日本史オンライン講義録

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130 明治後半の経済

今回は明治後半の経済の世界をちょっと見てみようと思います。

 

政府財政の危機

実は,明治前半の経済というのは,大蔵卿に就任した1873年からから明治十四年の政変で失脚するまでは大隈重信が仕切っていたといっても過言ではありませんでした。どんな経済政策だったのかというと,一言でいえば殖産興業の推進をしたのです。

 

具体的には,貿易面では輸入超過でした。まだ条約改正交渉の最中でしたし,関税自主権が欠如していた状態でしたので,いろいろなものを買わされて正貨(金・銀)が流出してしまいました。一方で,不換紙幣の増発が続いていたため,インフレーションが起こっていました。これは,国立銀行条例改正(1876)によって,不換銀行券がバンバン発行されましたね。忘れたーという人は,114 殖産興業 の回に戻って復習をしておいてくださいね。初めは金の保有量だけ紙幣を発行する健全なシステムをとっていたのですが,いかんせん日本は金の保有量が少なかっったために,発行できる紙幣にも限りがありました。産業の育成という面では効率が悪かったため,のちに金に交換できなくても不換紙幣を発行してもいいですよってことになったので153行の民営銀行が現れたのでしたね。ただし,スキなだけ紙幣が発行できたので,紙幣の価値が薄まってしまいインフレが惹起されたのでした。

 

また,あの西南戦争とかでもかなりの戦費がかかったこともあったので,たくさん政府紙幣を印刷してしまい,挙句の果てにはお金が有り余ってしまい,海外も「こんな価値の薄いお金なんてお金として受け取れないよ」ってことで貿易もあまりできなくなったったのです。

 

そして,財政危機を招くことになります。財政危機はなぜ起こるのか?というと,実は明治政府は,定額金納地租の歳入に頼っている状態だったので,物価があがってしまうと実質的に歳入が減少してしまうことになるんですね。何が言いたいかというと,当時は地租改正というのがあって,自作農(土地所有者)には地券を発行し,面積や米の取れ高を定めて地価の3%(のち2.5%)を地租として徴収しました。ところが,例えば,仮に地価が600円とします。毎年この地主は600円✕2.5%=15円を毎年納税することになります。政府はこの15円を徴収し,兵器会社に出向いて15円のピストルを買いました。これで軍備拡張ができますよね。

 

こうやって軍備増強を図っていきたいのですが,ここでインフレが起こったとしたらどうなるのでしょうか?例えばインフレで150円のお茶が300円になったとしましょう。そうすると,この地主が払う地租はいくらですか?ここで,15円の2倍だからといって30円と答えたらダメですよ!だって地価は一旦定められたら変わらないんです。ですから,物価が上がろうが,下がろうが地租は一定ですので歳入は15円なのです。政府はその15円を握りしめて,また兵器工場に言ってピストルを買おうとするも,インフレで物価が2倍になっちゃったので,15円✕2=30円払わないと買えないんです。そうすると,政府はピストル買えませんよね。これだと軍備拡張など出来ません。そうなんです,インフレだと国力増強は図れないっていうカラクリなんですよね。

 

松方財政の好転

さて1881年になると,開拓使官有物払い下げ事件によって明治十四年の政変大隈重信は失脚させられますと,今度は大蔵卿に松方正義が就任します。松方正義は,のちに松方財政といって,お金を一旦回収し処分して代わりに銀と交換可能兌換紙幣しか発行できないようにしたのでしたね。これのことを財政の引き締めとか緊縮財政といって,軍事費以外の支出を抑制します。簡単にいうと国民にお金が行き渡りにくくする政策ですので,今度は物価が安くなっていきます。この松方財政のことをデフレ政策といいました。しかし,これは民衆にとってはお金が手に入りにくくなりますし,でも地租はお金で払わなくてはなりませんでしてので,非常に苦しんだのでした。ところが,松方財政の狙いは,デフレ政策をとることによって,行き過ぎたインフレを正常に戻すことになったのです。つまり,国としては下がっていたお金の価値が再び高まって,円の価値が高まれば,海外とも日本円でたくさん貿易できるようになりますよね。ってことで,明治前半は松方財政によって一時的には苦しんだのですが,明治後半になると松方財政はなかなか良い方向に転んでいくわけです。

 

もう一つは,金利の低下です。つまり,お金の発行量が下がるんですよね。ってことはお金を貸す側の銀行も貸付額が少なくなり,金利もそれにともなってとれなくなりますね。お金の量が一年で2倍も3倍も増えたら,たとえば100円をお金を貸したとして,その間にお金の量が2倍になったら,利子をつけて110円返してもらっても割にあわないですよね。だから200円とか300円とか利子をつけなきゃ割にあわないです。お金の量が増えていく松方財政の前は,利子をたくさん取らないと銀行もやっていけなかったのですが,松方財政でお金の量をしぼったので利子も抑えられたのでした。すると,お金を貸す側もあんまりこれは儲からないので,銀行に預けるよりも企業に貸して儲けをとりたいなって思うようになるんですよ。つまり,株式取引が活発化していくのです。そこで,松方財政の引き締めが成功したところで,日本にとってはもう一つラッキーな状況が生まれるわけです。

 

日清戦争後の戦後経営

日清戦争(1894年)に勝ったことによって,巨額の賠償金を得ることが出来ましたね。この賠償金で日本は何をしたのかと言うと,金を世界中から買い集めて日本円の信用をさらに高めようとしたのでした。そうして,貨幣法を制定して,金本位制を採用します。たとえば,お札を発行してこのお札と同じ価値の金貨をつくり,お札と金貨はいつでも交換できますよってしたのでした。また,海外と取引をするときも,お札で払うけど,このお札を日本に持ってきてくれればいつでも金貨と交換しますよってしたのでした。そのために,巨額の賠償金を元手に世界から金を買いまくったのでした。そして,。金回りがよくなったところで,いろんな産業を興そうと考えたのでした。さらに,政府は特殊銀行という銀行を整備していきました。政府がこの分野に力を入れたいなっていう特定の産業に資金を注入していくわけですね。たとえば代表的な特殊銀行として,日本勧業銀行が挙げられます。のちに合併などを繰り返して,第一勧業銀行となり,いまではみずほフィナンシャルグループへとつながっていくそのルーツとなった銀行です。日本勧業銀行は,主に農工業の改良,発展や長期の貸付などを行っていきました。ここでいう農業っていうのは蚕を作って糸をとりだす製糸業であったり,綿花から綿の糸をとりだす紡績業であったり,いわゆる軽工業のことですね。そして,名前が似ているのですが,日本興業銀行です。この銀行は,業を興すって書くわけですので,産業資本の長期融資機関として,重化学工業などの企業にお金を貸していく銀行だと思ってもらえればよいかと思います。あるいは,各府県に設置された農工銀行などもありました。さらに横浜正金銀行といって,横浜というぐらいですから貿易業の金融を行っていました。

日本勧業銀行軽工業

日本興業銀行:重化学工業

農工銀行:各府県に設置

横浜正金銀行:貿易の金融

 

貿易の拡大

このように横浜正金銀行などがあると,貿易が拡大していくんですよね。どういった分野で拡大していくかというと,綿花や機械や鉄などですね。つまり,原料とか,製品をつくりだすモノですね。要するに,日本も産業革命が進んできてモノをつくることができるようになってきたってことです。そこで,三井物産会社などの相場をみて,日本の企業と外国の企業との間に入ってやりとりをする商社が活躍するようになりました。そうすると,何が必要になってくるか?というと,船が必要になってきますよね。

 

海運業の奨励

これからどんどん海外と取引するためにも船がたくさん必要ですから,造船奨励法航海奨励法が制定されます。裏にはもしまた日本が戦争に直面したら,戦争にも利用できますよね?兵隊を運ぶため,病院として使うため,引き上げに使うため,など戦争にも流用できる船をつくるようになったのでした。これまでは船といったら海外から購入するしかなかったですからね。そして,会社としては日本郵船会社ですね。郵船っていっても郵便とかとは関係ありません。これは,遠洋航路を開拓していきました。現代でも日本郵船世界で5本の指にはいるほどの海運会社ですね。横浜港に客船の氷川丸が展覧されていますが,あの船も日本郵船が所有している船なんですよね。

 

鉄道事業

ついでに鉄道についてもみておきましょう。官営つまり国の鉄道事業としては,東海道線を全通させました。いままで鉄道といえば,新橋〜横浜間,神戸〜大阪〜京都でしたが,この時代になると東京から神戸までが全通します。そして,民営すなわち私鉄では,日本鉄道会社など多数が広がっていきました。そうするとこの私鉄がたくさん作られるようになったので,全部つなげてしまえば合理的だし,もし戦争が起きても北海道から本州へ兵士を派遣することもできるということで,鉄道国有法が施行されました。民間鉄道17社を買収して,私鉄同士をつないで国有鉄道化します。これを国鉄,いまはJRと呼びます。