そうそうもしおたくの植民地であるインドで何か起こったときには,インドまで助けにいくからさー」って感じですね。

そして,ロシアとはあのポーツマス条約で「おい,ロシア!お前ら敗戦国なんやから,韓国の保護国化についてはガタガタ言うたら承知せんでー」って感じですね。ということで,ポーツマス条約というのは,日露間の講和の顔と,韓国の保護国化に対する日露間の認識という顔といった2つの内容が盛り込まれているんですね。

 

韓国の植民地化

さて,ここにきて韓国の国王・高宗がハーグの万国平和会議に密使を送って「日本は我々を植民地化しようとしている!日本はひどい国です!」ということを訴えるのです。これをこのハーグ密使事件(1907年)というのですが,他の帝国主義諸国とくにアメリカは「へい,韓国!桂・タフト協定で了承済なんだよ。」イギリスも「へい,韓国!そんなことは第二次日英同盟で了承済みなんだって。」ロシアも「韓国さんよ,オレたちは日露戦争で負けたんだ。残念ながらそのことはポーツマス条約で了承してんだよ。」ってな感じで見事にスルーします。

 

このハーグ密使事件(1907年)に激怒したのは日本ですよね。「おい!韓国。お前らには外交権がないのにも関わらず何勝手なことしてくれてんねん!」ってことで,日本政府は第三次日韓協約(1907年)でなんと韓国の内政権をも奪います。ペナルティとして,高宗は皇帝から退位させられ,韓国軍隊も解散させられ,これはもはや植民地化の寸前ですね。さすがに韓国もこれに対しては義兵運動といって反日武装運動を行います。そんな義兵運動が盛り上がりを見せる中で,ついに伊藤博文が暗殺(1907年)されてしまいます。ハルビン駅で安重根が殺害してしまいます。そして,ついには韓国併合条約によって,韓国の政府の権限を奪っただけではなく,政府そのものを消滅させた上で,韓国を日本の一部とすることによって日韓併合となります。ちなみに,韓国を併合するための日本側の役所を統監府から朝鮮総督府と改めます。朝鮮総督府天皇直属の機関であり,総督は陸海軍大将が就任することになりました。この初代総督には陸軍大将の寺内正毅が就任します。

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寺内正毅

そして,日本の一部となった韓国の国号はなくなり朝鮮に改称され,いよいよ本格的に支配に乗り出していくことになります。首都の漢城京城に改められ,そして朝鮮農民から土地を奪うといった土地調査事業を進めていきます。「今日から日本が土地を調査するからな!」といいながら,書類を配ってサインをさせるのですが,日本語で書かれているので朝鮮農民は意味も分からずサインさせられます。サインした書類は土地調査という名目で,土地を譲渡させた上で調査する書類だったのですね。結構ヒドイやり方をするもんです。そして,譲渡された土地はというと,東洋拓殖会社(1908年)へ売却され,日本の地主たちに転売されていったのでした。

 

第一次日韓協約・・・日本の外交顧問を置く

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国保護国化に対する列強の合意

(桂タフト協定・ポーツマス条約)

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第2次日韓協約・・・統監府をおいて保護国化する

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第3次日韓協約・・・内政権と軍事権を移行する

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韓国併合条約・・・朝鮮総督府を置き,韓国を併合する

 

満州支配

日露戦争でもう1つ認められたのが,旅順・大連や長春からのびる鉄道もゲットしましたので,まずは満州支配についてのお話をしておきましょう。満州満州でも,南の部分を関東州と呼ぶのですが,そんな旅順・大連の租借地である関東州を設置します。その関東州を監督した日本の機関が,関東都督府です。韓国統監府,朝鮮総督府関東都督府・・・かなり間違いやすいのでご注意を!

 

さて,朝鮮半島の付け根の部分には遼東半島があるのですが,その遼東半島の一番南の部分を関東州といい長春〜旅順・大連にのびる鉄道があるのですが,この鉄道のことを日本は南満州鉄道と名付け,南満州鉄道株式会社(1906年を設立するのでした。

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この会社は半官半民の国策会社,いわゆる植民地会社なのですが,鉄道には,ただレールを敷くだけではなく,周りの鉄鉱石を掘り起こしたり,水の権利であったり,駅周辺の土地を開発するなどトータルカンパニーとしての南満州鉄道株式会社だったのです。

 

このように南満州を経て,日本は朝鮮半島をゲットしていくわけですね。そうすると,この中国そして朝鮮半島,ロシアをめぐるパワーバランスがかなり日本に偏っていくわけですね。そして,三国干渉のように特にアメリカが熱心に「日本さぁ!この辺ちょっととりすぎなんじゃないの?関東州あたりはロシアに返しなよ!」って感じで干渉をしてくるわけですね。つまり,アメリカは門戸開放宣言をしているのに,それを無視している日本を面白くは思わないですもんね。しかし,日本は日露戦争でロシアに勝利していることもあって,ロシアと協約を結んで「いいですよね?ここはやはり日本のものでいいですよね?」と勢力範囲を確認しあうわけです(日露協約)。